ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

春告鳥の問いかけに

2014年03月29日 | 随筆・短歌
 今年も春を知らせる使者、春告鳥(鶯)の声が聞こえるようになりました。とりわけ寒さの厳しい年でしたから、何時初音が聴けるかと心待ちにしていました。三月半ばになって、未だうまく鳴けないけれど、その声を聞いた日はとても嬉しく思いました。日を追って上手く鳴ける様になっていくのが、子供の成長を見守るようで、とても楽しく思えました。今日はもうしっかりとホーホケキョと鳴いていました。本当にこの清純な声は幸せ感を運んでくれます。
 近年我が家の回りは住居が密集して空き地が全く無くなり、すぐ近くの公園も持ち主に返還されたりして、背の高い木が少なくなったのです。一時期鶯の声も耳に出来ない年もあったのですが、最近は毎年よく鳴いてくれます。かつては、椿の大木のある、道路をはさんだお隣の庭によく来たものでした。住人が代わりお庭の木を少し切って、日当たりが良くなるようにされたところ、我が家の庭の茂りの方が、身を隠すのに都合が良いのか、こちらの椿や虫類に引かれてか、我が家の庭で早朝や夕暮れ近くに、よく鳴いてくれるようになりました。
 人影がみえると素早く飛び立ってしまいますから、私達も窓際では動かないように気を付けて、鳴き声を楽しみます。
 またも、さだまさしの歌ですが、私が一番好きな歌の一つである「春告鳥」の歌詞を書かせて下さい。

    春告鳥     作詞作曲 さだまさし

 衣笠の古寺の侘助椿(わびすけ)の
 たおやかに散りぬるも陽に映えて
 そのひとの前髪僅かにかすめながら
 水面へと身を投げる

 鏡のまどろみのくだかれて
 錦の帯の魚のふためいて
 同心円に拡がる紅のまわりで
 さんざめくわたしの心

 春の夢朧気に咲き
 春の夢秘やかに逝く
 古都の庭先野辺の送り
 振り向けばただ閑かさ

 化野の古宮の嵯峨竹の
 ふりしきる葉漏れ陽にきらめいて
 そのひとのこぼした言葉にならない言葉が
 音も無く谺する

 足元に蟠る薄氷(うすらひ)に
 靄(もや)めいた白い風立ちこめて
 春告鳥の問いかける別離(わかれ)に
 たじろぐわたしの心

 春の夢朧気に咲き
 春の夢秘やかに逝く
 古都の庭先野辺の送り
 ふれむけばただ閑かさ (読み仮名はあずさ)

 閑けさが心にしみる素晴らしい歌だと思います。曲も素晴らしいです。春告鳥が問いかけるものは、此処では別離ですが、私が毎日聞いている春告鳥の問いかけは、「今幸せですか?」という生きていることの幸せを問いかけられているように思います。
 「はい。幸せです。」と心の中で答えます。こんな問いかけを持って、毎年来てくれる鶯に、私達家族は、大満足です。一番早起きで、しかも耳聡い息子が一番良く耳にします。「今朝鳴いたよ」と言えば、それから私達は、少し早起きして、早朝の鶯の声を待ちます。本当に初めはまだまだ下手なのに、日々少しずつ上達してゆくあり様は微笑ましい限りです。
 世の中では謎のまま消えてしまった飛行機、突然侵略された国土の一部、48年も無罪で拘束されていた人、ふいに斬りかかられた面識の無い被害者等々、何とも理不尽な事が多発している人間社会であります。しかし一方では、あの3.11の津波で家や家族を奪われた被災者が、未だ被災者住宅に住みながら、「海をうらんだりはしません。海によって生きて来たし、これからも海に助けられて生きていくのですから」と、冷静に大自然というものを理解し、感謝の気持ちを忘れずにいるけなげさにも、心を動かされます。
 私は震災前から東北の人達は、実に謙虚で誠実で思いやりに満ちた人達が多いと、尊敬していました。災害の後に、僅かに届いた食料を、整然と列を作って受け取っている姿に、外国から取材に来た記者達は大いに驚き、世界中に日本人の礼節を知らしめました。オリンピック招致のために、更に東北の復興が遅れそうで、私はひやひやしています。しかし、そういう私はどのように被災者の皆さんの役に立っているか、と言われると誠に恥ずかしい思いです。
 私が愛読しているブログに「新・心の原風景」~苦悩の克服 というのがあります。先日読んだそのブログ(平成26年3月25日付け)の最後に、こんなことが書いてありました。

 「目の前の一人を大切にできない人が国を良くするなど、できるわけがありません。目の前の人に思いやりある発言や行動を取ること、そういうことを軽視せずに実践して参りましょう。そういったことの積み重ねで世の中が変わっていくのでしょう。思っている以上に人と人とはつながって、影響を及ぼし合っているものであります。」

 私は何となく目から鱗が落ちるような思いがしました。私が日頃大切にお付き合いしたり、或いはともするとすれちがいの挨拶程度の人達に、ほんの僅かでも今以上に相手の心に寄り添えるような言葉がかけられたり、行動が出来たら、それが役に立ってゆくのだと教えられたからです。
 春告鳥の問いかけにも、自分の為だけでない返事が返せると、嬉しく思ったことです。

鶯の初音を待ちて老いゆかな (実名で某紙に掲載)

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遍路へのいざない

2014年03月20日 | 随筆・短歌
 春になりました。春は遍路の季節と言われます。多くの人々が、誘われるように遍路の旅に出ます。
 「日本の名随筆」別巻21の早坂暁「巡礼」の中に久保田万太郎の「にはかへんろ記」があります。四国への橋が無かった頃には、どのように四国へ渡ったのか興味がありましたが、万太郎の一行は、神戸からの船で行ったようです。
 遍路は、先ず一番札所から始まりますが、私達と同様に、何処で遍路の身支度を買い調えるのか、心配したと書いています。
 先ずは一番札所ですが、私達が遍路の旅に出掛けるのを知った菩提寺のご住職が、義父の月命日の読経に来られた時、和袈裟を一本くださって、一番札所の霊山寺の脇に売店があり、そこで全てが買えると教えて下さいました。何にも知識が無く、兎に角義父母と娘の霊を慰めに行きたいと思って、五月初旬に出掛けたのです。
 本当に一番札所では全てが売っていて、袖があったり無かったりの様々な白衣や、笠、杖、納経帳、遍路鈴、数珠までもあらゆる必需品が全て整うようになっていました。。
 「納め札」といって、供養する人の名前を裏に書いて、読経の後に、本堂脇に必ず置いてある箱に入れて、お参りの証しに納める札のあることさえ知りませんでした。早速たたみ敷きの部屋に上がって、取りあえず第一日の分を書きました。可成りの人達が書いておられました。白・赤・緑と納め札も区別されていて、初回の私達は白です。
 準備が整って、改めて一番札所の霊山寺の前に白衣姿で立つと、気持ちが引き締まって、背筋が自然に伸びるような感動でした。札所というよりも霊場と言った方が相応しく、朝早くの冷えた空気の中に、どれ程沢山の人々が祈りに来られたのか知りませんが、「やっとお遍路の旅がここから始まる」という感動に、きりっとした心持ちになったことを覚えています。蝋燭を一本とお線香を供え、お賽銭を納めてから、二人で口を揃えて般若心経を上げました。続いて太子堂があり、これは全ての霊場がそうできているのですが、弘法大師像が飾ってあり、そこで又般若心経を上げます。
 その後にお寺の出口脇に在る納経所で、納経帳を書いていただきます。とても達筆な人が何人かして書いておられ、お寺の名前を左下に書き、真ん中と右は読めない達筆な文字で、ご本尊のお名前でしょうか、流れるように、しかし力強く書いてあります。大小の朱肉の印を三箇所に押して、ご本尊の絵を描いた御札と共に頂いて終わりです。これはどのお寺も同じで、私達の第一回の遍路旅の時は、納経料が確か300円と決まっていました。 久保田万太郎の時代は、一人10円二人で20円納めたとあります。納経帳の一枚目は、弘法大師の絵があり、二枚目が納経の第一ページですが、ここは高野山奥の院で書いて頂く場所として空けておきます。四国遍路が終わった後にお礼参りに高野山にお参りに行って、書いて頂くのです。
 私達も三回に分けて回りましたので、最後の時に高野山に行って、書いていただきました。
 平成13年5月9日と一番霊場の御札に書いて納経帳に貼ってありますし、平成16年4月3日と高野山奥の院で書いていただいてあります。旅程は「四国八十八カ所を歩く」という山と渓谷社発行のガイドブックによりました。次の札所までの距離や地図・徒歩でかかる時間など実によく書いてあって助かりました。一カ寺では、お参り・写真・納経・休憩など考えて40分取りました。ゆっくりでしたが、殆ど計画通りに回れました。

 遍路への憧れに突き動かされ、実際に巡ってみて、一層素晴らしいものだと分かりました。そして一度の積もりがとうとう三回巡ってしまったのです。一度にそう長い旅は出来ませんから、札所の数は全部足しても40足らずです。
 一番から二番への田や畑の中の遍路道は、穏やかな南国の春の日差しを浴びながら、歩くにつれてリュックに結びつけてある鈴がチリンチリンと鳴り、小鳥の囀りと和して実にのどかで平和なのです。
 殊に白衣の背中には「南無大師遍照金剛」と大書してあり、遍路の人は常にお大師様と一緒と言うわけです。この辺りは、宗派などの違いで各人様々な受け止めになると思いますが、私達に取っては、一緒に歩いて下さるお大師様は、とても力強く感じられ、心が温かくなるのを覚えます。桐の花が薄紫に咲いていて、まだ野火がたかれる頃で、うっすらと煙りが立ち上る田園風景は、何とも言えない幸せです。

 南無大師お遍路道に鈴が鳴る野火焚く見ゆる野の花の道(あずさ)
 南無大師遍照金剛唱えつつ歩く阿波路に鳴る遍路鈴(夫の作品)

 こうして、幾つかのお寺を巡っては、ホテルに泊まり、遠距離は電車やバスに乗って、又歩いてと、巡ったのです。
 高知の桂浜では、遠くに黒潮が光っていました。

 桂浜真昼の月の傾いて白き渚を黙して歩く(夫の作品)
 仏舎利を拾うがごとく玉石を桂浜に拾う遍路となりて(あずさ)

この時拾った小さな美しい玉石は、現在は仏壇に供えてあります。
 二回目の遍路じでは、日和佐で下車し、駅から5分ほどの薬王寺へも行きました。石段の下に経文を一字ずつ書いた小石が埋められているという、女厄坂三十三段・男厄坂四十二段を登りました。石段には厄年の人が一段ごとに一円を置いて行くのだそうで、一円が一枚ずつ切れ目なく置いてあるのを見たりして、熱心に祈願した人々を偲びました。私達の娘も33歳でななくなったのです。
 高い所の薬王寺の立派な構えや、日和佐海岸の海の美しさに見ほれたりしました。夫は、「こんな良い所が日和佐だったのか」とひどく懐かしそうに言いました。この地で生まれた夫の学友が、同じ下宿にいた頃、或る大雨の真夜に急に部屋から飛び出し、どうしたのかと心配していると、ずぶ濡れで帰って来て「死ぬ積もりだったのに死にきれなかった」と号泣したことがあったと言ったのです。若い頃の悩みは、それぞれに記憶もあると思いますが、それほどに思い詰めた人が気の毒でした。でも、背中を撫でてやったその人は、やがて元気になったそうです。卒業して会社を興し、立派になられたと聞いて、日和佐の雨上がりの日輪の中に、お大師様がおられて、きっと救って下さったのだと思いました。生きていればこその幸せです。
 最御崎寺(ほつみさきじ)という霊場は、室戸岬の先端の高台にあるのですが、久保田万太郎一行も、私達と同じ岬ホテルに泊まったようです。御蔵洞(みくろど)という空海が19歳で籠もった大きな洞穴があり、お参り後近くの岬ホテルに泊まりました。
 いまは最御崎寺まで立派な車道があり、みんな車で登ります。私達は急な山道を滑りながら、登りも下りも昔ながらの遍路道を歩きました。台風が来る度に耳にした、室戸岬の灯台では多くの見物客に出会ったのですが、急で滑る遍路道を恐る恐る歩いていたのは、私達の他には、たった一人の男性だけでした。下りきると、南国らしい背丈以上の多肉植物が海岸に沢山生えていて、様々なサボテンの林の様でした。珍しく眺めながらホテルへ戻りました。
 現在はタクシーで巡るという遍路のツアーもあるようです。私達の時も、大型バスで来て、納経帳は別の係が車で持って来て書いて頂くという団体もありました。そのような団体バスが来ると、納経帳の記帳に延々と待たねばならず、時間のロスが大変でした。
 遍路のし方はそれぞれの考えですし、私達も全て歩き遍路ではないのですが、遍路みちの道標に従って、ポツポツと歩くのは、とても気分の良いものでした。亡くなった人達の供養という気持ちから、いつの間にかお大師様と道連れの遍路旅の心地よさに目覚めてしまい、一度で終わりの所、足かけ四年で三回通ったのです。
 今はもう足も弱りましたから、先に死んだ人が納経帳を棺に入れて行くことになっています。
 遍路の旅ほど心豊かで満ち足りた旅は無いように思います。仏様大好き、お寺大好き、庭園大好きの私達ですが、遍路の旅が一番ほのぼのとした幸福感に満たされた旅でした。
 さだまさしに「遍路」という歌があります。歌詞は次の通りです。※漢字は少し違うかも知れません。

 何時かあなたと来た道を今一人
 まろびまろびあなたの後を追う
 夢で幾度か追いついて目が醒めて
 膝を抱いて又あなたの夢を見る
 渦潮の生まれて消えて
 また結びまた解けるように
 僅かな想い出繰り返したどる道
 あなたの知らない旅

 不意に名前を呼ばれて振り返れば
 別の物語の二人を見るばかり
 橋の無い川のほとりで迷うように
 あなたを越えて向こうまでゆけない
 吉野川の流れ静かに
 あなたから生まれあなたにかえる
 懐かしいあの歌口ずさみ歩く道
 あなたの知らない旅

 何時か二人で行った遍路の道を、一人でたどっている人の歌です。この歌を聴いたり歌ったりすると涙が出て来ます。私達も三度も遍路に行っていますから、何時の日か、どちらが先か知りませんが、未だ何とか歩けるなら、矢張り想い出の遍路道をたどりたいと思います。そんな日は来るのでしょうか。

 かわらけ投げ一つ一つ願い込め遠くへ飛ばす八島頂上(あずさ)
 四国遍路終りは亡き娘の墓参り鎮魂の旅次は黄泉路に(あずさ)


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体の運動、頭の体操、そしてお喋り

2014年03月08日 | 随筆・短歌
 医学の知識に乏しい私がこれから書くことは、専門家から見れば、的外れなのかも知れません。しかし高齢の私が、様々な体験から実際に感じたことを書いてみたいと思います。
 私は現在、変形性膝関節症と、変形性股関節症を患っています。現在は普通に立歩行するのは、姿勢も速さも一般人と変わらないのですが、階段の登り降りは、手すりに掴まらないと出来ません。医師は、股関節の方がより重症で、やがて股関節の手術が必要になるかも知れない、と仰っています。
 膝関節の保護の為にも筋肉を鍛える必要があると言われて、たまたま近くに出来たフィットネスに通い始めて7年が経ちました。
 沢山ある機械の中から、大腿四頭筋を鍛える機械や股関節回りの筋力アップの為の機械を教えて貰い、少しずつ鍛えていきました。同時に一回20分のストレッチを受けて、筋肉をほぐしたり伸ばす運動をしています。なかなか暇がなくて、週2日しか行けないのですが、それでもお陰でだんだん傷みは改善しました。でも7年の内には、転んで膝を痛めて、ギブスをはめていた時もあり、又脳貧血で倒れて気を失ったこともあって、その都度膝や背骨、腰骨が痛み、その分余計な痛みを抱えました。
 ところが辛抱強く運動しているうちに、この年齢になっていても、これ程の快復力があるのか、と驚く程に良くなったのです。
 始めのころは、歩く姿勢も悪く力も入らず、やがて歩けなくなるという危機感がありました。しかし、以前から行っていた一日40分から1時間のウォーキングと、ジムの運動に依って鍛えられ、少しずつ機能が回復したものと思っています。
 一方私は、70歳が近くなってから、固有名詞がなかなか出てこなくなり、喉まで出かかっていても出て来ないとか、物の置き忘れが増えて来た感じがして、自分の認知機能の退化が気になり始めていました。
 認知機能の方は、家族が年相応のものだ、と言うのですが、それでも心配で、正常な範囲内かどうかを、常に判断するように心がけています。しかし、やがて認知症になるかも知れない恐れが心の何処かにあって、それが時折不安を呼び起します。しかし最近冷静に考えると、何だか物忘れは何年か前よりも良くなってきているようにも思え、捜し物が減ったとか、予定の行動を忘れなくなったとか、日常生活がスムーズに行っていると感じていました。
 ある日、私はフイットネスのロッカールームで、「私はこの頃足腰の動きが次第に良くなって来ているようだし、物忘れも減って来たようだ」とポロリと言ったのです。そして「どうもこれはこのジムの運動と、皆さんと楽しく会話していることの二つが大いに役立っているのではないかしら」と言ったのです。
 するとどうでしよう。そこに居合わせた大半の人が、それぞれに「私もそう思う」と次々に言い出したのです。そして運動することや会話をすることによって、痛みは改善し、認知機能が向上すると実感していると言うのです。私はとても驚きました。一旦落ちた認知機能が回復することがあるのか、私は知らなかったのです。
 こんなに沢山の人達が、実感しているというのですから、私の実感も気のせいではないのだと思い、とても嬉しくなりました。私は帰宅後に早速夫に報告しました。すると夫は「その通り。毎日運動することと、他人との会話の機会を多く持つこと、それに頭を使って何かをすることは、老化を防ぎ、健康寿命を長くし、認知機能を衰えさせないと、老年医療の専門家が書いている」と言いました。
「健康寿命を延ばす秘けつは運動、食事、歩くこと、ストレスをためない事」とか、「認知機能は仮に一時下がっても、他人との会話を増やしたり、頭を使う仕事(物を作り出すとか、考える、書くなど)をすることで、改善する」と自信を持って言えるようになった気がします。
 私は娘を亡くしてから軽い鬱になったりし、引きこもりがちでしたが、歩くことは毎日約40分から1時間、必ず実行しています。雨が降っても雪でも、備えをして休まず歩く夫に引っ張られて、歩いていました。しかし、フイットネスは夫は嫌って行かず、私一人です。その代わり夫は毎日朝晩、20分位ずつのストレッチを欠かさないようになって、恐らく5年は経つでしょう。
 二人とも、日常生活の中で、時に取りこぼしはあるものの、カバーしあって、何とか支障無く生活していますが、果たしていつまで続くかと、時折不安が頭を持ち上げて来ます。
 たまたま昨日、現役の頃には立派な役職にあられた人が、認知症を患っておられるとお聞きして、とても寂しい気持ちになりました。現在は未だ認知症を完全に予防する方法も、完治させる薬もないそうですが、お金をかけずに運動・会話・創作活動をすることは、誰にも出来ます。
 三月に入り、サクラの便りももう直ぐでしよう。大いに外出したり、運動をし、思考して、体の機能の保持だけではなく、認知機能の改善向上または維持の努力をしましょう。そして自分らしい人生を全うしたいものだと思っています。

ペン先の細く優しく光るとき便箋の文饒舌となる(某誌に掲載)

辻褄の合わぬ話に頷きて伝えんとする心を探す(某誌に掲載)


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