ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

芭蕉慟哭の句碑を訪ねて

2016年11月22日 | 随筆
 「金沢への旅を計画している」と、夫が友人に電話のついでに知らせた時「僕も行きたいけれど、もう体が思うように動かないので諦めている旅が、金沢市の芭蕉の句碑を廻る旅だ。白川の関方面には行ったのだが、金沢には行けずに居る」と言いました。
 私達は既に何回目かの金沢で、取り立てて何処を見てくるか、未だ決めてなかったので、「では君の代わりに芭蕉の句碑を廻って、写真を撮って来てあげよう」と夫が言い、病気の友人に代わっての旅を実践することになりました。
 句碑巡りは、かつて山頭火の句碑が並ぶ、山口県防府市の毛利墓所周辺での経験しかありません。でもこれは大内文化の貴重な建造物である、美しい瑠璃光寺や毛利家の大邸宅や宝物殿、毛利本宅などを廻ったりした、「ついでの寄り道」であり、わざわざ「芭蕉の句碑」と絞って廻るというような旅をした事はありません。
 出かけるに当たって金沢市にある芭蕉の句碑とその在所を調べて、道順を作りました。
 芭蕉は門人の曾良(そら)を伴って「奥の細道」の旅に出て、金沢で10日間を過ごしています。
 江戸を立ったのは元禄2年(1689)3月27日で、日光、松島、平泉、出羽、最上川、象潟(きさかた)など奥州路を訪ね、日本海沿いに南下。越後、越中を経て金沢に入ったのは、元禄2年7月15日(陽暦8月29日)でした。元禄2年と言えば1690年に当たり、今から326年前です。
 私達は最初に金沢市野町一丁目蛤坂の成学寺に行きました。ここには、蕉翁墳があります。肩に近い丈の薄茶色で苔むした蕉翁墳の背面に「あかあかと日はつれなくも秋の風」と苔で判読困難でしたが、彫られていました。1755年(261年前)に建立された、金沢の芭蕉の句碑としては、一番古いものだそうです。
 門人の中でも、小杉一笑は、芭蕉がその才能を最も高く評価していた弟子です。芭蕉は、7月15日に高岡を出て、午後金沢城下に入りました。この夜は京屋吉兵衛の宿に宿泊し、ここで、一笑ら加賀の俳人達に逢う予定でした。ところが一笑は前年の霜月(11月6日)に死去していたのです。これを知った芭蕉は、烈しく慟哭したと言われています。
 芭蕉は一笑の追悼会で

 「塚も動け 我が泣く声は 秋の風」

とその悲しみを詠みました。一笑塚の一つは、成学寺の塀際にあり、上部がやや丸く低い石に「一笑塚」と彫ってあって、塚の周りにはツワブキが植えられており、秋海棠のようなピンクの花も咲いていました。
 一笑を悼む芭蕉の句碑があるのは、忍者寺として有名な妙立寺脇の念願寺です。妙立寺の裏側に回り込むとそこが念願寺の山門です。
 山門脇に立つ石碑には「つかもうこけ我泣声は秋の風」と丈の高い細長い石に彫ってあり、右に「芭蕉翁来訪地」と、「小杉一笑墓所」と添えて彫ってあります。
 門を入るとこぢんまりとした境内には、上部がせり出していて中程を平らにした自然石に「一笑塚」と彫られていて、脇に小さい文字で「心から雪美しや西の雲」という一笑辞世の句が彫られています。
 芭蕉の「塚も動け」というような激しい慟哭の句と対照的に、一笑の辞世の句はあまりにもやさしい感じが滲み出ていて、胸を打つものがあります。死を予感した一笑の悟りにも似た心境を伺わせる句です。きっと心優しい門人だったのでしょう。
 このような有名な芭蕉の句や一笑塚のある念願寺より、人々は忍者寺の方に興味があるようで、忍者寺は順番待ちの人で溢れていましたが、残念ながら直ぐ後ろの念願寺には誰一人居らず、寂しく思いました。
 しかしその分静寂で、芭蕉や一笑にはふさわしくも思われましたし、隣にある小杉家の墓所にも手を合わせて来ました。しっかりとお参り出来て、良い想い出になりました。
 金沢には、この他に本長寺境内に「春もやや景色調ふ月と梅」があり、寺町五丁目の長久寺には、「秋涼し手毎にむけや瓜茄子(うりなすび)」があります。
 また兼六園小立野口の山崎山には、「あかあかと日はつれなくも秋の風」が立てられています。広い兼六園ですが、ここまで登って来る人はそう多くはないようで、樹木のみが昼なお暗く茂っていました。真夏はきっと降るような蝉の声が聞こえ、夕方にはカナカナ蝉が鳴くであろうと思いつつ、霞が池の徽軫(ことじ)の灯籠を眺めたりして、帰路につきました。
 夫の友人に道順に写真を貼って、それぞれに詳しく説明した冊子を作成して、送りました。とても喜んで貰いましたが、私達もまた、思いがけずに良い経験が出来て、嬉しく又楽しい想い出になりました。
 その後友人が先立ち、時折よく電話を貰ったりメールを交換していた夫は、寂しそうです。芭蕉が回ったという奥の細道は、たいてい私達も形はちがいますが廻っています。
 松島は3.11の東北の大津波で一部被害があり、少し様子が変わったものの美しく残っています。ですが山形県の象潟(きさがた)は長い間にすっかり隆起していて、当時「松島は笑うが如く、象潟はうらむが如し」と言われた名勝象潟は、田んぼの中の点々とした島々になってしまっていて、いかにも寂しく哀しそうでした。


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品良く燃えるドウダンツツジ

2016年11月12日 | 随筆
 わが家の庭の石池のほとりに、私がとても好きなドウダンツツジが一本植えてあります。未だ7~80センチ位の高さです。お隣の家のお庭にもドウダンツツジがあります。背が高く三段に刈り込まれたお隣の樹は、今紅葉の真っ盛りで、その緋色の紅葉の美しさに、毎日見惚れています。真っ赤というよりは、緋色に近い赤で、燃えるようです わが家のツツジは、えんじ色にくすんでいて、葉先が枯れてお世辞にも美しいとは言えません。
 これは夏の水やりの失敗のせいです。水を与えすぎると太陽が昇って暑くなった時にも、葉は水を吸って気孔が開いていますから、葉先から枯れてしまうのです。植物は正直ですから、おかしな時間に水を与えたり、多く与えすぎても、暑い日の葉水で葉がすっかり落ちるように、たとえ根元にだけやっても、気温が高くなると葉先からしおれて来て、やがてそこが枯れるのだということを、今年になってやっと気づいたのです。
 ずっとお留守の家で酷暑に耐えている樹でも、枯れないところを見ると、いかに水の与えすぎが悪いかも解るというものです。
 家族には、可愛がり過ぎて、せっせと水やりをし過ぎるから駄目だ、と注意されました。本当にそうなのですね。
 私がドウダンツツジに魅せられたのは、6年前に角館の武家屋敷を見た時の記憶によるものです。紅葉の美しい角館の武家屋敷の通りを歩いてみたくて、私達は秋の旅の幾ヶ所の中に角館を選んだのです。
 角館の桧木内川(ひのきないかわ)の川岸沿いに続く桜もみじの並木も見事でしたが、何と言っても武家屋敷の中央を通る道の、両側のもみじの美しさと、静かな武家屋敷のたたずまいが、忘れられません。
 紅葉の美しさは、その日のお天気の良さにも左右されますが、晴天の日に紅葉が鮮やかに織りなす道は、散策にはもってこいの心地よさでした。
 特に心に残ったのが、或る武家屋敷の、道路から家の玄関までの間にずらりと並んだ、ドウダンツツジのトンネルの美しさでした。奥ゆかしいという言葉がピッタリの美しい前庭でした。
 ドウダンツツジは、漢字表記にすると「灯台躑躅」と「満天星躑躅」の二種があります。灯台躑躅の表記の由来は、枝分かれした躑躅の姿が「結び灯台」(三本の支柱を交差させて、その上に油皿を置いて火をともす昔の照明器具)の脚部に似ており、その「トウダイ」が呼び名に変化したものといわれます。
 また満天星躑躅と書くのは、中国に太上老君(たいじょうろうくん)という、道教の神様がいて、この太上老君が誤って、天からこの木に霊水をこぼしてしまいました。すると、霊水が壺状にかたまって、満天の星のように輝いたといわれて「満天星」という表記になったのだそうです。
 花は白・ピンク・赤など様々なようですが、私は白と淡いピンクしか知りません。5ミリほどの白い小さなスズラン様の花が、本当に天上の星の様に、びっしりと垂れ下がって咲き、とても上品で愛らしい花です。秋は紅葉が見事で、春の白い花よりも一層人を惹きつけます。
 花言葉はドウダンツツジ全般に、「上品」「節制」だそうですが、本当に上品な花です。私達が良く利用していた図書館の前庭も、丈の低いドウダンツツジが広く植えられていて、見る度にその紅葉の見事さに溜息が出ました。小さくてもしっかり自己主張しているその健気さに頭が下がる思いです。

 媼住む満天星垣のその奥に  佐々木 紫

 大原や躑躅の中に蔵建てて  蕪  村 (何れも俳句歳時記主婦の友社)

 角館の「生あんもろこし」という餡のお菓子が気に入りました。見ることも好きですが、食べることも大好きです。


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美しい顔

2016年11月02日 | 随筆
 顔というのは、個人を判別し理解する最も重要な人体の要です。言うまでもなくDNAに左右されていますから、何処か母親似だったり、父親似だったりします。
 「生まれたままの顔というものはどんなに醜くても醜いなりの調和がある」と伊丹万作(映画監督)は「日本の名随筆」(作品社)に書いています。同時に「医者の手にかかった顔というものは、無残や、これはもうこの世のものではない。もし世の中に美容術というものがあるとすれば、それは精神的教養以外にはないであろう。顔面に宿る教養の美くらい不可思議なものはない。
 精神的教養は形のないものである。従って目に見える道理がない。しかし、それが顔に宿った瞬間にはそれは一つの造形的な美として吾人の心に触れてくるのである。」とも言っています。
 伊丹万作は、まだ美容整形の技術のレベルがさしたるものでは無く、持って生まれた自分の顔を整形してしまうことに反対だったのです。
そして精神的教養が顔に宿った瞬間に美しいと感じさせ、見ている人の心に触れて来るのだと言っています。
 私も自分の顔にメスを入れようとは思いませんが、事故や病気で、やむを得ず形成外科のお世話になる人も、また「プチ整形」と言って少しばかりの皺を取る等も、最近は身近にあるようです。
 若い頃は、両親のどちらに似ている顔なのか、判然としないところもありますが、段々年を取ってくると、遺影の亡母そっくりになっている自分に気づいたりします。それは何とも懐かしいような、ほのぼのとした感じで、亡母の子育ての苦労を偲んだりします。
 精神的教養論は、まさにその通りだと感じます。目に見えない「教養」が、顔に宿った瞬間に、造形的な美しさとして、見ている人の心に触れて来るものだ、というところは実に説得力があります。
 またリンカーンの名言として「40になったら自分の顔に責任を持て」というのがあります。これも40歳ともなれば、己の努力で教養を積めば、どのような顔に生まれたとしても、それなりに気品や味わいに満ちた顔立ちになると言うことでしょう。その逆も当然成り立つわけですが。
 遠藤周作によると、哲学者サルトルは、生来のやぶ睨みの顔であり続けたそうです。若い時に手術によって、眼を治せると言われても、「これが自分の顔なんだから」と。
 遠藤はサルトルが日本に来た時、二言三言話しをする機会があったのですが、「その顔には、彼がつくった魅力があった」と言っています。だから「親がくれた顔をいかにして魅力あるものに変容するかも男の仕事の一つだと思う」と「眠れぬ夜に読む本」(光文社)に書いています。
 ここまで読むと、親から貰って来た顔を捨てて、美容整形手術など行わず、自分の顔に「これが私です」と誇りを持ってほしいと思うようになります。
 教養を積み心豊かな人の顔は、にじみ出る個性が周囲の人達の心に安らぎや温もりを与えます。これこそ本当の意味で「魅力のある顔立ちの人」と言えるでしょう。そしてこの本当に美しく魅力ある顔立ちの人には、男女を問わず誰でもなれるのです。顔より心の美しさこそ大切なのだとしみじみと思いす。
 私の家の本棚に濱谷浩写真集「学芸諸家」(岩波書店)があります。ノーベル賞を受章した原子物理学者の「湯川秀樹」やノーベル文学賞の「川端康成」哲学者の「安倍能成」詩人・翻訳家の「堀口大学」仏教哲学者の「鈴木大拙」ウ゛ァイオリニストの「巌本真理」能楽師喜多流14世宗家「喜多六平太」などジャンルを超えて、それぞれに学芸を究めた人達ですが、本当によい顔をしています。
 伊丹万作は「私の顔も死ぬる前になれば、これはこれなりに、もう少ししっくりと落ち着きを持ち、今よりはずつと安定感を得てくるに相違ない。だから私は鏡を見て自分の顔の未完成さを悟るごとに、自分の死期はまだまだ遠いと思つて安心するのである。」と書いています。
 死は何時訪れるか、それは解りませんが、多くの人が私と同じように「未だ少しは先があるだろう」と思って生きています。従ってまだなすべきことはあるわけです。私も一層教養を積む努力をして、ホイットマンの残した言葉

 若い女性は美しい。しかし老いた女性はもっと深く美しい
                 ウォルター・ホイットマン

のように「深く美しい」人間に向かって努力しようと思っていす。


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