映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

偉大なる、しゅららぼん

2014年04月02日 | 邦画(14年)
 『偉大なる、しゅららぼん』を渋谷TOEIで見ました。

(1)本作は万城目学氏の原作(注1)を映画化したものながら、クマネズミの生まれ故郷に近い滋賀県の彦根長浜などがロケ地に選ばれていると聞いて(注2)、映画館に出かけました。

 ところで、クマネズミの家から車で20分位のところに府中市美術館があり、規模はそれほど大ききくないものの、しばしば実に興味深い企画展が開催されるので、よく訪れます。
 いま開催されている展覧会は『江戸絵画の19世紀』。
 雨の休日に同展を覗いてみたところ、目を楽しませてくれる様々の絵の中に鈴木其一の「琵琶湖風景図」がありました。作品の左手下に彦根の町、遠くに比叡の山々、そして中央に大きく琵琶湖が描かれ、その真ん中に竹生島が置かれているのです(注3)。

 さて、本作の冒頭は、その竹生島。
 松明が炊かれる神社の社殿では、人々が見守る中で乳児の額に土器のお皿を乗せると、水が飛び散って乳児が泣き出し、その腕には赤い印が現れます。
 「淡十郎に続いて今年2人目だな」「名前は涼介」「15年後の修行の時まで頼んだぞ」との声がします。
 その一行が廊下を進むと、向こうから別の集団が現れ、先頭の男が「我が息子、棗広海だ」と述べます。

 場面は変わって、琵琶湖湖畔にある現代の街・石走(注4)。
 15年後の日出涼介岡田将生)が、先祖から伝わる「力」を修得すべく修業をするために、石走城で暮らす日出淡十郎濱田岳)に会いにやってきます。



 この城には、淡十郎の他に、その父親である淡九郎佐野史郎)、その姉の清子深田恭子)、涼介の師匠となる濤子貫地谷しほり)といった者が住んでいて、また、同じように不思議な「力」を受け伝えながらも「日出」家と対立する一族「棗」家も、石走の街に住んでいるようです。
 さあ、この物語はこの先どんな展開を見せるでしょうか、………?

 随分と面白い設定ではあるものの、2時間の映画枠の中に収めるにしては、登場人物が多い上にその関係が複雑で、様々な説明を行っている内に映画が終わってしまうのは残念至極と思いました。

 俳優陣はそれぞれまずまずの演技ですが、中では濤子に扮した貫地谷しほりが印象的でした(注5)。



(2)本作を見ると、同じ原作者の小説に基づいている『プリンセス・トヨトミ』と比べてみたくなってしまうところ、本作でもやはり、
イ)設定が大仰の割に展開が貧弱だなという印象を持ちました。
 『プリンセス・トヨトミ』の場合、現在の大阪の地下に中井貴一を総理大臣とする「大阪国」が存在するという奇想天外な発想で出発します。ですが、その後ストーリーがさらに驚くような展開を見せるのかと期待させるものの、実際のところは、重大問題が起きても大勢の人々が庁舎前に集まるだけで大したことが起こりません。
 本作においても、人の心を操る「力」を受け継ぐ日出家と、時間を止めて人の動きを操作できる「力」を受け継ぐ棗家とがいがみ合うという設定自体は、ものすごく面白いと思います。
 でも、「力」を発揮させても、耐えられないような音がするだけで、あまり派手派手しい動きにはならずに、いともあっけなく物事が終わってしまうのです(注6)。

ロ)先祖からの伝承が大切だとされながら、その内容が十分に説明されていないように思われます。
 『プリンセス・トヨトミ』の場合、それぞれの父親が息子に個別的に1時間話をすることになっていますが、その中身については明かされません。
 本作でも、日出家と棗家との諍いは1000年以上にわたって続いているとされますが、そもそも両家の「力」の由来・原点はどこにあって(注7)、それが現代までどのように変遷して伝えられてきているのかに関する説明はきちんとなされていないように思われます(注8)。

ハ)地域限定版という感じがします。
 『プリンセス・トヨトミ』の場合、お話はあくまでも「大阪国」を巡るものですが、本作の場合も「琵琶湖」を巡る話となっています。日出家や棗家が伝える「力」を発揮できるのは琵琶湖が見える範囲に限定されていますし、また、最後に現れる「あれ」も、縄張りを荒らすものを懲らしめるというだけで登場して、すぐに消えてしまいます。
 なんだか、現代のグローバル化している世界とは逆向きのベクトルを感じてしまうのですが(注9)。

ニ)ファンタジーの世界にもかかわらず、ラブ・ストーリーが上手く組み込まれていない感じです。
 『プリンセス・トヨトミ』の場合、本作にも出演している岡田将生を巡る恋愛話があってもいいのではと思いましたが、本作でも、折角深田恭子や貫地谷しほりなどが出演しているにもかかわらず、岡田将生の涼介にそうしたことは起こりません。
 描かれるのは、淡十郎が校長の娘・速水沙月大野いと)に淡い恋心を抱いているくらいで、それも彼女は棗広海に惹かれているというのですから話になりません!

 とは言うものの、兎にも角にも本作は滋賀県を舞台にするものですから、クマネズミは許してしまいます!

(3)渡まち子氏は、「琵琶湖のほとりを舞台に不思議な力を持つ一族とそのライバルが繰り広げる騒動を描く「偉大なる、しゅららぼん」。ユルい笑いと摩訶不思議な世界観を楽しみたい」として65点をつけています。
 また、相木悟氏は、「ぶっ飛んだ内容ながら、様々な暗喩に満ちたユニークな青春映画ではあるのだが…」と述べています。
 さらに柳下毅一郎氏は、「延々説明されてもなぜこんな設定なのかって理由がひとつもない。だったらただのこしらえものでしかないではないか。で、この上にさらに無意味な設定がかさなり、それがすべて言葉で説明され、そこに突っ込みがはいって……で、このどこが面白いんでしょうか?」と述べています。



(注1)万城目学著『偉大なる、しゅららぼん』(集英社文庫)。

(注2)琵琶湖を舞台にした映画ということで思い出されるのが、やや古い作品ながら、橋本忍監督の『幻の湖』。
 ただ、この映画については、“世紀の駄作”とも言われ、またWikipediaによれば、「あまりに難解な内容のため客足が伸びず、公開からわずか一週間(二週間とも言われる)で打ち切られる事となった」ようです。
 実際にDVDを借りて見てみると、決して「難解な内容」ではないものの、やはりストーリー全体のバランスがうまくとれておらず、160分を超える長さもあり、どうしようもない作品といえるでしょう。
 なにしろ、琵琶湖沿岸の雄琴で働くソープ嬢と愛犬シロの話、戦国時代のお市の方とその侍女を巡る話、それにスペースシャトルによる宇宙飛行の話、という具合にそれぞれ別の映画が作られてもおかしくないストーリー(相互に密接な関連性があるとは考えられないものです)がたった1つの映画の中に取り込まれているのですから、ヨクこうした映画に会社が資金を投入したものだ、と見る方は呆気にとられてしまいます。
 とはいえ、滋賀県が主な舞台となっていますし(長浜市にある渡岸寺の十一面観音像などが紹介されてもいます)、マラソンの場面―問題の二人が長距離走のスタイルで追っかけるシーンには笑ってしまいます―が随分と映し出されていたりして、一概に“駄作”と切り捨ててしまうには惜しい気もしました(と言って、カルトファンになる気は毛頭ありません)。

(注3)作品の中央より下のあたりには、いまでは干拓されてしまった内湖松原内湖)が描かれています。
 なお、鈴木其一は「江戸琳派」に属する画家とされ、装飾的な作品が多いのですが、その中でこの「琵琶湖風景図」は異色の風景画です。
 また、今回の展覧会は、江戸時代末期に出回っていた様々の絵画(名前が余り知られていない作者が大部分です)が、従来とは異なる視点から見ると実に輝いて見えてくるのを来訪者にわからせてくれる好企画だと思いました。

(注4)石走は架空の街で、原作によれば、琵琶湖の「湖東と湖北のちょうど境目、琵琶湖に面した小さな街が石走」とあり、さらに「東海道本線の新快速で米原下車、さらに北陸本線で北に向かう」、「長浜より手前の鈍行だけが停まる石走」とあります(P.25)。
 彦根は米原の南に位置しますから石走ではありませんが、彦根城があることからロケ地に選ばれたのでしょう。

(注5)最近では、濱田岳は『永遠の0』、岡田将生は『四十九日のレシピ』、深田恭子は『ルームメイト』、貫地谷しほりは『くちづけ』、佐野史郎は『千年の愉楽』でそれぞれ見ています。
 この他、本作には、笹野高史村上弘明津川雅彦なども出演しています。

(注6)なお、原作では、日出家や棗家が引き継いでいる「力」は「琵琶湖が授けた刻印」だとされていて、この3年間「力」を持った子供が生まれていないのは「環境問題のせいじゃないか」と淡九郎は考えている、と述べられています(P.204)。

(注7)長々しい原作や本作で達成されることといえば、淡十郎が日出家の次期当主としての自覚が芽生えてきたということくらいでしょうか。

(注8)原作においても、「日出家と棗家の対立の歴史は根深い」とされながらも(P.200)、すぐその後で「だが、その構図は実のところ驚くほど単純で、およそ歴史と銘打つのがばかばかしいほど、まるで中身がない」とされているくらいですから(P.201)。

 ただ、興味深いのは、「(濤子によれば)むかしは琵琶湖だけではなく、日本じゅうの湖に同じような力を持った連中がいたそうだ。しかし、今は琵琶湖を除き、「湖の民」はすべて消え去ってしまったという」と原作に書かれている点です(P.203)。
 なんだか、「湖の民」などとされると、柳田國男の「山人」に対応する概念のようにもっともらしく思えてきます〔最近では、柄谷行人氏が『遊動論 柳田國男と山人』(文春新書)において、「なぜ柳田は「山人」の問題を考えたのか。そして、以後彼はそれを放棄したのか。放棄しなかったとすれば、どうしたのか」(同書P.42)に関して議論をしています←尤も、池田信夫氏は、この記事で同書につき「あまりの無内容にあきれた」と断定的に述べているところ、果たしてそんなに簡単に同書を葬り去ることができるのでしょうか?←例えば、この書評を参照〕。

 なお、上記「注3」で触れました松原内湖があった場所を2008年に発掘したら、「奈良時代の集落跡や中世の屋敷地跡などが良好な状態で見つか」ったとのこと。それで、「これまで行われた松原内湖遺跡での発掘調査により、旧松原内湖岸では縄文時代から江戸時代にかけて、連綿と人々の営みが行われていたことがわかってき」たようです(このサイトの記事によります)。
 本作も、日出家と棗家とのいがみ合いは1000年以上続いているとされていますが、こういう辺を踏まえたりすれば歴史的な奥深さが出てくるのではないでしょうか?

(注9)竹島とか尖閣諸島を巡っての韓国や中国とか、ウクライナを巡ってのロシアとかで見られるナショナリズム的な動向が、この映画のベクトルに見合っているといえるかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:偉大なる、しゅららぼん