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映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

告白

2010年07月18日 | 邦画(10年)
大評判の『告白』をTOHOシネマズ日劇で見てきました。

(1)この映画の原作本である湊さかえ氏の同名の小説は、一昨年の『週刊文春』の「ミステリーベスト10」で第1位であり、また本屋大賞をも受賞していますから、いつもだったらとっくに読んでいるところなのですが、なぜか敬遠してしまっていたところ(第2位の『ゴールデンスランバー』の方を読みました)、この映画もサスペンス仕立てですから読まずにいて正解でした!

 作品のごく簡略な粗筋は、中学教師である森口悠子(松たか子)が、自分の最愛の娘を、担任していたクラスの生徒―渡辺修哉と下村直樹―に殺されながらも、少年法の壁によって彼らが十分に罰を受けなかったことから、自ら復讐してしまうお話、というように言えるでしょうか。
 とはいえ、森口先生らの「告白」内容を、そのままストレートに信じていいのかについては、「なんてね」と最後に松たか子が言うところからしても(注)、疑問が湧いてくるように映画は作られていますから、こうした粗筋もあるいは成立しないのかもしれません。
 要すれば、この映画はサスペンスではあるものの、内容だけでなく形式それ自体もサスペンス的なものとなっていて、その点が頗る興味深いことだな、と思いました。

 主役の松たか子は、『ヴィヨンの妻』でもそうでしたが、十分練りこんだ演技を披露して感動的です。特に、最初のクラスで「告白」する場面は、まさに鬼気迫る感じで圧倒されました。
 また、先日『瞬 またたき』での活躍ぶりを見たばかりの岡田将生が、松たか子の後任の担任教師・寺田良輝役を演じているところ、この物語にふさわしい的確な演技をしています(当初はかなりオーバー目と思える熱血先生振りも、森口先生に要請されたものだと判明すれば、十分納得されるところです)。
 さらには、個々の生徒に扮した若い俳優たちの演技も実に自然さが漂っていて、映画全体の質を高めるのに貢献していると思いました。
 加えて、最後の講堂での大勢の生徒を使ったシーンは、大層様式化されていて見ごたえがあります。

 ということから、この映画は、最近では出色の出来栄えではないかと思います。
 とはいえ、いろいろ問題はあるのかなと思いました。

イ)森口先生が、講堂の演壇の内側に生徒の渡辺修哉が爆弾装置を設置したことを事前に察知して、起爆装置を破壊してしまったために、学校では大惨事は起こりませんでした。
 ただ、どうして事前に察知できたかというと、修哉があらかじめネットに掲載したブログ記事を読んだからとのこと。
 修哉は、2学期の始業式の日に自分も死ぬつもりでいますから、前日に記事を掲載したとも考えられます。ですが、常識的には、記事の「予約投稿」ができるのですから、爆弾が爆発するであろう時間よりも後に公表されるようにセットするのではないでしょうか?その場合には、いくら森口先生が修哉のブログを毎日チェックしていても、爆弾装置の設置のことまで予め把握できなかったことでしょう!
〔尤も、修哉の行動には完全性が欠けていて、この場合も、不注意から犯行に関する記事を自分のブログに予め掲載してしまった、とも考えられるところです。〕

ロ)昨今では中学校におけるエイズ教育が進展していて、牛乳にエイズ患者の血液を注射器で注入したくらいでは、なかなか感染しないものだとは、大部分の生徒は知っているのではないでしょうか(現に、修哉の血液検査の結果は「陰性」でした!)?
 にもかかわらず、森口先生がクラスの生徒にそのことを明らかにすると、生徒全員がパニックに陥りますが、それははたして現実的でしょうか?
〔尤も、母乳哺育による乳幼児のエイズ感染という事例がいくつもあるそうで、そこから類推すれば、あるいは感染の可能性を全面的に否定できないのかもしれません。〕

ハ)修哉が、最後に学校で大惨事を引き起こそうとしたのは、母親の注意を自分に引き付けるためだったとされ、それは修哉のマザー・コンプレックスがしからしめるものだと説明されています(そのためには、学校の生徒という無関係な者が犠牲になって、社会的な怒りが修哉に集中する必要があったとされています)。
 ただ、修哉の母親は、修哉が彼女を求めているのを十分に知りながらも、自分のこと、研究者として行きたいという自分の願いを第一に考えて、修哉から離れてしまう女です。常識的には、修哉は母親を酷く憎むのではないでしょうか?としたら、森口先生が最後にしたことは、無意識的に修哉が求めていることの実現ではなかったか、決して修哉に罰を与えたことにならないのではないか、とも解釈できるかもしれません。
〔尤も、マザー・コンプレックスといっても、様々な要因が含まれるのであって、その中には当然のことながら肯定的な要因―「愛情」―だけでなく、否定的な要因―「憎悪」―も含まれていると考えられるところです。〕

ニ)森口先生は、自分の娘を殺害した生徒が少年法の壁によって厳しい罰が与えられないところから、自分自身で「復讐」しようとするのですが、どんな理由があろうともそれはやはり私的制裁であって、法治国である日本では許されるべきものではないはずなのに、森口先生の復讐について映画ではなんら疑問視されていない点には大いに問題を感じてしまいます。
〔尤も、森口先生の復讐が実際に行われたのかどうかについては、この映画では確定できないように作られていると思われ、仮に実行されていないのであれば、こんなことを問題視しても意味はありません。〕

ホ)元々よく分からないのは、いったいなぜ映画は、3学期末の終業式の日における森口先生の「告白」から始まるのでしょうか?何を誰に何のために「告白」するのでしょうか?


(注)下で触れる粉川哲夫氏が、この点について次のように述べています。
「「なんてね」は、「なんちゃって」よりもソフトな言いかただが、いずれにしても、一旦強いことを言い、相手を驚かせたり、脅かしたりしたあとで、「なんちゃってね」と言うことによって、すべてを「水に流す」語法である。むろん、言ってしまった以上、いくら「なんちゃってね」という語を付加しても、言ったことが無化されるわけではないから、この語法は、そういう形で、言ったことがもたらすかもしれない深刻な帰結に対する責任を回避する予備工作的な操作である」。


(2)そこで「告白」です。
イ)「告白」というと、ルソーの『告白』とか、アウグスティヌスの『告白録』などが思い浮かぶところ、 なんとなく西欧的な概念、あるいはキリスト教的な行為(注)という感じがしてしまいます。
 とはいえ、いうまでもないことながら、映画『告白』における「告白」は宗教的行為とは言えません。
 ただ、原作の小説においては、第1章のタイトルが「聖職者」、第2章は「殉教者」、……第6章も「伝道者」とされていて、原作者はキリスト教における「告白」を十分に意識しつつ小説を書きあげているものと考えられるところです。

ロ)「告白」についてまずクマネズミが思いつくのは、例の『愛のむきだし』において、主人公のユウが神父である父親テツに対して、犯した様々の罪を「告白」する場面です。
 6月14日の記事でも若干触れたところですが、同作品において、ユウ(西島隆弘)の父親テツ(渡部篤郎)は、情熱的な女性カオリ(渡辺真起子)がたった3ヶ月で自分の下を去ると、ユウに「懺悔」を強要するようになり、ユウは、愛する父との繋がりを保とうとして、罪を「告白」するようになります。
 元々ユウは虫も殺せないほどの優しい性格でしたから、なかなか告白すべき罪などみつけられません。それでも、目の前に子どもを連れた母親がいたが疲れていたので席を譲らなかった、などの他愛もない告白をします。
 でもそのくらいでは父を満足させられないようなので、自分でわざと罪を作ってそれを告白するようになります。例えば、見つけたアリを足で踏みつぶしてしまうとか、足元に転がってきたボールを、それで遊んでいた子どもたちとは別の方向に蹴り出すなどといったものです。
 そのうちに、不良青年たちが自動販売機を破壊するのに加わったことからその仲間に入り、ついには「盗撮」行為を犯すようになるわけです。

ハ)また、酷く唐突ながら、フランスの哲学者M・フーコーが、その『性の歴史Ⅰ 知への意志』(渡辺守章訳、新潮社)の中において、「告白」を取り上げています。
 すなわち、フーコーは、まず「少なくとも中世以来、西欧社会は、告白というものを、そこから真理の産出が期待されている主要な儀式の一つに組み入れていた」のであり、「告白は、西欧世界においては、真理を生み出すための技術のうち、最も高く評価されるものとなっていた。それ以来、我々の社会は、異常なほど告白を好む社会となったのである」と述べます(同書P.76~P.77)。
 そして、「キリスト教の悔悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった」というところから、西欧における「告白」と「性」との関係を分析していきます(P.79)。
 ですが、そこからはクマネズミの手にあまりますし、映画との関連性も薄い思われますので、ここでは、「告白」に関して、フーコーが一般的に述べている個所を引用してみることにしましょう。
 すなわち、「人は、少なくとも潜在的にそこに「相手」がいなければ、告白はしないものであり、その相手とは、単に問いかけ聴きとる者であるだけでなく、告白を「要請」し、「強要」し、評価すると同時に、裁き、罰し、許し、慰め、和解させるために介入してくる裁決機関なのである。」「そこでは、口に出して言うということだけで、それを言語化した者においては、それが招く外的結果とは関係なく、内在的な変化が生じるような儀式である」(P.80)。

ニ)そこで述べられていることからすると、今回の映画における冒頭の森口先生の「告白」はどのようにとらえられるでしょうか?
・誰の「要請」に基づく「告白」なのでしょうか〔誰かに「強要」されてというより、森口先生自身の内心の声とも思えますが。しかし、なぜいきなり森口先生は「告白」するのでしょうか〕?
・誰を「相手」とする「告白」なのでしょうか〔クラスの生徒全員でしょうか、修哉と直樹でしょうか。しかし彼らは「裁決機関」なのでしょうか。そうでないとしたら、なぜ森口先生は「告白」をするのでしょうか〕?
・そこで「告白」されていることは「真理」なのでしょうか〔神の赦しを請うものであれば「嘘」は混じっていないはずですが、森口先生の「告白」は神の赦しを求めるものではないとしたら〕?
・「告白」されている内容は何に関するものでしょうか〔森口先生の「告白」には、性にかかわるものはほとんど含まれてはいないように見受けられます。でも、言葉に現れていない次元で「性」にかかわっているのではないでしょうか〕?



(注)ごく大雑把にいえば、「告白」とは、カトリックでは「告解」、プロテスタントでは「悔い改め」と言い、自分が犯した罪を他者(一般には、牧師や神父)に申し述べることを指すようです。そうすることで自分が罪を犯していることを認め、神の赦しを乞うための儀式とされているようです。

(3)評論家等の論評を見てみましょう。
 「映画ジャッジ」の面々は、この映画を高く評価しています。
 前田有一氏が、「レディオヘッドやクラシック曲がいい具合に使われ、スローモーションや青みがかった映像、けれん味あふれるVFXの効果など、監督の演出もびしっと決まっ」ており、「全員の持てる力が総動員された、映画らしい映画」であり、「現時点(2010年6月)における、私が見た中で本年度ベストといえる」と絶賛して95点を、
 福本次郎氏は、「様々な角度から撮影された短いカットを積み重ね、強調と省略、アップと遠景など、あらゆる表現術を駆使して心理的リアリティを追求した映像は衝撃に満ち、一瞬も気の緩みを許さない緊張感を孕む」として80点を、
 渡まち子氏は、「「犯人は少年法で守られる。でもこのままにするわけにはいかない」。同様の無念を抱く事件が現実に多いだけに、主人公のこの言葉はリアルな憎しみとなって観客に迫ってくるだろう。犯罪の法的処罰などまったく念頭に置いていないところに、この映画の暗いカタルシスがある」などとして70点を、
それぞれつけています。

 他方で、評論家の粉川哲夫氏は、この映画について、論評の冒頭で「この作品、力作だと思う」と述べるものの、最終的には「非常にいい線を行きながら、結局は「旧世代」の目線になっていると思う」と評しています(星4つの内の3つ。4月28日の記事)。

 また、評論家の浦崎浩實氏は、「僕は途中で寝ちゃったんです。……あれ、第一章の彼女の話だけでもう完結しているんじゃないかと」。「(松たか子は)大きな声では言えないけれど、大根ですよね。あの人はほっぺたと口の周辺だけで芝居している」などと語っています(雑誌『シナリオ』8月号「桂千穂の映画館へ行こう」)。

 さらに、監督の井筒和幸氏は、7月3日号『週刊現代』掲載の「今週の行ってみる?」において、この作品を徹底的にこき下ろしています。
 クマネズミとしては、映画ジャッジの評論家たちの言っていることの方に軍配を上げたいものの、現役の映画監督の意見ですから拝聴すべきところもあるのではとも思われます。であれば、まずは井筒監督が製作し現在公開中の『ヒーローショー』がどんなものなのか、それを見なくては話が始まらないと思い立ち、急遽映画館に出かけてみました。
〔以下は、明日の記事として掲載したいと思います。〕


★★★★☆

象のロケット:告白


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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
楽しみ (えい)
2010-07-18 09:43:13
井筒監督がどのような論調でこの映画を否定していたのかも気になりますが、
クマネズミさんの『ヒーローショー』論がさらに気になります。
井筒監督のレビューを引き合いに出されて書いてくださると、
さらに嬉しいです。

しかし、浦崎さんも大胆!
TBありがとうございます (ゴーダイ)
2010-07-18 11:26:43
私もこの映画セリフばっかりでかなり退屈でした。

ちなみにHIVの母乳感染率は、赤ちゃんの時に母親とへその緒で繋がれていた時に感染している可能性もあるので、算出が難しいようです。
・・・ってそういう突っ込みは野暮なんですよね。

この映画一見社会はですが、いわば漫画のように嘘っぱちのファンタジー映画で、私も森口の告白(=出だし)からリアリティを感じなかったんです。

そういえばミシェルフーコーってたしか同性愛者でしたよね(関係ないですが・・・)。
Unknown (かからないエンジン)
2010-07-18 22:07:09
TBありがとうございます。
そういえば、確かに「愛のむきだし」も「告白」から始まる作品でしたね。あの時の映画館の盛り上がりを思い出します。

井筒監督、またそんなことをおっしゃられていたのですか・・・。
正直、あの方にはいい加減、視野を広げて頂きたいと思っているのですが・・・。
Unknown (リバー)
2010-07-19 00:31:35
TB ありがとうございます。

私的には質の高い映画だったと思います
映像、音楽等 優れていて

批判した批評も読んでみたいですね
評価~ (cyaz)
2010-07-19 09:56:38
クマネズミさん、こんにちは^^
いつもTBありがとうございますm(__)m
今回はどうも禁止ワードかなにかに引っかかり、
どうもこちらからのTBが反映しないようです。すみませんm(__)m
僕的には原作~入り、映画も観ましたが、
特にこの映画での松たか子の演技の評価は素晴らしかったと思っています。
コメントありがとうございます (ゴーダイ)
2010-07-20 14:56:21
私は評論なんてレベルの高いことはしていません(笑)。ただの感想です。
この映画とは自分の感性が合いませんでした。
ただそれだけのことで、気を悪くされたらすいません。
TBありがとうございました (シムウナ)
2010-07-26 16:04:13
TB有難うございました。
今年度の邦画の中では1,2位を争うほどの
満足度でした。単純に面白いと一言で
終わらせてはいけないほどの衝撃がありました。
復讐を達成するため、善人でいるのか、自らも
悪人となるのかその境界線を彷徨う松たか子の
演技にも魅了されました。

今度、訪れた際には、
【評価ポイント】~と
ブログの記事の最後に、☆5つがあり
クリックすることで5段階評価ができます。
もし、見た映画があったらぽちっとお願いします!!
ああそういえば・・・ (ふじき78)
2011-01-08 02:24:43
こんな映画でしたね。

リアルは要素の一つであって、リアルであれば面白いが成立する訳ではない。例えばフランスの宮廷を描いた映画なんて、今の自分から観てリアルのカケラもない。でも、だからつまらない訳でもない。松たか子の演技がリアルを突き抜けてるところにもよさがあると思う。
リアル (クマネズミ)
2011-01-08 06:27:50
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、「リアルであれば面白いが成立する訳ではない」ですし、井筒監督だって、日本の「私小説」が今や誰も読まなくなっている現実を知らないわけではないと思うのですが。

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