ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

哀しみの鳥取砂丘

2022年05月28日 | 随筆
 生きとし生けるもの万人に、そしてその青春時代にあっては殊更に「そのひと時」は哀しみに満ちていて、未だに胸が痛む思いを抱えています。そういう人は可成り居られるのではないでしょうか。振り返って思うと胸が痛むような悲劇に出会うこともあります。
 私が青春時代に出会った友人の自死は、今も尚哀しみに満ちています。何故死ななければならないほどの悲しみだったのか、優秀だった彼女の死は、その頃は考えれば考える程私の思考力には余って、ただ何故何故と堂々巡りをするばかりでした。 
「私はもうどうにもならない。生きて行けない。」とその女性は云いました。当時若かった私には、それが「鬱病」と云う病であることも知らなかったので、専門医に助けを求める事も知りませんでしたし、カウンセラーという職能の存在も知りませんでした。
 私には立派な先輩でしたし、彼女の悩みに「そんな事は無い・・・」と言葉をつくして説得し、励まそうと努力するばかりで、今日の常識からすればそれは逆効果であったと思えて、一層辛さが増して来ます。私よりもその様な場合にふさわしい話し相手が近くに居られて良く聴いてあげていたら・・・と、今も返す返す惜しい人を亡くしたと思っています。
 それが「青春時代」と云う心の不安定な時期だったと言えるのでしょうか。私やその友人も含めて実りの無い話を重ねて、友人は多分生き甲斐を見いだせないままそこから離れた県境の温泉地へ行って、自裁されたのでした。
 その方が亡くなられてから、お母様が下宿を引き上げるために来られました。そして「あの子には思いを寄せた人はいなかったのでしょうか」と聞かれました。当時一番傍に居たのは、私と私の同僚でしたし「そういうことは聞いた事がありません」と答えました。お母様は、心を寄せる異性の存在を尋ねて居られると思いましたが、ありのままに言うと少なからず彼女の心には時折見え隠れする憧れの人がいたように思うのですが、当時は職場の恋愛は御法度のような時代でしたので、思わず「決してそのような事は無かったです」と答えてしまいました。亡くなられた後の醜聞と受け止められてはいけないと云う思いが私の脳裏を駈けめぐったのでした。
 ところが意外にもお母様は「せめてその様な方が居て欲しかった」と云われたので、私は一層驚いたのでした。私は潔癖な年代でしたし、そういうお母様の言葉が心に残って「親というものはそう思うものか」と思いましたが、年頃の娘を思う親の思いは、十分理解出来なかったのでした。
 お母様は「生まれて来て、そう言う(熱い)思いも知らないままに逝ったのかと思うと不憫で・・・。」と涙をこぼされました。当時未熟だった私は、誇りを持って(そのように潔癖な生き方をしてきた友人であった)とそう答えた事を(彼女のためにも良かった)と思ったのですが、それはお母様の期待を否定するものであり、まして事実をも否定する虚偽の証言をもってお母様の期待を裏切ったことに、後悔の念を持ちました。彼女は立派な人でした。人に後ろ指をさされるような人ではなく、何時も静かに微笑んでいる温かい人だったのです。
 私も今では、お母様の云われた言葉を深く理解出来る年になりましたから、母親として「人を愛するという経験もなく死を選んだ娘を悼む深い心」は、充分に理解出来ますが、当時の若い女性の倫理観は、まだ戦前の価値観を色濃く残していたのです。

 ずっと後になって、夫と2人で鳥取砂丘に行く機会がありました。砂丘は歩きにくく、砂丘を登る私達の一歩は半分くらいずり落ちてしまい、なかなか登れませんでした。長靴を借りて登ったのですが、登りの大変だった事を今も忘れません。
 登り切って砂丘に向かうと、眼下は大きな砂の盆地になっていて、背後は日本海からの海風が吹き上げて草も生えている荒野の坂でした。
 眼の前に広がる広大な砂丘の盆地に向かって二人で腰を降ろしました。「日本にもこのような砂丘があったのか」と暫く夫と話し込みながら砂丘の眺めを心に深く刻みました。
 やや遠くに離れた尾根の上に、一人の女性が同じように頂上から砂丘を見下ろして腰を降ろしているのが見えました。当時は他には誰も居らず、それを不思議とも思わず静かな時間を「この広大な砂丘はどうして出来たのだろう」などとひたすら感動して眺めていました。のんびりと眺めた後に、砂丘を下って長靴を返し「展示館」に展示してあった写真と解説で「砂簾(されん)」という現象を知りました。砂が積もって雨になった後に、砂が自分の重さに耐えきれずザッと崩れ落ちて、その跡が簾(すだれ)のようになることを云うらしいです。(自分の重さに耐えかねて)と云うところが切なくも有り、「ああ人間もそうなのかな」と思いました。
 我慢して耐え続けて来た、あの優秀な女性を思い出して辛かったのです。何十年経っても、若くして自裁された友人を悼む心が強く、悲しく思い出されます。辛い心を救ってあげられなかった事をとても悲しく思いました。私のような無知な人間にはきっと救う事の出来る事ではなかったのかも知れませんが、そのように切迫した深刻な事だとも、傍にいて気づかなかったのでした。
 そのような事を回想しつつ砂丘を後にしましたが、振り仰ぐと遠くに未だあの一人の女性がいて、何故かとても心が残りました。心の深淵に人に知れない悩みを持っておられるのか、と気になったのでしたが、旅行の途中であり、次の宿泊予定の地へ出発しなければならない時刻が迫っていたのです。
 鳥取砂丘は永遠に私には鎮魂の地になりました。今はどうなっているのでしょうか。聞く所によると、夫の知人も成就しない恋に二人で死を選んだ所だったそうです。何時か砂簾のように、それまで持ち堪えられていた愛し合う心が、遂に維持出来なくなって、どっと崩れてしまうことは、身近に無い訳ではない現象です。
 生き抜く苦しみに耐えかねて、死を選択肢に選ぶ人が毎年数万人います。私はこの人達に云いたい。「どうか踏み留まって下さい。今は苦しい人生だと思っていても、きっと何時か良い日も巡ってきますから。」と。
 私の知る限り、この人達は皆真面目で優しくて、温かくて、良い人達なのです。将来人生経験が豊かになった時には、社会に職場にきっと温かい光を灯して、多くの悩める人達を導いてくれる人となるに違いない人達なのです。身の回りの人材の宝庫を大切にしましょう。

 自裁せる君のみ魂吸える砂に非情の雨降る鳥取砂丘(あずさ)

 砂時計青色の砂こぼし終ゆ反せば悲しき刻また戻る(あずさ)


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