映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

127時間

2011年07月06日 | 洋画(11年)
 『127時間』を渋東シネタワーで見てきました。

(1)アカデミー賞を受賞した『スラムドッグ$ミリオネア』を制作したダニー・ボイル監督の作品ということもあって、映画館に出かけてみました。

 物語の主人公は、ユタ州のブルー・ジョン・キャニオンに一人で出かけたアーロン・ラルストンジェームズ・フランコ)。彼は、誤って谷底に落ちた際に、落下してきた岩と石の壁との間に右手が挟まってしまい、身動きが取れなくなってしまいます。様々な工夫をするものの、びくともしません。外部との連絡も取れず、食料も水も尽き、このままでは死を迎えるしかないと悟り、最後の力を振り絞って、そして、……。



 冒頭と末尾などで数人の人物が登場するものの、94分の上映時間のほとんどはジェームズ・フランコ一人が画面に登場します。その点で、砂漠に埋められた棺桶の中に閉じ込められた男(ライアン・レイノルズ)だけを描く『リミット』と同類の映画と言えるでしょう。
 また、死の淵からなんとか脱出しようとするのは、『リミット』もそうですが、あるいは極寒の中でリフトに取り残された3人のスキーヤーの脱出劇を描いている『フローズン』にも類似していると言えるでしょう。

 とはいえ、あくまでも遭難した本人が書いた原作に基づく作品であることから、そうしたフィクション物とは、雰囲気がだいぶ違っています。
 たとえば、
イ)『リミット』では、閉じ込められている棺桶のなかに大きなが入ってきてライアン・レイノルズの上で這いまわったりしますし、『フローズン』では、リフトの下にの群れが現れたりします。
 他方、本作品では、大きなワタリガラスが、毎朝一定の時刻になると、真上の空中を悠然と飛んでいる姿が描き出されますが、それはそれだけのことでしかありません。

ロ)『リミット』では登場人物はわずか一人にすぎませんが、手元にある携帯電話を通じて、誘拐犯など外部にいる人たちと、かなり煩雑に連絡を取ります。
 また、『フローズン』の場合には、携帯電話を持ってこなかったために外部との連絡の道は閉ざされているものの、リフトの上に取り残されるのは3人であって、ごく狭い範囲ながら一定のコミュニケーションは確保されています。

 これらに比べると、本作品は、映像の大部分は一人きりで、それも他人との間で全くコミュニケーションの手だてがないという点で際立っています(なお、『イントゥ・ザ・ワイルド』も最後の方は一人きりとなりますが、この場合、主人公の青年は一人きりになろうと自分の方から外部とのコミュニケーションを絶っていますから、本作品とは異なる性格のものだと言えるでしょう)。

 そうだからといって映画がダレることは少しもなく、どうやって脱出するのだろうか、と緊迫感は次第に高まり、自然を描き出す画像が随分と綺麗なことともあいまって、最後まで飽きさせません。

 とはいえ、劇映画なのですから、実話という原作の枠組みを、モット抜け出してもいいのではないのか、とも思いました。
 この点について、下記の前田有一氏は、「結論から言うが、ようするに脚本上の小細工が一切できない」し、「脚本に「意外性」を持たせられぬ」と述べています。
 つまりは、実話に基づく作品だから、ストーリーにフィクションを持ち込めないということなのでしょう。それに、原作者側は、当初、ドキュメンタリー作品なら映画化してもかまわないと考えていたらしいので、それもまた制約となるのでしょう。

 ですが、俳優を使って劇映画としてこの話を映画化することになったのであれば、それはもうフィクションへ大きな一歩を踏み出したことになり、そうであるなら、映画としてヨリ面白い作品を制作する方向にもっと舵を切ってみてもかまわないのでは、と思えるところです。
 たとえば、映画の前半に登場する2人の女性ハイカーを、後半のアーロン救出劇に使えないかといったようなことです。なにしろ、アーロンは、2人との別れ際にパーティに誘われたりするのですから(女性陣も、彼のことを憎からず思ったようです)!



 むろん、そんな風にフィクションを盛り込んでしまったら、現在の映画の持つリアルな切実さが失せてしまうのでは、と非難する向きもあるかもしれません。でも、それではリアルという点を、実際に起きたことというように余りに狭くとらえ過ぎているのでは、と思います。
 またラストで原作者が登場し、プールで泳いだりする映像も不要になるでしょうが、むしろクマネズミにとっては、こうした映像こそが余計なものに思えて仕方がないのですが(注1)。

(2)この映画の舞台となった峡谷は、どんなところなのでしょうか?
 劇場用パンフレットにも、舞台となったブルー・ジョン・キャニオンについて殆ど何も記述が見当たりません。
 そこで、同パンフレットの最後のページに掲載されている写真の中の案内板に、「HORSESHOE CANYON BLUE JOHN CANYON」とあるのを手掛かりに、ちょっと調べてみました。
 わかったことは、ユタ州東側にあるCanyonlans National Parkの西側に飛び地となっているHorseshoe Canyonのさらに西南方にBlue John Canyonは位置しています(注2)。

 すなわち、同国立公園内の3つの地区の中でも一番はずれのMaze地区からさらに飛び地となっている峡谷よりももっと遠いところにブルー・ジョン・キャニオンがあるというわけで、これではその谷底からコミュニケーションをとると言っても、全く話にならないことがよくわかります。

 なお、映画で数回映し出される岩絵は、Horseshoe CanyonのGreat Galleryです(この岩絵についての詳細は、たとえばこのサイトの記事をご覧ください)。



(3)渡まち子氏は、「ほぼ一人芝居のジェームズ・フランコが多彩な演技で熱演し、一瞬も飽きさせない。巨岩に右腕を挟まれた“127時間の人生”を見事に演じきった。絶望の底でたった一人で示した勇気は、大きな感動と共に語り継がれることだろう。ユニークな設定と巧みなストーリーテリングのこの秀作には、人生への前向きなメッセージがある。予測不可能な大自然というフィルターを通して、日常生活の中では見えにくい“生への渇望”を、鮮やかな筆致で教えてくれた」として85点をつけています。
 また、前田有一氏も、「比類のない演出技巧を味わえる映画作品だし、エンタテイメントとしても超一流。世界中の映画監督が嫉妬すること間違いない。それほどの傑作である」として85点をつけています。
 さらにまた、福本次郎氏も、「一転して自由の利かなくなったアーロンが味わうのは生の苦痛と死の恐怖。谷底から助けを呼ぶアーロンをとらえたカメラが上空高く舞い上がり大地の裂け目を俯瞰するショットは、人間の存在の小ささと命のかけがえのなさを同時に表現する素晴らしいシーンだった」として70点をつけています。


(注1)ブログ「映画感想 * FRAGILE」の記事により、原作者アーロン・ラルストン氏が撮っていたビデオの一部がYouTubeにアップされていることがわかりました。
 となると、余りに原作に忠実に映画を制作すれば、映像が競合してしまう恐れが出てくるのではないでしょうか?

(注2)このサイトには、映画と同じような魅惑的な同キャニオンの画像が掲載されています。
 たとえば、

 なおまた、このサイトによれば、峡谷の名称として、Blue John CanyonではなくBluejohn Canyonとする方がよさそうですが、前者が普通に使われているようなので、ここでも前者で表記しています。





★★★☆☆





象のロケット:127時間