映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

アデル、ブルーは熱い色 

2014年04月16日 | 洋画(14年)
 『アデル、ブルーは熱い色』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)本作(注1)は、昨年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得した作品だと聞いて映画館に出かけました。

 本作は、高校生のアデルアデル・エグザルコプロス)が家を出発し登校するところからはじまります。



 やっとのことで教室に滑り込み、皆と一緒に『クレーヴの奥方』を読んでいきます。
 授業が終わると、外では女生徒たちが話し込んでいますが、中の一人が、「トムがアデルを見ている」と言います。さらに「悪くないわ、ルックスはいいし」と言ったのに対し、アデルは「ブラピには劣る」と応じるものの、まんざらでもない様子。
 次の日に、アデルがバスに乗ると、トムが隣に。
 天気のこととか、アデルが手にしている本(『マリアンヌの生涯』)のことなどを糸口にして会話が弾み、トムがアデルよりも1学年上の生徒であることもわかります。
 さらに、アデルが「長髪で叫ぶハードロックは嫌い」と言うと、トムは、「残念、僕はハードロックをやっている」と答えたりします。
 休日にアデルが街を歩いていると、女同士で歩いているカップルに遭遇し、特に髪の毛をブルーに染めている女性の方になぜか心が騒いでしまい、夜寝ている時も彼女を思い起こして体が火照り飛び起きてしまうほど。
 ついにアデルはトムと肉体関係を持つに至るものの、でもどうしても心が伴わず(「トマを騙しているみたい」)、ついに別れてしまいます。
 そして、アデルはとうとう髪の毛がブルーの女・エマレア・セドゥ)にとあるバーで遭遇するのですが、さて二人の関係はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、出会った時は高校生のアデルと美術学校に通うエマとの同性愛が中心的に描かれていいます。お話自体すごく単純なものの(出会って、高揚して、別れる)、とても丁寧に美しく創られており(ラブシーンもこの上なく綺麗とはいえ、些か長いのでは)、3時間の長尺ながら少しも飽きないで見ることが出来ました。

 アデルに扮したアデル・エグザルコプロスは初めて見ましたが、実に魅力的な若手女優であり、またエマを演じたレア・セドゥは『ミッド・ナイト・イン・パリ』などで見ましたが、アブデラティフ・ケシシュ監督や共演のアデル・エグザルコプロスとともにパルムドールを受賞したのも肯ける名演技です(注2)。



(2)いくつかの観点から、アデルとエマの違いを見てみましょう。

イ)文学のこと
 映画では様々の小説が持ちだされます。
 上記の『クレーヴの奥方』(ラファイエット夫人)や『マリアンヌの生涯』(マリヴォー:分厚いのでトムが音を上げています)の他にも、『危険な関係』(ラクロ:トムが読み切った本で、アデルも知っています)、『アンティゴネ』(ソポクレス:アデルの授業で)など。
 アデルは読書好きで、こうした様々の小説を読んでいますが、トマに対して、「授業で教師がするように綿密に分析するのはウザくない?分析すると、想像力がそこでストップしてしまうからつまらない」と言っているように、どちらかと言えば感覚的に小説を味わいたい方だと思われます。
 これに対して、エマは『実存主義とは何か』(サルトル)は必読だと言って、サルトルの言葉を引用したりしますから(「高校時代にサルトルに熱中したの」)、むしろ知的な方面が好みなのかもしれません(注3)。

ロ)美術のこと
 エマとアデルが美術学校の生徒たちを読んで開いたパーティーで、誰かが「エゴン・シーレについて博論を準備中だ」と言うと、エマが「私はクリムトの装飾的なところが好き」と応じたりします。
 他方、アデルは、音楽や美術の方面はひどく疎いようです。音楽については、「譜が読めないからやらない」とトマに言いますし、「画家で知っているのは?」とエマに尋ねられ、かろうじて「ピカソ」と答えるにすぎません(注4)。

 なお、エマとアデルが開いたパーティーの席で、エマはアデルのことを「私の創造の女神、美の源泉」と紹介します。ラストで描かれるエマの展覧会においては、アデルをモデルにした絵だけでなく、アデルの後にエマが愛しているリーズをモデルにした作品も見られます。
 あるいは、エマにとって、愛の対象となるのはモデルとして価値のある女性ということなのかもしれません。
 他方で、アデルの愛は純粋であって、打算的な要素は紛れ込んでいないように思われます。

ハ)映画のこと
 アデルとトマが一緒に映画館に行くシーンがありますが(注5)、エマに語ったところによれば、「アメリカ映画をよく見るから英語は得意で、特にキューブリックやスコセッシが好き」とのこと。
なお、エマは、「自分は英語は全然ダメ」と言います。

ニ)キスのこと
 エマは、14歳のときに最初に女の子とキスをしたと言い、アデルと出会った時にはサビーヌと2年位付き合っていたりして、随分と経験を積んでいるようです。 



 これに対して、アデルの方は、トイレで女生徒にキスをされたくらいで(注6)、エマに会うまではこれといった経験がありません。

 この他にも、アデルとエマとで所属する階層に差がある点など幾つもあげられるでしょうが、とにかくこんなあんなでアデルとエマの間には微妙な齟齬が次第に生じてきて、後の展開に影響してくるものと思われます(注7)。

(3)渡まち子氏は、「運命的に出会った二人の女性の激しい愛と別れを描く「アデル、ブルーは熱い色」。主演女優二人を徹底的に追い込んだ監督の荒業が光る3時間」として65点をつけています。
 相木悟氏は、「情念の海に浸り、美しくも生々しい実在感に飲み込まれる前衛的な恋愛映画であった」と述べています。



(注1)本作には原作(漫画『ブルーは熱い色』)があるようです。
 なお、「アデル」というタイトルだと、以前見た『アデル ファラオと復活の秘薬』を思い出してしまいますが、何の関係もありません。

(注2)レア・セドゥが出演している『シモンの空』(2012年)のDVDをTSUTAYAで借りてきて見てみましたが、彼女は、ここでも大層難しいルイーズの役を上手くこなしています〔12歳のシモンと付いたり離れたりするなんとも言いがたい関係(姉弟の関係と言いながら、実は……)を、抜群の演技力で表現しています〕。

(注3)アデルは、サルトルについて、戯曲の『汚れた手』は好きだが、そのエッセイは難しいと言い、「哲学の小論文を手伝って」とエマに頼みます。
 なお、エマは「どうしてあのバーに来たの?」と最初の出会いについて尋ねますが、それに対してアデルが「偶然に入っただけ」と答えると、エマは「人生に偶然なんかない」と言います。ただ、エマが実存主義者だとすると、ちょっと変な感じはしますが、よくわかりません。

(注4)他にも、アデルが「美術と言いながらどうして醜い作品があるの?」と素朴な疑問を持ち出すと、エマは「美術に醜いものなどない」と言って、「印象派だって………」と説明したりします。

(注5)映画館で、トマはアデルの手を握ったりキスしたりします。

(注6)アデルが、別の機会にその女生徒に再度キスをしようとしたら、「この間は単に盛り上がってそうしただけのこと」と言われて拒絶されてしまいます。

(注7)さらにいえば、アデルは、エマの両親に対し「将来は、幼稚園の先生になりたい、高学歴を持ちながら何も職業につけないのが嫌なんです」と言い、実際にもそれを実現していきます。
 こうした堅実な生き方(さらには、現状を変えたくないとする生き方)に対して、エマはアデルに対し「文章がうまいのだから、短編でも書けば」と勧めますが、アデルは全くその気がありません(「自分についてノートに綴っているだけ、創作なんて向いていない」)。
 他方で、エマは有力者をバックに個展を開催したいと考えていて、映画のラストの方ではそれを実現させてしまいます。
 大雑把に言えば、生き方に関して、アデルがレアリストであるのに対して、エマはロマンティストといえるのかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:アデル