NHKの番組で「100分de名著」という番組があります。
伊集院光がメインコメンテーターで、なかなかのコメントをするのですが、4月は三木清の「人生論」というのがやっていました。
詳しくは→こちら
三木清というのは戦時中の哲学者で、昭和の偉人として高柳さんもその名前を出す人です。
ただ、戦時中の検問があったので、「幸せとは?」といった国家に従順でなければいけないという時代にはタブーであったことを訴えるために、ただでさえ難しい哲学を、さらに回りくどく表しているのです。
なので、ビデオにとったものを再度見直しています。
心が落ち着いていないと、観念的なことを考えられる状態でないと、頭に入ってこないんですね
で、生命とは海の中の泡粒みたいなもので、何もない広大なもの=海の中にいるちっぽけな自分=泡粒であるからこそ、人生は意味がないのではなく自分で形成していかなければいけないものだ、と言います。
わかりますか?
あまりに広大な世界の中で確かなものがわからないぐらいのところに生きているからこそ、人生は自分で形成していくしかない、と言うのです。
だから、人生は「形成力」だ、というのですね。
ところが、社会の変容で、それが大変難しくなってきた、と戦時中の三木が言います。
昔は社会は限定された世界だった、と言います。
つまり、普段、顔を合わし交流をするのは1つの村の100人ぐらいだった時代だった。
人間は「私とあなたの関係」で、自分の「個性」を形作るものだと言います。
1人では自分は何者かはわからない。
誰かがいて、その比較で自分は「こうだ」と個性を知る、作るというわけです。
だから、その村の100人なら100人の中で、「自分はここが変わっている」「自分はこういった考えを持っている」と自覚する、それが自分だと形成していくわけですね。
ところが、今は(三木の時代、つまり戦時中のことですが)無限定な世界になった、と言います。
街ができ、都会ができ、人が無数に住み、無数にある匿名・・・つまり人物を知らない無数の人達、そういった人達の中に自分がいる、という世界になってしまった。
だから、一見、多くの人とつながっているのにかえって孤独感が募る、というのです。
これって、決して三木清の「今=戦時中」のことではなく、あたかもインターネットが旺盛でアバターなるものが登場した現代のことを言っているみたいですね。
ラインしかり、ネットしかり、都会しかり。
人が孤独を感じるのは、無数の匿名、あるいは無数の希薄な人間と関わる社会になっているからだ、と。
100人の村の中の1人であれば、「自分は変わっている」「誰それは合わない」「あいつはこうだ」と匿名じゃなく具体的な人物に対する自分の考え、意見、そう思う自分の発見、というのがしやすかった、ということです。
ちなみに、解説者の岸見一郎さんという哲学者が言っていたエピソードがうなるような内容でした。
「私が高校時代の時、友人がいないことを心配して、母が先生に相談したんです。そうしたら先生は『お母さん、一郎君は孤独なんかではないのです。1人でいることが出来る子なんです。1人でいることが出来る強さがあるんです。だから今、無理に友人を作る必要はないと思うのです』と言ってくれたんですね。そういってくれたことで、私はずいぶん勇気づけられました」
友達がいなくてはいけない、という風潮がありますが、逆に、そういったことをズバリと言える先生は本当にすごいですね。
そういった先生がいたからこそ、岸見さんは立派な哲学者になれたのでしょうね。
1人でいることと孤独は違う、ということを説明するエピソードだったのですが、決して1人でいることが孤独感とイコールではなく、自分はこうだ、ということを形成し、1人でいることも自分だ、1人で徹底的に考えていくのも自分だ、という人生もある、ということですね。
むしろ薄く軽く多くの人とつきあっている人ほど、孤独感を感じやすいのかもしれませんね。
伊集院光がメインコメンテーターで、なかなかのコメントをするのですが、4月は三木清の「人生論」というのがやっていました。
詳しくは→こちら
三木清というのは戦時中の哲学者で、昭和の偉人として高柳さんもその名前を出す人です。
ただ、戦時中の検問があったので、「幸せとは?」といった国家に従順でなければいけないという時代にはタブーであったことを訴えるために、ただでさえ難しい哲学を、さらに回りくどく表しているのです。
なので、ビデオにとったものを再度見直しています。
心が落ち着いていないと、観念的なことを考えられる状態でないと、頭に入ってこないんですね
で、生命とは海の中の泡粒みたいなもので、何もない広大なもの=海の中にいるちっぽけな自分=泡粒であるからこそ、人生は意味がないのではなく自分で形成していかなければいけないものだ、と言います。
わかりますか?
あまりに広大な世界の中で確かなものがわからないぐらいのところに生きているからこそ、人生は自分で形成していくしかない、と言うのです。
だから、人生は「形成力」だ、というのですね。
ところが、社会の変容で、それが大変難しくなってきた、と戦時中の三木が言います。
昔は社会は限定された世界だった、と言います。
つまり、普段、顔を合わし交流をするのは1つの村の100人ぐらいだった時代だった。
人間は「私とあなたの関係」で、自分の「個性」を形作るものだと言います。
1人では自分は何者かはわからない。
誰かがいて、その比較で自分は「こうだ」と個性を知る、作るというわけです。
だから、その村の100人なら100人の中で、「自分はここが変わっている」「自分はこういった考えを持っている」と自覚する、それが自分だと形成していくわけですね。
ところが、今は(三木の時代、つまり戦時中のことですが)無限定な世界になった、と言います。
街ができ、都会ができ、人が無数に住み、無数にある匿名・・・つまり人物を知らない無数の人達、そういった人達の中に自分がいる、という世界になってしまった。
だから、一見、多くの人とつながっているのにかえって孤独感が募る、というのです。
これって、決して三木清の「今=戦時中」のことではなく、あたかもインターネットが旺盛でアバターなるものが登場した現代のことを言っているみたいですね。
ラインしかり、ネットしかり、都会しかり。
人が孤独を感じるのは、無数の匿名、あるいは無数の希薄な人間と関わる社会になっているからだ、と。
100人の村の中の1人であれば、「自分は変わっている」「誰それは合わない」「あいつはこうだ」と匿名じゃなく具体的な人物に対する自分の考え、意見、そう思う自分の発見、というのがしやすかった、ということです。
ちなみに、解説者の岸見一郎さんという哲学者が言っていたエピソードがうなるような内容でした。
「私が高校時代の時、友人がいないことを心配して、母が先生に相談したんです。そうしたら先生は『お母さん、一郎君は孤独なんかではないのです。1人でいることが出来る子なんです。1人でいることが出来る強さがあるんです。だから今、無理に友人を作る必要はないと思うのです』と言ってくれたんですね。そういってくれたことで、私はずいぶん勇気づけられました」
友達がいなくてはいけない、という風潮がありますが、逆に、そういったことをズバリと言える先生は本当にすごいですね。
そういった先生がいたからこそ、岸見さんは立派な哲学者になれたのでしょうね。
1人でいることと孤独は違う、ということを説明するエピソードだったのですが、決して1人でいることが孤独感とイコールではなく、自分はこうだ、ということを形成し、1人でいることも自分だ、1人で徹底的に考えていくのも自分だ、という人生もある、ということですね。
むしろ薄く軽く多くの人とつきあっている人ほど、孤独感を感じやすいのかもしれませんね。