ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

意外なことが運び来る幸せ

2009年07月30日 | 随筆・短歌
 私は大学入試に失敗した経験があります。私の得意とする科目は数学で、私は進学に当たって、理学部数学科を受験したいと思いました。ところが、古い考えのの持ち主だった父は、絶対反対でした。「女が数学なんて勉強してどうするか」というのです。私の一歳年上の姉は、とても器用な人で、和裁や日本刺繍、お箏など師範級で、実際にお箏は今も教室を持って教えていますし、師範の免状を持っています。比べて私は何事も中途半端で、お花もお琴もお茶もみな初伝程度で終わってしまい、今でも何も出来ません。
 そんな姉は言われるまでもなく、家政科を選びました。私は家庭科と体育が苦手だったので、進路選択で父とぶつかって、三日間口を利きませんでした。でも三日で私は降参して、東京のさる国立大学の家政科を受験したのです。ところがあれほど得意であったはずの数学でつまづいて、たった二問しか出なかった問題が、ごく一部しか解けず、見事に落ちてしまいました。
 合格発表を見る迄もなく、私は落ちたことを確信していましたが、その頃東京の大学に通っていた兄が、もし落ちたら、「○○へ行け」と私立の大学の名前を入れて、電報をよこすことになっていました。二期の国立大学にも願書は出してありましたが、不本意な国文科でしたので、行く気がしなくて受験もせず、結局私立にしたのです。
 生意気だった私はすっかり鼻をくじかれてしまい、否応なくこれが私の実力だと現実に目覚めてからは、妙に謙虚になって、以来余り出しゃばらなくなったような気がします。 要するに身の丈に合った生き方を選ぶようになった積もりです。(これは本人ではなく第三者が判断することでしたね)そして以前書いたように、父に背中を押されて職業を選び、今の夫と結婚して現在に至って居るわけです。もし、あの時受験に成功していたら、私は今の幸せを知らずに過ごしていただろうと思います。夫との出会い、子供に恵まれたこと、そしてささやかではありますが毎日の中に幸せを見出すことの喜び等々、言いようのない幸せを手にしました。
 人生は一度きりですから、もしあの時、ということは通用しません。今現在の一筋の道を、自分に与えられた道だと考えるしかありません。そう思えなかったら、幸せにはなれないと思っています。自分にどのような才能があるかも解らないことが多く、得意ではなかった国語でしたが、こうして随筆を書いたり、短歌を作ったりして、老後の楽しみを紡いでいます。体育が苦手だったのに、変形性膝関節症といわれてから、せっせとフィットネスクラブに通ってリハビリの筋トレに励み、痛みは改善されるし、運動がまたとても楽しくて、以前の私には考えられない事ばかりです。全ての失敗はその後の人生に何らかの役に立って生きて来ます。そう思うと多くの失敗はそれなりに幸せに結びついて行くのですから、あまり失敗を恐れたり失望せずに、楽に生きられる気がするのです。
 私の尊敬する歌人の斎藤茂吉の短歌に次のような一首があります。読む度に感動します。

  あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり  斎藤茂吉

  あの入試得意でありし数学を解けざりて在る今の幸せ あずさ(某誌に掲載)

旅先で出会った親切

2009年07月27日 | 随筆・短歌
 私達夫婦は、一年に何回か旅に出ます。行く先々で親切にして頂いて感謝する事が多く、私達も日頃から人様に出来る限りの親切をしなければ、と思わせらることが度々です。
 その親切さが忘れられない想い出が幾つかありますが、その一つに京都の嵯峨野からの帰りに出会った、ご婦人二人の想い出があります。
 その日は清涼寺からバスに乗って、途中でバスを乗り換えて大谷祖廟の親鸞のお墓にお参りする予定でした。また何時来られるか解らない嵯峨野の風景を惜しみながら、キョロキョロしてバスを待っていた私達は、瀬戸内寂聴さんの「寂庵」へ行った帰り道というご婦人の二人組に出会ったのです。
 その一人が「遠いところから、わざわざ京都へお越し下さいまして有り難うございます。今日頂いたおふだが先日のおふだと同じなので、差し上げましょう」と仰って、表が色鮮やかな優しいお顔の観音様で、裏に曼荼羅山寂庵とあるおふだを一枚下さいました。
 寂庵は、以前嵯峨野廻りをした時に、出来てまだ年月の浅い庵を、それも親切なご婦人に「寂庵はこの先を右ですよ」と、寂庵をお聞きしたわけではない私達に教えてくださったのをご縁に、尋ねたことがあります。
 二人のうち少し年下と思しき方が、「私も市の中心部に行きますから、ご案内しましょう」と仰って下さいました。バスを繁華街で下車して、そこからは私達と一緒に歩いて案内して下さいました。「奥様はおみ足がお丈夫そうですから」と私に向かって仰って、どんどん歩いて「この道を真っ直ぐ行くと鳥居がありますが、その先です。私は此処で方向が変わりますので失礼しますが、どうか良い旅を続けられますように」と仰り、別れて行かれました。私達は大変有り難く、丁寧にお礼を言ってお別れしました。上品で清楚で温かい古都の女性を目の当たりにした思いでした。
 しかし、大谷祖廟はそこからまだまだ遠く、すっかりバテテしまいました。汗を拭き拭きやっとたどり着きましたが、何とも気持ちの良い疲労感でした。観光地の住人は観光客に不親切だと時折聞きますが、それは間違いだとこの方達は教えて下さいました。その時のおふだは、今は我が家のお仏壇に大切に飾ってあり、良い想い出のよすがとなっています。
 人の親切が身に沁みて有り難く思えるのは、特に道に迷った時かも知れません。九州まで車で行って、福岡からフェリーで途中まで帰ろうと思った時のことです。福岡港の船の発時刻は予めJTBで調べて、キップも買ってありましたし、そのキップケースに港の案内地図も印刷してありました。その日は生憎土砂降りでした。やっと港に着いたと思いましたのに、其処には船着き場らしい建物も見えず、何処から乗船するのか全く解りません。 しかし、キップを入れた案内の地図は確かに此処なのです。人に聞こうにも民家も無く、やっと一軒灯りのともっている作業場らしきところを見つけて、私が下車て尋ねました。
 そこでは三~四人の男性が魚らしきものをさばいていましたが、「地図がそうなっているなら、そうでしょう」という剣もホロロのな返事で、仕方なく元に戻り、大雨の降りしきる中をただ当てもなくウロウロしていました。持っていた九州の地図も、キップに印刷してある地図も、何回見直しても確かにこの場所を示していたのです。次第に夕暮れが迫ってきて、辺りが薄暗くなり始め、二人はパニックになってきました。
 するとその時、小型のトラックが一台近寄ってきて、その運転手さんが、「どうかしたのですか」と声を掛けてくださいました。そして雨が凄く降っている中を傘もささずにわざわざ下りて来て下さって「ここはもう港ではなくなったのです。もう別のところへ引っ越しました」と仰って、ご自分がみるみる濡れていくのを構わずに、詳しく教えて下さいました。地獄に仏とは、こんな時のことだと思いました。教えられた通りにかなりの距離を車を走らせて、やっと船着き場に到着して、生き返ったようにホットしました。
 幸い時間的に余裕を見てありましたので、充分間に合いましたし、乗ってしまえば静かな船旅でしたが、福岡市の地図が古くなっていたので仕方ないとしても、チケットと一緒にJTBが下さった地図が、移転前のものだったとは、信じがたいことでした。
 今でも、あの時のあの烈しい雨の中を、わざわざ車を下りてずぶ濡れになりながら案内して下さった、年配の男性の親切が忘れられません。
 もしあの方に出会わなかったら、私達は帰りの船に乗れなかったでしょう。お名前もお聞きしなかったことが残念でなりません。今はあの旅が話題になる度に、必ずあの親切な運転手さんを思いだして、感謝の気持ちを新たにしています。

男らしく女らしく

2009年07月23日 | 随筆・短歌
 男女平等が行き渡ってきて、最近は男も女も性差が感じられなくなりつつあります。憲法で基本的人権が保障されているように、男女平等というのは大切なことですが、男女が区別できなくなることが平等だとは思えません。男性が化粧に凝ったり、女性が男言葉を使ったり、これは少しいき過ぎではないかと思います。
 日本語は世界の中でも、こまやかな表現の出来る優れた言葉だと思っています。けれども最近、女性の言葉が粗野になってきているのがとても気になります。
 元国会議員だった或る女性も、政治討論のテレビ番組で「てめえ」とか「○○じゃねえよ」とか、男性でもあまり使わないような乱暴な言葉を使っていて、それを見ると私はとても不快になって来るので、その人が出る場合はその番組を見ません。
 最近の調査によると、小、中学校でも、だんだん男女の言葉が区別できなくなってきた、とありました。それは、喜ばしいこととは言えないように思います。男性が男らしい言葉遣いや服装で、女性が女らしい言葉遣いや服装をするのが、自然にかなっていて矢張り違和感をがないと思うのです。
 美しくなりたいのは、どの女性にも共通することですが、化粧や顔や胸の整形にばかりこだわるのではなく、生き生きとした女性らしい表情に、物腰や言葉遣いが一体となって、美しい女らしさが醸し出されてくるのです。
 洗練された女性や男性は、それぞれそれらしい雰囲気を持っています。男性と同じように活躍する、エリート女性の才能や実行力には尊敬しますが、その人がもし乱暴な男言葉を平気で使う人だとしたら、私はその人の教養や品性を尊敬することは出来ません。むしろどうしてこういうアンバランスな人格になるのだろうと考え込んでしまいます。
 私の知人で、ウーマンリブの活動家の人が「男にスカートをはかせたい」と言っておられましたが、その方のご主人はスカートをはいてはいませんでした。身近な人さえ動かせずに、どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。勿論男性がスカートをはいても少しも可笑しくない時代もあって、今でもイギリスの儀仗兵はスカートをはきます。
 スカートをはかせる事が男女平等だとはき違えている、この思考の単純さには呆れるばかりです。
 男女平等は外見を同じくすることではなく、対等の心を持つことが基本でしょう。男女ががお互いに尊敬しあい、理解し合い、男性は真に男らしく、女性は真に女らしく、自分に誇りを持って過ごすことが望ましい男女平等なのではないのでしょうか。そういえば、その人は「男にも子供を産ませたい」と仰っていました。子供を産む苦労を男性にも味わわせて、女性の苦労を理解させたいと言うのです。
 しかし、子供を産むということは、神が女性に与えて下さった素晴らしい特権です。苦では無いはずです。母性愛も自然に湧いてくるものです。今では育児に手を貸す男性も多くなって、共働きの女性には助かることですし、これはこれで立派なことだと思います。
 権利意識に目がくらんだ平等意識が、劣等感や不公平感を助長させているのだとしたら、不幸なことです。男性は男性であることに誇りを持ち、、女性は女性である事に誇りをもって、互いに尊敬し合い理解し合えたら、この生きづらい世の中ももう少し潤いがあって、生きやすくなるのではないかと思うのです。


脳死が人の死だと言われても(その2)

2009年07月20日 | 随筆・短歌
 全て脳死をもって死とする法案が国会を通過しました。ハラハラして見ていた私は、ノー、という気持ちが拭えません。
 私の娘は33歳で突然亡くなりました。勿論心臓死でした。その死に顔はとても穏やかで、少し口紅を差してやりましたら、まるで生きていて、今にも話しかけるのではないか、と思えました。皮膚は張りがあって、つやつやしていましたし、体温が引かなければ、とても亡くなったという実感は湧かなかったでしょう。
 もしこの時脳死の状態で、臓器移植に応じていたら、この様な綺麗なままの娘の遺体は見られなかったでしょう。目も内臓も全て移植の対象になりますから、包帯で巻かれた痛々しい遺体と会うことになったでしょう。
 移植の承諾は家族で良いそうですから、動いている心臓を止める許可は家族が出すことになります。これは非常に酷なことです。本人が生前から、臓器を提供すると言っていた場合でも、なかなか家族にとっては簡単に同意は出来ません。
 臓器移植に同意して、後で後悔の念に苛まれ、鬱になったり、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)になったりしている家族も多いと、柳田邦男が書いています。私などは、必ず鬱やPTSDになり、生涯苦しむことになるでしょう。
 移植医療に熱心な医師や、移植を待っている家族には、朗報でしょうが、移植を急ぐあまりに、救命処置が不十分になって、助かる命が消えてゆくようになるのではないか、という心配も拭えません。脳死と判定された患者の家族にとっては、移植に同意するよう説得されたりして困るようなことはないか、という懸念すら湧いて来ます。現実に息子の腎臓の提供を承諾した父親に、「ついでに膵臓もどうですか」と言われて深く傷ついたという例があります。
 人間の魂は何処にあるのでしょう。脳でしょうか、心臓でしょうか。一度「ご臨終です」と言われてから、生き返った人の話を世界中聞き回って書物を書いた人の話によると、この上なく安らかな状態で、先に逝った家族とも出会い、今生きている家族が集まって悲しんでいるのも解る人が多いとありました。
 だとすると、魂は心臓にあるのではないでしょうか。心臓が止まった時に初めて魂が身体から抜け出して行くように思うのは、間違いでしょうか。
 移植を待つ人にも、心臓死をもって人の死としてもらいたい人にも、良いようにならないものかと考えてしまいます。こんな大切な問題を国会議員だけで、決めてもいいのかと思います。国会議員はたとえ国民の代表だとしても、このような重大なテーマは、もっと国民の意見を幅広く聞いて、決定してほしいと思うのです。マスコミが、移植を待つ人や移植に積極的な医師の意見を、一方的に採り上げて報道するのは、不公平ではないでしょうか。本人の意志が文書で明確に示されていて、家族もそれに異存がない場合に限って、脳死を人の死とする現行法が、矛盾を抱えながらもぎりぎり妥協できる法律だったと思っています。例え幼い子供であっても、その臓器は誰のものでしょうか。本人の許しもなく、親だからといって、取り出して良いものでしょうか。大体そんな権利が親にはあるのでしょうか。
 幼児虐待が増えている今日、脳死の虐待児が運び込まれる恐れがあるとも聞きます。恐ろしい事です。私が最も恐れるのは、人間の臓器を単なる部品として取り扱う風潮が、ますます人命軽視の社会に拍車をかけるのではないか、と心配されることです。
 第一手術室には、患者を取り囲んで、医師達が脳死の規準をクリアするのを待っていて、隣の第二手術室には、臓器を貰う患者が今や遅しとその時を待っている、そんな光景を想像しただけで、ばあさまは息苦しくなってしまうのです。

あの頃に戻りたいねと夫(つま)がいふ娘(こ)は三十三で時を止めたり
あれこれと心引き裂くことありてアダージョを聴くこんな夕暮れ
                    (実名で某誌・紙に掲載)

人やさき人やさき

2009年07月16日 | 随筆・短歌
 先日親戚の大切な人が癌で亡くなりました。私達夫婦も葬送の儀式に出席して、別れを惜しみ、残された家族を思い、また人生のはかなさを思いました。
 浄土真宗のお葬式でしたので、お通夜の読経の時に、本願寺第八代法主の蓮如上人の「白骨のお文」が読まれました。この白骨のお文を聞く度に、私は人生の無常が、深々と心の奥にしみ込んで来るように感じるのです。
 私の学んだ仏典から、取り出して掲載させて下さい。

 夫(それ)人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳の人身をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき人やさき、けふともしらず、あすともしらず、をくれさきだつ人はもとのしづく、すゑの露よりしげしといへり。されば朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無情の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外にをくりて夜半のけむりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふも中々をろかなり。されば人間のはかなき事は老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏まうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 野辺の送りをすませた後は、重い心を引きずってぐったり疲れて帰宅し、家に籠もっていました。夫が学生時代の友人にメールで、白骨のおふみが身に沁みたと書き送りましたら、その友人は、ご主人が「人やさき、人やさきと思って凡人は油断をして生きている 」と仰ったと返事を下さいました。夫にその話しを聞いてはっと胸を突かれ、なんという名言だろうと目の覚める思いがしました。
 確かに、おふみの言葉に心を揺さぶられても、何処か、人や先、人や先と思ってしまっている自分に気付かされたからです。
 いたく感動して、我やさき人やさき、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身だという事を、しっかりと心に刻んで、今を生かしていただいている事を感謝しつつ、これからを生きていこうと心に誓ったのでした。

 いかに生きんいかに生きんか書を読みて出口の見えぬ夜は更けゆく
          (実名で某紙に掲載)