半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

1年間、ありがとうございました

2018年12月31日 | 自分の時間
2018年、平成の最後の大晦日ですね。

色々思うことはありますが、まずは無事1年間、生きて来れた事、有難うございます。

さて、年末ですが、ここ最近思う事は、自分の生き方から見て、10年前の自分の生き方、そして今の周りの人達と大分感覚が違うな~というのを感じます。

まず、体を壊したので、健康の有難みがわかる。
元気に1日過ごせることが有難いと思えるわけです。

逆に言えば、無理が効かない。

例えば妻は旅行や弾丸東京飲み会などを毎週のようにおこなっていますが、まあ良くやるよな、と呆れる一方で、身体だけは丈夫なことは強みなのわけです。

私は、もともと東京からこっちに戻ってきては、遠出が出来ない精神状態でしたし、今も高い所や人混みが苦手ですが、それは「地域に根差していきなさい」というお告げみたいなものと思って、遠出をせず、根を張ろう、根を張ろうと生きてきました。

また、身体が昔のようにはまだまだも戻らないわけです。

それでも例えば社会人になって東京で10年以上、身体を痛めつける生活をしてきたわけですから、まともな状態に戻るのは10年以上かかるんだろうな、という時間間隔があります。

仕事も1年単位。

春が来て、「あぁ、そろそろ田んぼの季節だ」、となり、夏がきて「夏はとにかく乗り切る」季節だし、秋は「ようやくほっとできる。さあ、最後の頑張りどころだ」というとこで、冬は仕事は少なくなりますが、「味噌作り&餅つきの土日家業&体を冷やさないよう」という感じの季節。

1年を巡って仕事や気持ちの置き所が変わります。

高柳さんが良く「今の人達は1週間とか1カ月単位で物を考えるけど、我々は1年が単位。自然はそうなっていて、例えばお米は1年に1回しかとれない。それで1年間食べていく蓄えが出来る。自然は1年単位、人間も1年単位が本来の自然の姿なんだよ」と言います。

そういう事は、私には当たり前だけど、一般の会社生活の人はそうではないですよね。
1週間、1カ月、四半期、あるいは目標はプロジェクト単位。

また、私のお付き合い相手は平均年齢68~70歳の農家さんのおじちゃん、おばちゃん達。

会話も老年の方々の話ですが、その辺の60代と違って、みんな現役です。
「そろそろお迎えがくるからな(笑)」と言いながらも、毎日元気に畑仕事をしていて、おそらく都会の20~30代の人でも1週間ぐらいしか持たないだろう、という仕事を1年かけてやっています。

そんな「今も現役」の人達が「そろそろお迎えがくるよな~」という人生の終い方を口にしているところに居合わせることが出来ているので、常に「人生の終わり」を考えながら生きていけるわけです。

一昨日、昨日と独身の40歳代のお友達が2人、泊りに我が家に来たのですが、今の世相を反映しているというか、将来に対する陰なる不安がありながらも、消費社会で「今を楽しく」という事で生きている姿が見えます。

妻も同様で、まるで独身女性のように、飲み歩き、消費社会に身を投じています。

一方、私は人生の師と仰ぐ高柳さんが身近にいて、また「あたなと健康」の東城百合子さんの言葉を毎月かみしめ、また、寺田本家をすくった言葉を発した常岡一郎さんの生き方や言葉を毎月かみしめていて、「人生の徳をどう積むか」「ああいった偉大な人たちのようになりたい」という、人生成長というか、人としてまともになっていきたい、という事に関心があります。

そうすると、そういう意味で、あまり享楽の世界には関心が沸かないのですよね~。
「楽しく生きればいいじゃん」というのも一理あると思いますが、結局そういった人たちは、心の底で虚しさをもって生きているんじゃないでしょうか?


私もそういった厭世観が起きることもありますが、やはり、東城先生や常岡先生から刺激を受けているので、子ども達が大きくなってきたら、生計が苦しい家庭や親がいない子ども達の向けの寺子屋をやっていこうか、とか思うわけです。

食えて、住める家があるので、あとは自分の人生、どう世の人に還していくか、という事に関心が向くわけです。

そして、こんなことを思えるのは、やはり会社員ではなく自営業であること。そして環境だな~と思います。

会社員である限り、自分の思うように時間は使えないわけですし、仕事の問題は上司やお客さんや会社から降り注ぐわけで、それに対抗する意識が芽生えることがあると思います。

一方、自営業と言うのは、一切そういった他責の気持ちが沸きません。
自分の仕事は自分でやっている、という事が当たり前になるからです。

そして、時間が自由なので、毎日仕事のことを考えているといえば考えていますが、それは同時に毎日、自分の人生を考えているということにもなります。

そして、私は農家さんが周りにいて、つねに「老後」の姿をみさせられていて、その人たちは毎月、葬式やらお通夜に行っているのです。

あと10年で、私が仲良くしている農家さんがポックリ逝き始めると思います。

私の中で、人生の一番の学びは、「身近な人の死に立ち会う事」だと思っています。
ところが、私は父しかまともにそういった経験が積めていない。
核家族の一番良くないところです。

ひい爺さん、ひい婆さん、爺さん、婆さん、親父、お袋、といった人達が順番に死んでいき、また、看病している私と同世代の農家さんは、その辺の会社員よりよっぽど精神的に大人です。

それは「旦那」といって、家の一切の家計から村の行事までを仕切らなければいけない大黒柱としての責任をもって毎日仕事をしているという事もあるし、そういった上の世代を普通に看取っているからで、享楽的なところはあんまりないんですよね。

だから私がこんなことを書いているのは、文章を書くことが好きだから書いているわけですが、私の同世代の農家さん達からみれば「当たり前じゃない」という事なんです。

どう生きていくか、という事を普通に考えながら生活をしていると、1年で目新しい変化が無かったとしても、自分の成熟度合いは少しずつ上がっている、という気はします。

神道で言えば、怒り、妬み、恨み、憎しみなどを祓い続けることが大事だし、仏教でいえば今への執着から離れる事が大事なわけで、そういう意味で、長期的にというか、人生の見通しの方に意識を向けて、その上で、日々の仕事はコツコツしていく。お役目は果たしていく。

そんな事を思います。

と、いうのが今の心境です。

ご縁があったみなみなさま、今年も1年間、ありがとうございました。
また、来年も素晴らしいご縁が続きますように。
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