映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

蜂蜜

2011年07月20日 | 洋画(11年)
 『蜂蜜』をテアトル銀座で見てきました。

(1)これまで見たことがないトルコ映画という点で興味を惹かれ、なおかつベルリン国際映画祭で金熊賞に輝いた作品でもあるので、それならと映画館に出向きました。
 上映時間103分の間中、映画音楽は流れず、さらには台詞も極端に少ないのですが、全体的に静かな雰囲気にのまれて、最後まで飽きるということはありませんでした(3部作の第1部に相当します:注1)。

 冒頭では、ロバをひいて深い森の中を歩く男ヤクプが、ある高い木の前に来ると立ち止まり、縄を上に投げて引っかけようとします。うまく枝に引っかかったので、それに捕まりながら男は木の上の方に登っていきます。ですが、男の重みに縄のかかった枝が折れて男は下に、という瞬間に画面が変わります。
 今度は、枝の上に置かれたミツバチの巣箱(丸太をくり抜いて作られているようです)の中から大きな蜂の巣を取り出すところが描かれます。



 この作業には、木の下にいる息子ユシフが何かと手伝います(煙を出してミツバチを大人しくさせる器具〔燻煙器〕や、蜂の巣を入れるバケツを、下から父親のいる枝の上に縄を使って送ります)。
 その後の場面では、ユシフの父親ヤクプが、今年は蜂の巣が全然できないから、場所を変えよう、と言っています。
 とすると、これらは実際のことではなくて、ユシフが思い出していること、あるいは夢の中の出来事といったものなのかもしれません。

 映画で6歳に設定されているユシフは、父親から実生活上のことをいろいろ教わるものの、小学校生活はうまくいきません。普通に友達と話せませんし(吃音)、遊び時間には、一人で教室の窓から校庭を見下ろしているだけ、授業中先生にあてられても、上手に教科書を読むことができません。それに、母親ゼーラとも満足に会話ができていないようなのです。



 にもかかわらず、ヤクプと話すときはうまく話せますし(小声ですが)、また暦に書かれている事柄もちゃんと読み上げられるのです。それに、草原に生えている花の名前とか生き物に関する知識は、6歳の子供にしては十分すぎるほど持っています。

 ある時、父親が、ミツバチの巣箱をもっと違ったところに置いてくると言って出かけたきり、帰ってこなくなってしまいます。
 母親のゼーラが必死になって探すも彼は戻ってきません。



 ラストでの人々の話からすると、ヤクピは、離れたところにある断崖に登って巣箱を置こうとしたところが、誤って落ちてしまい亡くなったようなのです。
 その後、ユシフは、一人で森の中に入っていくのでした、そして……。

 この作品では、都会生活を営む我々にはとうの昔に失われてしまった自然と人間との深いつながりが、じっくりと描かれているように感じられます。

 ただ、ブログ「花を増やそう!みつばち百花」のこの映画に関する記事によれば、トルコでは以前から養蜂が盛んだそうで、「映画が撮影されたチャムルヘムシンは、トルコでも最も養蜂が盛んで、全ミツバチの1/4がいる黒海沿岸地方に位置している」とのこと。
 そして、特に、「トルコでは巣蜜が愛好され、巣から分離してろ過した普通の蜂蜜の倍以上」の値段であり、さらにそれが「黒海沿岸地方で薬用にもなるものだとさらに高価(200ドル超/kg)なものになるらしいから、これがユスフの父親が伝統的な方法にこだわる理由だろう」とされています。
 要すれば、映画では、自然と人間との親和的な関係が描かれているものの、その裏側を見ると、やはりここにも資本主義が深く浸透しているということなのでしょう。

 それにこの映画からうかがわれるのは、父親と息子との強い絆です。
 この点については、『プリンセス トヨトミ』に関する記事でも書きましたが、現代の我々には、父親が息子にわざわざ伝えなくてはならないような事柄など、あまり考えられないのではないでしょうか?
 他方、この映画のユシフは、誠に羨ましい限りですが、小さな時分から、父親より実に様々のこと(それも実生活で必至な事柄)を、盛りだくさんに投げ与えられているのです。



 こうなるのも、現代社会にあっては、大部分の人が大きな組織に所属してサラリーマン化してしまい、代々の家業を継ぐということが少なくなったせいなのではないでしょうか?
 ですから、『プリンセス トヨトミ』においても、父から息子に伝えられる事柄といえば、個別的・個人的なものではなく、大阪国の由来といった全般的・抽象的なものになってしまうのでしょう。

(2)この映画を見ると、非西欧の映画ということで、たとえばタイ映画『ブンミおじさんの森』がすぐに思い浮かびます。
 ただ、『ブンミおじさんの森』では、いろいろな霊が登場するなど、随分とファンタジックな森が描かれていて、この映画のリアルな森とは様子が違っているようにも思われます。
 とはいえ、本作のラストでユスフが入っていく森の様子は、実際には何も飛び出したりはしませんが、ファンタスティックな雰囲気を十分持ち合わせているようにもうかがえるところです。

 西欧の映画で言えば、イタリア映画『四つのいのち』に雰囲気が類似していると言えるでしょう。ほとんど台詞がないという点のみならず、本作品のラストで、ユスフが大木の木の根っこのところで横たわりますが、『四つのいのち』では、仲間とはぐれた子山羊がまさに同じ格好をします。

 邦画でいえば、河原直美氏の作品に通じるところが随分あるように思います(注2)。
 例えば、同氏が最初の頃に制作した『萌の朱雀』(1997年)は、奈良の山奥での生活を描くものですし、『沙羅双樹』(2003年)は、奈良の市街における物語ですが、たくさんの木々が風に揺れる映像が印象的でした。『七夜待』はタイの熱帯雨林での話ですし、そして『殯の森』(2007年)では、主人公のしげきが、木の根っこのそばに穴を掘って横たわる場面が描かれています。




(3)渡まち子氏は、「神秘的な森を背景に静かに語られる少年の哀しみの物語。このトルコ映画には詩的という言葉こそがふさわしい」、「寡黙な物語だが、触れると消えてしまいそうなナイーブな映像は、見ているだけで感性が豊かになる。緑あふれる自然が印象的だが、静謐な室内も陰影に富んで美しい」として70点をつけています。
 また、福本次郎氏も、「瑞々しい自然を背景に、人間の存在そのものを浮かび上がらせるかのような詩情に満ちた映像は繊細で調和のとれた写真集を見ているよう」、「説明的な音楽やセリフは一切なく、やや冗漫にも思える長まわしのカットと躍動感に乏しいシーンの連続は、まるで余白だらけの小説を読んでいるよう。しかし、あくまでも抑制の効いた演出は、その余白を埋めるのではなく広げることで観客のイマジネーションを刺激する」として50点をつけています。



(注1)3部作とは、『蜂蜜』の他に『ミルク』と『』。

(注2)このブログの他の記事の中でも、同じような点に触れているところです(たとえば、この記事の「注4」をご覧ください)。





★★★☆☆




象のロケット:蜂蜜