ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

高価な抗がん剤に医療保険は耐えられるでしょうか

2016年07月29日 | 随筆
 皆さんは、既に新聞など読まれてご存知でしょうか。一人一ヶ月に300万円かかると言われる「抗がん剤の新薬」が、昨年12月に厚生労働省によって承認されたということです。
 その薬の名前は「オプジーボ(一般名ニボルマブ)」というそうです。どんなに画期的な薬品なのかと思って調べてみましたら、外科医の中山祐司郎氏の2016年4月27日のブログ「抗がん剤が日本を滅ぼす日」によると、免疫に作用することで効果を発揮するというところが、業界にも注目されているそうです。元々は悪性黒色腫に対する抗がん剤として使われていたものですが、肺がんにも効くということになって、適応拡大されて認可となったそうです。悪性黒色腫というがんは少ないそうすが、肺がんにも適応になると、ぐっと患者さんが増えて、医療費がかさむことになりました。
 ところが劇的に効くというわけではなく、中山医師によると、肺がんに対する従来の治療法、ドセタキセルという抗がん剤と比べて、生存期間を約3ヶ月延長する(扁平上皮がんでは6ヶ月→9.2ヶ月、非扁平上皮がんでは9.4ヶ月→12.2ヶ月)というものだそうです。
たった3ヶ月の延命力しかないのに、と思うのは、がんと余り縁の無い私だからかも知れませんが・・・。
最近高齢化による医療費増大が問題になっています。がんの患者さんも増えてきています。肺がんの患者さんが第一位で、二位は胃がん、三位は大腸がんとなっています。肝臓がんが四位です(厚生労働省ホームページから)。いつの間にか、胃がんと肺がんが逆転してしまい、大腸がんが大層増えたそうです。
 加えてどんな薬でも、副作用に苦しめられる場合があります。ニボルマブも少ないとはいえ、主な副作用(10%以上)は、発熱、倦怠感、食欲減退、及び発疹(承認時)だそうです。これらを考慮しつつ、本当にこのような高価な薬の投与を、保険適用にして、医療保険制度が維持できるのかと心配になって来ます。
肺癌学会のホームページによると、このニボルマブの薬価は1ヶ月で約300万円となり、これは以前使われていたドセタキセルのジェネリック薬を使えば1ヶ月で5万円以下だそうです。そう思って比べると、たかだか3ヶ月の延命の対価としては、異常に高価に思われます。
 一人が12ヶ月使うと3600万円になります。これで製薬会社で推計した新規使用患者数の1万5千人分をかけると何と5400億円にもなります。同じ患者数で三年も使うと1兆6千2百万円になります。
 中山医師によると、増え続ける大腸がんでは「アバスチン(一般名ベバシズマ)」を使った多剤の治療では、一ヶ月50万円となり、セツキシマブやパニツムマブを使った多剤では大体約60~80万円かかるそうです。このようにどんどん新薬が開発されるのは悪くはないのですが、このような高額ではとても医療保険でまかなえる額ではなくなり。医療保険制度は破綻することになりはしないかということです。中山医師もこのことを説いておられますし、私も同様に思います。
 日本は互助システムで、国民全体の保険料で、医療費を支えて貰っている有難い国です。破綻したら医療機関にかかれない人が大勢出ます。そんな国家を希望している国民は一人もいないでしょう。
 裕福な人で、この治療を望む人が、自費で使用すれば良いのではないか、と私は思うのです。
 別の資料ではニボルマブは、患者の20%に効果がある、とのことでした。たった20%かと、少しがっかりしました。それでも厚生労働省から保険を適用してよろしいと認可されたのです。
 実際にあった話だそうですが、新しい抗がん剤が出たのに、まだ高価なために、ニューヨークの有名な医師が「高すぎてウチの病院では使わないことにした」と公表したところ、あっと言う間にその抗がん剤は半額になったといいます。
 それでも収支が合ったのですね。薬九層倍と言う言葉は昔からある言葉で、それほど昔から薬は高価だということですが、それにしても、製薬企業は国民あっての企業であり、国民を苦しめて企業だけ栄えるということは、あり得ないはずです。
 確かに、患者さんには、高額医療費制度というのがあって、実際に支払う金額は、所得の差によって頭打ちになり、それ以上は医療保険が代わって支払うことになっています。しかし、それは加入者で支えられているのですから、安いからと言って喜んでいれば、まわり回って、高額の医療保険料を支払うはめになります。当然「限度」があってしかるべきで、製薬会社の開発薬品を次々に認可して、国民に高価な医療保険料を支払わせるというやり方は、どうかと思います。中山医師もそのことを指摘されています。
 現在は厚生労働省の勧めで、ジェネリック薬品への切り替えがすすめられています。医療費を圧迫しないためにです。このような超高価薬品は発売後三~五年位(現在は発売後十年位と聞いています)でジェネリック薬の認可をしたらどうでしょうか。
 最近人生の末期を「自然死」で迎えたいと思う人が増えているようです。私もその一人です。不要な治療をせず、食欲が無くなれば、食べられる程度の食事と水を頂ければ、次第に衰弱していって、最後は眠るように逝けるらしいです。一昨日もテレビで、それが自然の摂理なのだと放送していました。
 私の90歳で亡くなった曾祖母のように、普段は日中寝ることも無かったのに、夕食時に横になって、珍しく私の母に食べさせてもらいました。翌朝は私の母の用意したおかゆと、要望に応じて水をあげたのですが、少ししたらもう呼吸がおかしくなり始めました。母は私に「直ぐに親戚に行って、おばあさんの様子がおかしいから来て下さい、と伝えて来なさい」と言いました。私が走って5分ほど離れている分家に伝えて帰ってきましたら、もう臨終のまぎわでした。分家の主が医師を連れてきた時は、すでに呼吸をしていなかったように記憶しています。安らかな死でした。母も「私もあのように死にたいものだ」と晩年になってしきりに言いました。
 昔はみなこのように、自然の摂理にそった死に方をしたように思います。医学が発達して、確かにある程度延命することが出来るようになりました。若い方には素晴らしいことですが、全ての人に朗報とばかりは言えないようです。
 延命の一つが薬品や人工呼吸です。肉体が死に近づいているのに、点滴で余命を伸ばすとか、食べられなくなった人には胃ろう(胃に穴をあけてすりつぶした食事を与える)にしても延命を計ります。(私の親戚も脳卒中で倒れて入院し、2年間意識がないままに胃ろうで生きていました)意識の無いままに生きていても、本人もきっと本意ではないでしょうし、家族も痛ましく苦しい思いをするに違いありません。
 いったんセットした胃ろうのチューブを抜くことは、医師にとっては人工呼吸と同じく、難しい事のようです。しかし、そういう事態は何時、誰に来るとも知れず、私はそんな時のために、無用な延命治療をしないで下さい、と文書にし、家族にもよく頼んでいます。
 最近は医師達も、無理な延命措置をせず、がん末期の人も苦しませず、楽に最後を迎えられるように、対処する方向だと聞いています。人間の尊厳を維持しつつ、死んで行きたいと思うのは、きっと誰もが望むことでしょう。
 これからも続々と出て来る抗がん剤に、このような超高薬価がつくのかと思うと、病気の人を救うのを使命とする製薬企業が、返す刀で国を滅ぼしていくという、何とも理解出来ない存在にならないように祈るばかりです。

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詞を聴く

2016年07月20日 | 随筆
 私はクラシックの見事な合唱を聴かせてくれる「フォレスタ」のファンです。身近にコンサートがあれば、必ずチケットを手に入れて聴きに行きます。またDVDを購入して、折に触れて聴いて心を和ませています。
 このDVDを聴いていて、今回特に気づいた事があります。それは、曲と同時に画面に映し出される歌詞を眺めていますと、一層歌の心が伝わって、感動もひとしおだということです。耳から入ってくる曲だけではなく、目から入ってくる歌詞の意味と情景が相まって、一層大きな感動を伝えるということに気づいたのです。
 フォレスタのDVDには、何年か前のものもあり、特に今年手に入れた第8集は、曲ごとにテーマがあり、例えば「愁」とか、「愛」とか、それだけで歌の中心のテーマを伝えてくれます。それも加えて、詞の意味を味わいながら聴くと、歌が一層素晴らしく聞こえて来ます。曲ごとに深く解釈された歌い手や指揮者の思いまでが伝わって来るようで、曲の表現するものに心の底から感動するのです。
 例えば皆さんも良くご存じだと思いますが、昔音楽の時間に習った「オールド・ブラック・ジョー」というフォスター作詞・作曲の名曲がありますが、この歌で私には一つの発見がありました。 フォレスタはこれをアカペラで、ゆっくりとしたテンポで歌っています。その詞とその曲の表現に、心をつかみ取られて涙があふれて来ました。歌詞をフォレスタのDVDから移してみます。

 若き日はや夢と過ぎ
 わが友みな世を去りて
 あの世に楽しく眠り
 かすかに我を呼ぶ
 オールド ブラック ジョー

 我も行(ゆ)かんはや老いたれば
 かすかに我を呼ぶオールド ブラック ジョー

 我も行かんはや老いたれば
 かすかに我を呼ぶオールド ブラック ジョー

 ハミングが入って・・・

 何(など)てか涙ぞ出ずる
 何てか心はいたむ
 わが友はるかに去りて
 かすかに我を呼ぶオールド ブラック ジョー

 われも行かんはや老いたれば
 かすかに我を呼ぶオールド ブラック ジョー

 我も行かんはや老いたれば
 かすかに我を呼ぶオールド ブラック ジョー

 私は以前この歌を、多くの人達とよく歌った思い出があります。私はテンポを正しく歌詞を間違えないように、音程に注意を払い、クレシェンド、デクレシェンドにも注意を向けながら歌うのですが、歌の心をどう表現すればよいか、などに心を真剣に傾けることは余り無かったように思います。譜面に忠実に歌うことに精一杯で、詞が訴えている淋しく哀しい心や、指揮者の解釈をどれほど理解して歌っていたか、今は記憶もおぼろです。
 でもフォレスタは、もっとずっとスローテンポで、しみじみと、確かにあの世からかすかに呼ばれているように歌うのです。「我も行かんはや老いたれば」という箇所は、私の年代の人には、ただでさえ胸を揺さぶる歌詞です。繰り返される「オールド ブラック ジョー」は、優しく温かく聞こえて来て、此処は「ブラック ジョー」で無ければ収まりが付かない所だと感じています。
 フォスターの名曲ですが、フォレスタのこの歌で、私は歌詞を目で見ながらの合唱の鑑賞に、すっかり目から鱗が落ちた思いです。以来私は字幕の歌詞を、しっかり理解し、共感することに努めました。合唱の美しさが格段に深まって、楽しさが増したのです。
 土井晩翠の「荒城の月」も、「荒城」だからこそしみじみとした情緒あふれる歌詞になっています。啄木の「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠く思ひ出づる日」もフォレスタは歌っていますが、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」や
「頬に伝ふ涙のごはず一握の砂を示しし人を忘れず」や
「いのちなき砂の悲しさよさらさらと握れば指のあひだより落つ」
などは、歌集「一握の砂」の中の「我を愛する歌」に出て来る歌です。この素晴らしい啄木の「初恋」を作曲した人は、高校の(青山学院高等部)の音楽教師であった「越谷達之助」先生だそうです。「歌は心で歌うもの」と説かれたと聞きます。
 フォレスタの歌う「北上夜曲」は、深い哀愁の中を流れて行く、北上川の清流が瞼に浮かびます。矢張りこの場合、北上川でなければならないと思いました。なぜならば、啄木は「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目にみゆ泣けとごとくに」と強烈な印象を与えているからです。「北上夜曲」の詞と、啄木の短歌とがオーバーラップされて、一層強く心を打って来るのです。
 歌詞そのものの素晴らしさに加えて、解釈の深さの何と素晴らしことでしょう。私のように稚拙な解釈で歌うのとは、大変な違いです。
 フォレスタの練習風景の映像もあり、出番前には、皆さん真剣に自分の声をチェックして居られるのにも、一流の歌手なのに、開幕前にこの努力なのか、と頭が下がります。
 毎週月曜日の夜9時からBS4でフォレスタの歌の時間がありますが、時折各コンサートからのものもあり、東京会場の時は、かなり年配のご夫婦の参加も多く、お年を召した男性の姿の多いのにも驚きました。
 チケットは直ぐに売り切れのようで、このように皆さんが参加されるのなら、来年のチケット販売日は、もっと早く手配しないと、と夫と話しているところです。



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不思議な現象

2016年07月11日 | 随筆
 長く生きていると、様々な経験をします。岡山の後楽園で前触れも無く、バサッと左脇の竹林から、孟宗竹が目の前に倒れて道をふさがれたとか、私達夫婦が渡りたかった橋が実は幻で、しかも夫婦それぞれ別の色・形の橋を見たという経験とか、不思議な事に、どなたかのお導きとしか思えないような運の良い巡り合わせで難を逃れたり、諸事が上手く進んだとか、それは様々です。
 今回はもう少しミステリアスな経験について書きたいと思います。
 かなり遠い日の出来事ですが、私は今でも何と表現して良いのか、不思議なものを見ました。我が家の義父が倒れた時の事です。その日起きて来た義父と朝食を共にしていた時、義父は「昨夜は何だか頭がおかしい感じがして、朝まで良く眠れなかった」と言ったのです。その頃は、老いた義父を病院へ連れて行くのが私の仕事でしたから、「病院は今日はリハビリの日ですが、では診察にしていただきましょう」と言い、タクシーを頼んだのです。義父は自室で背広に着替え、私も一月半ばでしたからコートを着ました。
 タクシーが到着するのを待ちながら、私は居間のソファーの肘掛けに頭を預けて、体をやや横にして白い天井壁を眺めていました。その時です。天井の義父の部屋の方向に、もう亡くなっていた義母と娘の笑顔がハッキリと並び、それにくっつくように義父のやや黒ずんだ影のような顔が、映ったのです。幻か現実かと夢中になって見つめていると、タクシーが門前に着いたような音を耳にしました。映像はそこで消え、私は義父を呼びに隣の居室に急ぎました。
 すると何ということでしょう。義父はコタツ布団の上に横になったような形で倒れているではありませんか。「おじいさん・おじいさん」と呼んで揺すっても反応がありません。これは大変だと思い、直ぐに救急車を頼みました。玄関前のタクシーには、呼び賃の100円を支払って帰って頂きました。
 病院に着いた時は、既に自発呼吸が無く、かかり付けの医師の電気ショックで、ようやく心臓が動き始めましたが、人工呼吸器が取り付けられました。夫や息子、義姉夫妻が駆け付けましたが、義父はそれきり2日間意識が回復することなく、みまかりました。 私にはこの二日間は、何時も家族に優しかった義父が、遺族となる私達に、最後のお別れをする時間を与えて下さったように思えました。
 次は夫の夢の経験です。結婚して33歳になっていた娘が、早々と病没してしまいました。愛する子供を失うことは、とても言葉に表せない悲しみです。夢でもいいから逢いたいというのが、家族の偽らざる心情です。
 何年か過ぎた、ちょうど娘の命日のことです。夫の夢に娘が現れて、夫の足を揉んでくれたというのです。夫はそれまでも時折娘の夢は見たのですが、これと言ってはっきりとした夢ではなかったようです。ところがこの日は、はっきりと足を揉んでくれて、「もう来ないからね」と言ったように感じられた時、目が覚めたと言います。
 寒い冬は時折足にこむら返りが起きる夫でしたが、目が覚めた時に足がとても温かく感じたといいます。確かに足を揉んで貰ったと、その日の朝に夫は言いました。命日だったので、前夜家族でいろいろと想い出話をしていたせいではないか、と夫が言いました。でもそれっきり現在に至る迄、娘は夢に現れなくなったそうです。夢でもいい娘に会いたいと思うのは、逆縁の苦しみに喘ぐ親であれば当たり前です。
 不思議と言えばこれも不思議な事ですが、鈴木大拙博士のお墓を鎌倉の東慶寺にお参りに行った時のことです。鈴木大拙博士のお墓のそばには、西田幾多郎・和辻哲郎のお墓もあり、親友だった岩波の初代の主のお墓もあります。家に咲いていたシオンの紫のお花を持って、以前から幾たびか訪れた東慶寺の墓地へ行ったのです。ゆっくりとお参りし、他にも著名な方々のお墓がありますから、緩やかな坂を下りながら、あちこちの墓碑を見てお参りして来ました。
 その時です。黒い揚羽蝶がふうわりと舞いつつ私達に近ずき、何時までも付いて来るようでした。黒い蝶には魂が宿ると聞いていましたので、私は何だか今お参りして来た鈴木大拙・西田幾多郎など著名な仏教学者や哲学者が、「良く来てくれたね」と言っているように思われて、視界から消える迄見送っていました。
 ところがどうでしょう。家に帰った翌日のことです。このあたりでは滅多に見る事の無い黒揚羽蝶が、我が家の石池の上を舞っているではありませんか。まさか東慶寺から付いて来た訳ではなし、本当に不思議に思えたのです。ひと時舞って、またふうわりと隣の家の庭の方に消えました。嬉しくもあり、又不思議な経験でした。
 こんな話をしていましたら、夫が昔を思い出して不思議な経験を話しました。学生時代、今は故人となった友人が、一軒家を借りて優雅な暮らしをしていたそうです。時折その人の家に友達数人で集まり、何気ない談笑をしていたようです。ある日の夜のこと、たまたま怪談になったそうですが、話がまさに佳境に達した時、突然部屋の電灯が(白熱電球)ふぁつと消えたといいます。一同恐怖にかられて立ち上がろうとした時に、再びふぁつと電灯が灯ったと言います。なぜなのか、未だに解らないと言います。
 最近はアメリカの合理主義者も、そのような事は、かなりの人が経験する事だと言っていると、夫は遠藤周作の本から引いて話してくれました。
 幻のような人に出会って助かった経験は、私達夫婦にもあります。九州へ車で行き、福岡の港から船で帰る予定で、十分な時間を見て博多港を目指しました。ところがJTBの案内地図の通りに道をたどりましたのに、一向にフェリーの着く岸壁と思われる所が見当たりません。近くの人に聞いても「知らない」と言います。 だいいち人が見当たらず、あちこち聞くことも出来ないのです。このあたりがフェリーの発着所だと思うところはただの岸壁でした。かなり激しい雨が降って来て、薄暗がりになりとても心細くなって来ました。オロオロと行きつ戻りつして、矢張り地図からすると此処だと思う岸壁で立ち往生になりました。「乗船する船の出航に間に合わないのでは」と途方に暮れた時のことです。
 何も無い岸壁に一台の大型トラックが止まり、かなり激しい雨の降る中を「どうしましたか」と声をかけてくれた年配の男性がありました。本当に地獄に仏とはこうしいう事を言うのでしょう。
 説明する私達に、その人は「以前は此処がそのフェリー乗り場でしたが、今は違います。もっとこの道を先に行って信号を二つ渡り、ずっと先まで行くと表示が出ています」と教えて下さったのです。教えられた通りにやっとたどり着いた時は、ホッとして体から一気に力が抜けたようでした。未だ少しの時間が残っていたので助かりました。あの時あの激しい雨の中を、コーモリもささずに教えて下さった親切なあの方に出会わなかったら、私達は予定通りに自宅へ帰り着かなかったと思いました。
 どうしてこのように、困難に出会った際に救いの手を差し伸べて下さる人が現れる、この不思議さを、偶然という言葉で片付けたくない気持ちになるのです。このような見えない力の導きと思われることは、数多くあります。合理主義者ではない私には、見えない力のお導きがあって、必然とも言える現象が起きると思えてならないのです。皆さんもきっとこのような経験がおありかと思います。
 このようにして、神仏か、はたまた先だった家族か、それは解らないにしても、見えない力に見守られながら暮らている事を、私はとても幸せに思うのです。

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好日をいただく

2016年07月01日 | 随筆
 昨晩、旅先で求めて来たハンカチーフを、しばらくご無沙汰していた知人の女性(私よりかなり若いけれど立派な教育者で、私はこの人の生き方に尊敬の念を抱いている)に手紙をしたためて、先ほど郵便局からゆうパッに入れて投函して来ました。
 心を込めて手紙をしたためましたし、その手紙と気持ちばかりのハンカチーフですが、喜んでもらえれば嬉しい、と思っています。
 これは先日、日帰り旅行に出かけて立ち寄った温泉ホテルで、ちょっと気に入ったものが見つかり、求めて来たものです。山形県の谷あいにある、大きくて広々とした温泉ホテルでした。思い切りゆったりとお風呂に浸かって、身も心もリフレッシュしました。
 おいしい山形牛のしゃぶしゃぶや、プリプリのお魚のお刺身、河魚の西京焼きや山菜料理で、パンフレットに「海・山・河の幸」とありましたが、その通りのお料理が出て大変満足しました。
 その後そこから少し先の、珍しいクラゲをたくさん集めた水族館へも寄りました。このようなクラゲがいるのかと、初めて見る小さなクラゲに感動しました。山形大学の学生が、生後一日目・二日目などのクラゲを水槽に入れて研究していました。足が体の何十倍もあるものや、ひらひらしたレースのような足を持つクラゲ・傘の周りに針先よりも細い糸状のものをぐるりと下げているものなど、たくさんの水槽に、珍しい様々なクラゲが展示されていました。 
 勿論水族館ですから、一般の河や海の魚類の水槽もあり、イルカの曲芸も観たりして、久しぶりに子供に還ったような楽しい時間を過ごしました。クラゲが珍しいのか、とても大勢の観客で混んでいました。神様は誰のためにこのような見事な芸術品をお作りになるのかと、ひたすら感心するばかりでした。
 聞くところによると、来客が少なくて倒産しそうな水族館でしたのに、ある日魚に混じってクラゲが一匹水槽に泳いでいましたら、それを見た観客がそのクラゲが珍しいと、次々と集まって人だかりが出来たのだそうです。その時係員が、これはクラゲのおかげだと思い、クラゲを沢山集めて展示するというアイディアが生まれたのだそうです。それが日本には一つしかない水族館と言われるようになって、有名になったということです。「全く一匹のクラゲのおかげです」とボランティアの説明員が、水槽のクラゲを愛しむように話しておられました。
 私たちは以前は日帰り温泉(車で片道約65キロほど)で、露天風呂のすぐそばの川でカジカが鳴く、静かな谷あいの温泉に足繁く通っていて、帰りに山菜や取れたての野菜を産地直産のお店で求めて来ていました。安全志向の夫が車の運転をしなくなって、日帰り温泉行きは無くなっていました。このようなバスによる小さな旅も良いものだと、改めて思いました。
 一泊での温泉目当ての時は、山の麓のまるで隠れ宿のような静かでこじんまりとした温泉旅館によく行き、または幾日もの旅行帰りに、わざとまっすぐ家に帰ることをせず、途中下車して大きくて見晴らしの良いリゾートホテルなどに立ち寄ったりするのですが、このような日帰りの温泉と観光の旅行は、したことが無かったのです。このような旅行も悪くないな、と思えるような経験でした。
 さてその際に求めたハンカチーフを送るべく、家から10分くらいの郵便局へ立ち寄った時のことです。ここは何時もウォーキングコースの中程で、小さな郵便局なので、職員の皆さんとは顔見知りです。来客の少ない時には、夫がよく窓口で係りの人などに話しかけたりしていました。
 その日は局長さんが、ニコニコして出てこられて、「これは要りませんか」と暑中見舞いのはがきを手にして、微笑みかけられました。私はちょうどはがきが切れて、30枚ほど買う積もりで、他に切手などをお願いしたところでした。今はメールの時代で暑中見舞いのはがきは多くは必要がなかったのですが、折角ですので買い求めて来ました。そう言えば毎年少し買うのだったと、忘れていたことに気づきました。
 ここの局員さんは、皆さん感じがよく、ニコニコしていて親しみを感じます。このあたりが銀行と郵便局の違いの一つかしら、などと歩きながら話していたのです。勿論順番札を取って待つような大きな郵便局は、窓口も判別しがたい感じもしますが、考えてみると庶民には親しい感じがあるのかもしれません。
 今年新入の局員さんも、4月に記念切手を買いに来た時は緊張して指導を受けておられたのに、今回から窓口に座っておられて「立派な一人前になられましたね」と夫が声をかけ、その方も嬉しそうに微笑んで「はい」と答えられて、一陣の涼しい風が吹いたようでした。
 思えば、先の旅行の時のボランティアの説明の時も今回も、ごく普通の会話がその人の心を伝え、それが幸せを運びもします。当たり前の事ではありますが、大切なことだとしみじみ思いました。
 その人の言葉も、その人の声も、電話でさえも、その人の心を現します。鎧を身に着けるということではなく、ごく自然に素直に自分の心が伝わる、そして伝わって来る温かさに感謝する、そんな日を過ごしたいと思います。

日日是好日

ふっても てっても
日日是好日
泣いても 笑っても
今日が  一番いい日
わたしの一生の中の
大事な一日だ      
       相田 みつを
 

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