映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

光のほうへ

2011年07月24日 | 洋画(11年)
 『光のほうへ』をシネスイッチ銀座で見てきました。

(1)昨年『誰がため』を見て感動したことでもあり、デンマーク映画ならハズレはないと思い、映画館に足を運びました。
 実のところ、この映画も『誰がため』同様、かなり深刻な内容です。
 ただ、『誰がため』と同じ様に、主要な登場人物は2人ながら、前作が、ナチスの占領下におかれたデンマークにおけるレジスタンス運動という特殊な事柄を取り扱っているのに対して、本作は、現在の先進国でよく見かける都市生活を背景として作られているので、より訴えるものが大きいのでは、と思いました。

 まず、父親がおらず、酒浸りで家になかなか戻ってこない母親を持つ兄弟―10代前半でしょう―が描き出されます。彼ら2人自体かなり荒んだ生活を送っているものの、もう一人いる乳児の弟の世話だけは何とか続けているところ、2人が酒を飲み過ぎて寝入ってしまった隙に、その弟は死んでしまうのです。



 そこから場面は飛んで、2人は大人になっています。
 まず、刑務所から出所して間がない兄のニックの話となります。別に定職を持っておらず、酒を飲んだり(アルコール依存症でしょう)、ジムに通ったりして毎日を無為に過ごしています(たぶん、公的扶助を受けているために、そうした生活が可能なのだと思われます)。
 次いで、ニックの弟の話となります。妻を交通事故で亡くし、一人息子マーティンと2人で暮らしています。とはいえ、彼も定職は持たず、いつも生活を何とかしなくてはと思いつつも、息子に隠れ、トイレで薬物注射をし続けます(ニックと同様に、公的な扶助に頼っているのでしょう)。



 兄弟は、少年のころに赤ん坊を死なせてしまったことが大きなトラウマになっているようです。むろん、育児放棄してしまった母親に専らの責任があるにもかかわらず、兄弟それぞれの心の傷となって、2人はその後まともな道を歩み続けられないのです(決してそれだけの理由ではないのでしょうが)。
 すなわち、ニックは、暴力沙汰で捕まって刑務所に入っていたわけですし(愛していた女性とうまくいかなくなったことも影響しています)、出所後も、周囲の出来事に絶えずイライラしまくっていて、母親同様アルコールを飲み続けます。
 また、ニックの弟も、自分の息子に、死なせた赤ん坊の名前を付けているほどであり、かつまた薬物依存症から抜けきれません。

 映画の雰囲気からすると、兄弟は、長いことお互いの連絡を絶っていたようなのです。
 ですが、母親の葬儀に際して、教会で一度巡り合います。
 その後、ニックの部屋に近い部屋に住む女性の殺人事件で、ニックは真犯人ではないにもかかわらず捕まります(真犯人は、ニックが愛していた女性の兄で、精神障害者なのです)。
 他方で、ニックの弟は、母親の遺産(共同購入していた家の価値が上昇したことによって、多額なものになります)で麻薬を大量に購入します。最初のうちは自分で販売していますが、売人として経験のある男に売り捌きを依頼したところ、その男が警察へタレこんだために、捕まってしまいます。

 というように、この映画では、アルコール依存症とか薬物依存症、精神障害などといった様々な社会問題が凝縮して描かれているといっていいでしょう。
 とはいえ、問題を提起する告発映画というよりも、それらを背景として、それぞれの人間が何とか生きていこうともがく様が描かれている、大変奥の深い作品ではないかと思われます。

 ですが、問題点がないわけではないでしょう。
 時間の進み具合に、何か違和感を抱いてしまいます。というのも、ニックの逮捕は、デンマーク警察の捜査力が通常のレベルのものであれば、事件が起きてからそんなに時間が経過してからではないように考えられます。
 他方、ニックの弟が逮捕されるまでの一連のプロセスは、かなり時間を要するのではないでしょうか。
 ところが、その2人が刑務所で再会するのです。
 まだ未決拘留期間中ですから、休憩時間中に、若干の距離をおくものの鉢合わせする可能性自体はあるのでしょうが、映画を見ていて、なにかご都合主義的な感じがし、釈然としないのです。

 こうなるのも、ニックが主人公の映画であるにもかかわらず、その弟の行動について、ニック以上の時間を割いて映画が注目しているせいなのではと思われます。
 要すれば、ニックの物語とその弟の物語を、時間の経過を合わせるのではなく、一塊としてそれぞれ別個に描いているがために、見ている方は違和感を持ってしまうのかもしれません。

(2)この作品には、現代社会で見られる様々な問題が取り上げられています。さらに、それらを取り巻くより大きな問題としては、デンマークの大層充実した社会福祉制度が挙げられるかもしれません。
 上で見ましたように、ニックにしても、ニックの弟にしても、定まった職に就いていなくとも、それぞれ一応の部屋に住んでおり、かつまたアルコールや覚醒剤を購入できているのです。
 もう少し細かく見ると、劇場用パンフレットに掲載されている鈴木優美氏のエッセイ「「負の社会遺産」の連鎖という呪縛」によれば、ニックの方は、生活保護(月額約16万円)を受けながら、自治体が提供するシェルターに格安(月額約5万円)で宿泊しているようです。
 ニックの弟の方も、失業中ということで、住宅補助(子供がいる場合、最大で月額約6.4万円)を受け取り、また幼稚園についても費用減免措置があるようです。
 とはいえ、下記の福本次郎氏は、「「ニックの弟」「マルティンのパパ」と呼ばれ名前すら与えられていない男の匿名性は、そのまま高福祉政策を実現したデンマークが抱えるリアルな社会問題。心の弱い者は公的援助に一度どっぷりつかってしまうとそこから這い上がれない、それは国民を甘やかしすぎた政策の強烈な副作用なのだ」と一方的に決めつけていますが、はたしてそこまで言えるのでしょうか?
 なにより、「心の弱い者は公的援助に一度どっぷりつかってしまうとそこから這い上がれない」とありますが、ニックの弟は、生活保護をきっぱりと断っているのですから、この言葉はあまり当てはまらないのではと思います。
 それに、生活保護などの「公的扶助」を「国民を甘やかしすぎた政策」と、そう一概に決めつけることもできないのではないでしょうか(まるで、経済状態が人間の精神を決定するというような古色蒼然とした唯物論でしかありません!)?

(3)この映画では、ニックとその弟が赤ん坊の弟を死なせたことが問題となりますが、その点からすると、先に見た『水曜日のエミリア』が思い起こされます。
 すなわち、『水曜日のエミリア』では、生後3日目で、エミリアはイザベルを死なせてしまいます。そのことで、エミリアは、密かに自分に責任があるのではと思い続けてきました。
 というのも、エミリアも、イザベルに乳首を含ませながら寝入ってしまったからなのです。エミリアは、自分がイザベルを窒息死させたのではないかと、深く思い悩んできました(そのためもあって、イザベルのために用意した用具などを捨てずにそのままにしておいたのです)。
 ところが、ジャックの前妻の小児科医が、イザベルの死因を専門家に問い合わせたところ、「乳幼児突然死症候群(SIDS)」によることがわかり、エミリアの心も晴れてきます。

 二つの作品は、置かれた状況も、そして一方はまだ未成年の話ですし、他方は大人の女性の問題ですから、同じ地平で論じてもあまり意味がないかもしれません。でも、乳児を死なせてしまったことがあと後までも尾を引くという点では、かなり類似しているのではないかと思った次第です。

(4)渡まち子氏は、「全編、悲痛な雰囲気が漂っているが、最後の最後に弟の息子マーティンがニックの手をそっと握る場面が素晴らしい。このシーンは冒頭と同じく光に包まれてい て、物語が見事につながっている。デンマークといえば北欧の福祉国家だが、そんな場所にも暴力や貧困は明らかに存在する。臨時宿泊施設や生活保護があって も、心の豊かさは補えないというメッセージが底辺に流れている」として65点を付けています。
 福本次郎氏は、映画は、「社会の底辺で生きる家族の姿を正面から見据え、人間の弱さを赤裸々にあぶり出す。先の見えないトンネルで見つけた「子供」という希望ですら、彼らにとっては重い負担でしかない。彩度の低い冷やかな映像は、身につまされるようなわびしい感情を象徴している」として60点をつけています。
 また、評論家・村山匡一郎氏は、「「セレブレーション」で知られるトマス・ヴィンターベア監督は、衒いのない物静かな演出で、現実味あふれる世界を提示。その現代社会のドン底人生を象徴的に切り取ったかのような映像は、見ていて痛々しい。そんな中、弟の溺愛する幼い息子の姿が死んだ赤ん坊の末弟と重なり、家族の絆と愛情がいかに大切であるかを伝えて胸に響きわたる」として5つ星のうちの4つ星をつけています。




★★★☆☆






最新の画像もっと見る

コメントを投稿