半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

項羽と劉邦 法治国家、民主主義

2014年04月22日 | 素敵な本
先日、司馬遼太郎の「太閤記」を読んだ続きで、そのまま司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を読み終えました。

「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」は1度読んだのですが、その時はあんまり頭に入ってきませんでした。

しかし、今回は齢を重ねたせいもあるのか?よ~く頭に入ってきておもしろかったです


ちなみに、男性なら知っているお話ですが、女性なら歴史好きでないとよくわからないかと思うのでわかりやすく簡単に解説しますね。

日本にも戦国時代がありました。
そして信長→秀吉→家康という流れで日本が初めてきちんと統一され、以後、江戸時代に続くわけです。


中国も同様で、長~い戦国時代の後、秦(しん)という国が始めて中国を統一しました。

まあ、もっとも中国というのは馬鹿でかい国なので、日本のような島国の統一とはスケールが違いますし、どこからどこまで中国なのか?というあたりも定かではありません。

ヨーロッパにそれぞれの王様がいたように、日本にもそれぞれ越前の国とか色々な国があったように、現在、中国と言われている馬鹿でかい国もたくさんの国が乱立していました。

そこを統一したのが秦(しん)という国でした。

この「統一」というのは武力で各国を負かしたからできるのですが、初めて中国を統一した秦(しん)という国の王様の始(し)という人は、統一した自分を「皇帝」とし、始皇帝(しこうてい)と名乗るようになりました。


・・・何だか歴史の授業みたいですね。まあ普通の授業よりはわかりやすく書きますね


で、この秦(しん)という国の始皇帝(しこうてい)は、日本でいえば北のアイヌ民族から南の琉球まで文化も言語も身体的特徴や顔も全て違う人達を、1つの言語、1つの法律によって統治しようとしました。

しかし、突然、どこか遠くの国であった秦(しん)という国の王様が皇帝を名乗り、どこか遠くの国の秦(しん)の言葉や法律というものを強制させられ、かつ、各国の宮殿と同じものを秦(しん)の都に立てたり、皇帝専用の道路を中国全土に築くために、多くの人々が強制労働させられました。

イメージとしてはタイの北部の村に、突然、遠い国の秦(しん)という国の役人が来て、居座り、重い年貢を取り立てられたり、わけがわからない法律というもので村に規則が作られ、破ったら死罪になり、かつ、強制労働の命令があれば、村の若者を集めて中国の中心部まで歩いて送りこまねばならず、一度連れて行かれたらほとんど帰ってこない、というイメージです。

そして、例えば強制労働をさせられる地域に1日でも到着が遅れると「法律違反で死罪」という、とんでもない法治国家だったわけです。


色々な腐敗もあり、始皇帝が死んだ後、また中国は戦国時代に戻ります。

そこで改めて中国を統一しようとして現れた2人の大勢力が「項羽(こうう)」と「劉邦(りゅうほう)」という人物だったわけです。


項羽(こうう)は武力がすさまじく、誰もが尊敬するとてつもない力強い男で、劉邦(りゅうほう)はうだつの上がらないおじさんみたいなイメージなのですが、100戦して100敗した劉邦(りゅうほう)が、最後に項羽に勝って中国を統一する、という史実に基づいたお話です。

で、この中国を統一した歴史上の大人物である劉邦(りゅうほう)が一度、漢(かん)という国にいたこともあり、現在も中国の中心は「漢民族」が牛耳っているわけです。


はい、ここまでついてこれましたか?


まあ、そういった小説のお話はここまでにして、私がこの小説で一番「へ~」と思ったのが「民主主義」と「法治国家」という概念です。

法律というものが国と言うものを作り、住民に網をかけていくまでは、一般庶民のルールは「村のルール」というものでした。

村長がいて、何かあったら談義し、何か問題があってもその村の慣習に従って、あるいは情けの部分もあり、そこで自活している人達が色々な判断をしていたわけです。

そしてそういった時代の人間は、一番大切なことは「食っていくこと」であり、あるいは生活の基盤である「村を守ること」であったわけです。
あくまで「食っていくこと」が「生きていくこと」でした。

だから、領主がどうなろうと、国王がどうなろうと、自分達が「食っていくこと」と「今までの村の自治を続けていくこと」が出来さえすれば、領主がどんな人であろうと関係なかったわけです。

逆に言えば、年貢が厳しくなく、ある程度の自由裁量をさせてくれる領主が「良い領主」「良い支配者」だったわけですね。

この頃の一般庶民からすれば、自分が支配される側であることに疑問を持たず、支配する側になりたい、という願望もよほどの人物ではない限り無かったようです。

支配する側と支配される側、これがヨーロッパも中国も日本も、どの国でも当たり前に続いてきたわけです。

そんな時代に秦(しん)という国は初めて「法治国家」を作りました。
紀元前200年ぐらいの話です。
でも、「食っていくこと」が大切な一般庶民にとって「法」というのはどうでもよく、「法」というものを作った始皇帝が死んでしまったら、その「法」自体を使う人もいなくなってしまったのです。

それがきっちりと根付くまでには、司馬遼太郎の考えでは、一般庶民が「食っていくこと」をある程度心配しなくても良くなる長い時間が必要だった、と書いています。

確かに、昭和初期の東北の大飢饉や戦後の「食べ物が無い時代」をイメージしても「食っていくこと」が大切で、別に国がどうなろうと法がどうであろうと、闇市があり、農家と都市住民が物々交換をしたりと、あくまで中心は法とか国ではありませんでした。

しかし、食っていくことが出来初めてようやく、一般庶民も文字や勉強や国や法という概念を身近なものにしていけたわけですよね。


ギリシャ、ローマで哲人がたくさん出ていますが、あれは「支配層」の話ですものね。
奴隷がいて、労働するものがいて、支配する側は裕福で、日々の食に困らない、そういった層が時間の余裕があるからこそ色々な思考が出来たわけで、国の政(まつりごと)を考える側、文字や法を勉強するのはあくまで「支配層」だったわけです。
日本でさえ、戦後までは、本を読んでいる暇があれば田畑仕事しろ、というのが一般的だったのですから。


そして、日本国民が食っていけるようになって、初めて法と言うものや国家と言うものを国民が語り始めたときに、既に「形としての民主主義」というのは明治時代に日本は輸入をしていました。

しかし、それは形上であって、支配され続けてきた一般庶民は、あくまで支配側が作った民主主義、そういったことを徹底的に考えてきた側が作った法律を「理解するように努める」のが精一杯で、そもそも民主主義って何なの?ということを深く考えるのは出来なかったんじゃないかな~と思います。

それは、私がそんなことを考えたことが無かったから


でも、この「項羽と劉邦」で書いている司馬遼太郎の考えに触れて「なるほど」と思いました。

「支配層」というものはいなくなり、国を統一する人物もいなくなった、という事実。
そして、国の政(まつりごと)を我々1人1人が考えてやっていこう、という思想。

これは、よほどの思考転換がないと出来ないことです。

俺がやるか、お前がやるか。
お前がやるなら俺は応援するよ。

こういったのが民主主義なわけです。

俺らの村が地域が、国を良くして、住みよいところにしていくために、俺がやるのか?俺がやらないなら、あいつにやってもらおう。


これが民主主義なわけですよね。


でも、この前提に「食っていくためには」というところがあれば、本気で考えるのでしょうが、逆接的ですが「食っていける状態」だから、こんなことを考えられる余裕があるわけですよね。

食っていけているから、死活問題ではないから、本気でそこまで考えない。

だから、民主主義といっても、与えられた民主主義で自発的な民主主義では無いわけです。

このあたりが、国の成り立ちから民主主義がわきおこったアメリカとは、日本は違うわけです。


昔から戦後まで、「食っていける」かどうから一番大切だった一般庶民。
そこに「支配層はもういないのですよ。これからは1人1人が国を作るんですよ」という概念が覆いかぶさってきても、今は会社に勤めていれば飯が食える時代。

あえていえば、会社がつぶれずに勤め続けること、あるいは年金がもらえること、そういった意味での「食っていけるかどうか」が一番大切だから、内閣支持の一番最大の理由が「雇用対策」であるのは、昔も今も変わらないのかもしれないけど。

でも、支配層から一方的な強制労働をさせられたり、年貢をとられたり、若者をひっぱられていったときの時代のことを思えば、真剣に自分達の国のこと、生きるルールである法律を考えられること、そういったことが出来るようになった「民主主義」というものは、本当は凄い変革だったんだな~、と小説を読んで思いました。

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