この1年も色々本を読んできましたが、総決算として何が一番ためになったか、というと、やはり「論語」にたどり着いた、ということがあげられます。
「論語」というと堅苦しいイメージがありますが、いわゆる「儒教」ですね。
「儒教」というのも古めかしい、堅苦しいイメージがあったので、私は全く関心がありませんでしたが、入り口が別の所だったので、結果としてたどり着いた感じです。
原発、戦争、政治、経済、貧困、差別、メディア、教育など、様々な社会問題がある中で、あれやこれや考えてきました。
本を読んだりテレビを見て思索をしたり。
で、司馬遼太郎の歴史小説、特に幕末から明治のあたりのを見ると、志士であったり骨のある政治家の姿は「昔の日本人は立派だったんだな」ということを男子なら思うわけです。
坂本龍馬、西郷隆盛、山田方谷、勝海舟、大久保利通、東郷平八郎などなど。
命よりも大事なことにかけている、筋を通す、道を外れない。
「凄いな~」と思っていると、特に幕末は「陽明学」がとても流行ったことがわかりました。
で、その「陽明学」とは何ぞや?と思い本を読んでいくと、安岡正篤の本に出会ったわけです。
これが面白かった
ほとんどが講演形式のものを文章化したものですから読みやすいのですが、古典を紐解きながら今の生き方をわかりやすく話しているわけですね。
例えば、「学ぶ」のは何のため?
それは、「道理を明らかにするため」。
世の中の問題には理由があって、例えば、些細なケンカも、相手の事を良く知り、どんな言動をすれば相手がどう反応するか、きちんとわかっていれば、その思慮にしたがって行動すればケンカは本来起きないはず。
昔の和尚の話なんかを例えて、「悟りを開いた人は自然の摂理から超越できる」と答えた和尚さんが、実際はそれは嘘なので、キツネになってしまった。
で、人間に化けて、自分より立派と思われる和尚さんに「悟りを開いた人は自然の摂理を超越できるのでしょうか?」と聞くと、その和尚さんは「自然の摂理を超越できるのではなく、理をわかっていれば、何があっても惑わされないのだ」と答えたそうです。
それを聞いたキツネは、「理を超越できるのではなく、理は理であって、そのことをよくよく知っているから何事にも惑わされなくなるのだな!」と悟って成仏出来た、という話があります。
まあ、こんな話、興味がある人しか面白くないのですが、私は「勉強することの意味」というのを、明確に示してもらえたのは、これが初めてだったのです。
で、陽明学というのは、朱子学というものに対する対抗というか、対局にあるとも言われている学問です。
ただ、陽明学も朱子学も、ある意味、儒教の中にあるんですね。
いわゆる、孔子の儒教、です。
江戸時代は君主に使え、仁義を尽くす「朱子学」が学問とされ、他は禁止になっていました。
しかし、実践が伴わないのは本物ではない、といった陽明学の主旨が広がっていったのです。
そんなことを知った時に、たまたま見つけた本がこの本でした。
この小倉先生という方は全く知りませんでした。
その内容も全く入門じゃないもう、関心がなかったらまずもって読めない本です
しかし、むちゃくちゃ面白かった
儒教の中に、いわゆる学派のように分かれてあるのが、朱子の作った朱子学と、王陽明が作った陽明学なのですが、その世界観の違いをまあ、ダイナミックに描いているのです。
その2つを知るために、まず前提として「儒教とは何?」というところから入っているのですが、それで私は初めて「儒教ってこんな物だったんだ」と言うのを知りました。
儒教は、宇宙には道徳エネルギーが広がっている。その道徳エネルギーと自分が一体になるとき、何とも得言えない幸福感で自分が満たされる。
その最高の状態を目指すための教えが儒教である、という解説です。
そして、戦争や道にはずれが君主がいる国が多かった時代に、孔子は昔の特に溢れた君主が国を治めていた時代のことを古典で学び、そういったことを今の時代にも再現しようと活動していました。
その思想は「同心円状の愛」と小倉さんは解説します。
まずもって、儒教で大事なのは家族です。家族に対して愛があり、親の言うことを聞き、家族が調和するようにお互いが得をもって働きかけることで、家族が安泰する。
村や一般市民というのは、家族が集まっているわけで、一般市民が安心して暮らしていくには、まず、1つ1つの家族が安心した塊でなければいけない、という考えです。
家族がきんとしていれば、それが集まった村は平和で安心して暮らせる。
それが群になり、国として広がっていく、だから、国の事を思うならば、まず目の前の相手の事を思うことが大事、と言う発想ですね。
で、君主も同じで、1人1人の国民を自分の家族と同じように思えれば、そういった君主の元で国民は安心して暮らせる、という考えです。
そして、孔子様が作った儒教を100年後に弟子たちが本にしたのが「論語」ですが、その「解釈」が弟子によって違うわけです。
孔子は弟子に対して同じことでも言い方を変えていました。
例えば、行動ばかりで思慮が足りない弟子には「何事も熟慮が大事だ。まず親に相談してから何事も始めるべきだ」と言ったり、考えは深くとも一歩を踏み出すのがなかなかできない弟子には「何事もまずは動き出すことが大事だ。考えてばかりでは何も始まらないよ」と言ったり。
あるいは漢文はたんぱくな文なので、解釈をどうするかで、意味が全く変わってきてしまうんですね。
それを自分なりの論理で、論理づくめで体系だてたのが朱子です。
その朱子学があまりに論理的で完璧なのですが、混とんとした時代にあらわれたヒーローのような王陽明は、例えば朱子の「物事をしり、それを自分の中で体系だて、それにより自分の道を考え、、、」というのではなく、「物をみた時点で知っているというのが本質。花が美しいというのは学ぶことではなく、観た瞬間に美しいと思う。物事を本当に知っているというのは、そのものの本質はあって、それを観た瞬間に即座に分かって自分の行動としているものなのだ」という論を立てるわけです。
だから、陽明学を学んだ幕末の志士たちは、「今の江戸幕府はなっていない」と自分でわかった時点で、それはもう結論であって、あれやこれや悩むのではなくすぐに行動に移れる思想をもっていたわけですね。
そんなこんなで、朱子学、陽明学の違いを何となく分かったので、そもそもその元となった「儒教」ってなんなんだろう?と思って見つけたのが、この本。
慶應義塾高校で生徒のアンケート№1のわかりやすい授業で好評だった方が著作家になったそうです。
とてもわかりやすかった
前半が孔子が生きた時代、孔子がどういう道のりを歩んできたか、後半が論語の中にある1説を取り上げ、それを現代社会の会社の上司との関係など事例に当てはめて解説する形式で、優しい文章で、これこそ入門書、という感じでした。
そして思ったのが「自分の考えとシンクロするところが多々ある」ということでした。
原発事故があって、社会の問題に何ら意識を持っていないことに大いに反省し、会社を辞めて今の道に入った私ですが、例えば、東日本大震災の時に、野菜ボックスを知り合いの親戚に毎週送っていたけど「些細なことだけどお金も持たないな」というもどかしい思いを持ちました。
ボランティアにも諸事情があっていけず。
かといって、「絆」という言葉にも何か疑問というか違和感を感じたし、デモ集会に行く人達をみても、あまり賛同するというか自分が行きたいという気持ちも沸きませんでした。
そんな時、読売の橋本五郎さんが小学生か中学生に講義している話を聞いたのです。
「東日本大震災があって、何かをしたいという気持ちがあれば、被災地に行ったりしなくてもいい。そういった気持ちをもって勉強や家のことなど今の生活をきちんとすればいい。それが将来、必ずそういった問題に取り組むことにつながるから」
といったような話でした。
これが腑に落ちたわけです。
サティシュ・クマールという哲人も、世の中、問題が多すぎるけど、何から始めればいいか?という問いに「まずは、自分の食卓を見なさい。自分の食べ物がどこからきて、どういった人達がつくっていて、どう作られているか、それを知ることがすべてにつながる」と答えています。
同様だと思います。
沖縄基地問題のことは、成田空港問題を真剣に考えれば通じます。
世界の食料問題も、自分の食卓や地元の農業をまじめに勉強すれば通じます。
戦争がなぜ起こるのか?は、歴史を紐解くのと同時に、夫婦ケンカが戦争にも繋がっている、ということがわかります。
社会問題をおっかけて、家族を放ったらしにしたり、地元の第一次産業のことを学ばずに、フェアトレードやら海外の有機JASの食品を買う人を見ると「ちょっとまってよ」と思ってしまうのは、全ての問題はローカリゼーションが最後の解決策になるはずだ、と思っているからですが、その考え方は、孔子の考え方とほぼ同じなんですね。
そして、1つ1つの問題は、最後は人の在り方。
徳を求めて、道徳を深めていくことが、全ての問題の根本につながる、というのは、昔の日本人の共通した考えだったはず。
今、立派な人というのは人間が素晴らしく、そういった人は、みんな道徳心があると思います。
90歳ぐらいの方々は、大体が、立派な方が多いですが、それは、江戸時代から戦前まではあった「儒教的考え」が根付いていたからだと思います。
もちろん、為政者によって「国のため」という使われ方をしてしまったところもありますが、戦後、「日本の精神力をそぐ」ことを目的に、アメリカが「論語」や「儒教」などを禁止にし、「個人の尊重」「自由主義」が最高のものと位置づけたことで、色々な問題が起きているわけです。
そう思うと、改めて、世界の問題を解決するためには、1人1人が徳のある人になる、その道を学ぶ、という考え方を取り入れるのは、とてもタイムリーだな、と思うのですが、いかがでしょうか?
「論語」というと堅苦しいイメージがありますが、いわゆる「儒教」ですね。
「儒教」というのも古めかしい、堅苦しいイメージがあったので、私は全く関心がありませんでしたが、入り口が別の所だったので、結果としてたどり着いた感じです。
原発、戦争、政治、経済、貧困、差別、メディア、教育など、様々な社会問題がある中で、あれやこれや考えてきました。
本を読んだりテレビを見て思索をしたり。
で、司馬遼太郎の歴史小説、特に幕末から明治のあたりのを見ると、志士であったり骨のある政治家の姿は「昔の日本人は立派だったんだな」ということを男子なら思うわけです。
坂本龍馬、西郷隆盛、山田方谷、勝海舟、大久保利通、東郷平八郎などなど。
命よりも大事なことにかけている、筋を通す、道を外れない。
「凄いな~」と思っていると、特に幕末は「陽明学」がとても流行ったことがわかりました。
で、その「陽明学」とは何ぞや?と思い本を読んでいくと、安岡正篤の本に出会ったわけです。
これが面白かった
ほとんどが講演形式のものを文章化したものですから読みやすいのですが、古典を紐解きながら今の生き方をわかりやすく話しているわけですね。
例えば、「学ぶ」のは何のため?
それは、「道理を明らかにするため」。
世の中の問題には理由があって、例えば、些細なケンカも、相手の事を良く知り、どんな言動をすれば相手がどう反応するか、きちんとわかっていれば、その思慮にしたがって行動すればケンカは本来起きないはず。
昔の和尚の話なんかを例えて、「悟りを開いた人は自然の摂理から超越できる」と答えた和尚さんが、実際はそれは嘘なので、キツネになってしまった。
で、人間に化けて、自分より立派と思われる和尚さんに「悟りを開いた人は自然の摂理を超越できるのでしょうか?」と聞くと、その和尚さんは「自然の摂理を超越できるのではなく、理をわかっていれば、何があっても惑わされないのだ」と答えたそうです。
それを聞いたキツネは、「理を超越できるのではなく、理は理であって、そのことをよくよく知っているから何事にも惑わされなくなるのだな!」と悟って成仏出来た、という話があります。
まあ、こんな話、興味がある人しか面白くないのですが、私は「勉強することの意味」というのを、明確に示してもらえたのは、これが初めてだったのです。
で、陽明学というのは、朱子学というものに対する対抗というか、対局にあるとも言われている学問です。
ただ、陽明学も朱子学も、ある意味、儒教の中にあるんですね。
いわゆる、孔子の儒教、です。
江戸時代は君主に使え、仁義を尽くす「朱子学」が学問とされ、他は禁止になっていました。
しかし、実践が伴わないのは本物ではない、といった陽明学の主旨が広がっていったのです。
そんなことを知った時に、たまたま見つけた本がこの本でした。
この小倉先生という方は全く知りませんでした。
その内容も全く入門じゃないもう、関心がなかったらまずもって読めない本です
しかし、むちゃくちゃ面白かった
儒教の中に、いわゆる学派のように分かれてあるのが、朱子の作った朱子学と、王陽明が作った陽明学なのですが、その世界観の違いをまあ、ダイナミックに描いているのです。
その2つを知るために、まず前提として「儒教とは何?」というところから入っているのですが、それで私は初めて「儒教ってこんな物だったんだ」と言うのを知りました。
儒教は、宇宙には道徳エネルギーが広がっている。その道徳エネルギーと自分が一体になるとき、何とも得言えない幸福感で自分が満たされる。
その最高の状態を目指すための教えが儒教である、という解説です。
そして、戦争や道にはずれが君主がいる国が多かった時代に、孔子は昔の特に溢れた君主が国を治めていた時代のことを古典で学び、そういったことを今の時代にも再現しようと活動していました。
その思想は「同心円状の愛」と小倉さんは解説します。
まずもって、儒教で大事なのは家族です。家族に対して愛があり、親の言うことを聞き、家族が調和するようにお互いが得をもって働きかけることで、家族が安泰する。
村や一般市民というのは、家族が集まっているわけで、一般市民が安心して暮らしていくには、まず、1つ1つの家族が安心した塊でなければいけない、という考えです。
家族がきんとしていれば、それが集まった村は平和で安心して暮らせる。
それが群になり、国として広がっていく、だから、国の事を思うならば、まず目の前の相手の事を思うことが大事、と言う発想ですね。
で、君主も同じで、1人1人の国民を自分の家族と同じように思えれば、そういった君主の元で国民は安心して暮らせる、という考えです。
そして、孔子様が作った儒教を100年後に弟子たちが本にしたのが「論語」ですが、その「解釈」が弟子によって違うわけです。
孔子は弟子に対して同じことでも言い方を変えていました。
例えば、行動ばかりで思慮が足りない弟子には「何事も熟慮が大事だ。まず親に相談してから何事も始めるべきだ」と言ったり、考えは深くとも一歩を踏み出すのがなかなかできない弟子には「何事もまずは動き出すことが大事だ。考えてばかりでは何も始まらないよ」と言ったり。
あるいは漢文はたんぱくな文なので、解釈をどうするかで、意味が全く変わってきてしまうんですね。
それを自分なりの論理で、論理づくめで体系だてたのが朱子です。
その朱子学があまりに論理的で完璧なのですが、混とんとした時代にあらわれたヒーローのような王陽明は、例えば朱子の「物事をしり、それを自分の中で体系だて、それにより自分の道を考え、、、」というのではなく、「物をみた時点で知っているというのが本質。花が美しいというのは学ぶことではなく、観た瞬間に美しいと思う。物事を本当に知っているというのは、そのものの本質はあって、それを観た瞬間に即座に分かって自分の行動としているものなのだ」という論を立てるわけです。
だから、陽明学を学んだ幕末の志士たちは、「今の江戸幕府はなっていない」と自分でわかった時点で、それはもう結論であって、あれやこれや悩むのではなくすぐに行動に移れる思想をもっていたわけですね。
そんなこんなで、朱子学、陽明学の違いを何となく分かったので、そもそもその元となった「儒教」ってなんなんだろう?と思って見つけたのが、この本。
慶應義塾高校で生徒のアンケート№1のわかりやすい授業で好評だった方が著作家になったそうです。
とてもわかりやすかった
前半が孔子が生きた時代、孔子がどういう道のりを歩んできたか、後半が論語の中にある1説を取り上げ、それを現代社会の会社の上司との関係など事例に当てはめて解説する形式で、優しい文章で、これこそ入門書、という感じでした。
そして思ったのが「自分の考えとシンクロするところが多々ある」ということでした。
原発事故があって、社会の問題に何ら意識を持っていないことに大いに反省し、会社を辞めて今の道に入った私ですが、例えば、東日本大震災の時に、野菜ボックスを知り合いの親戚に毎週送っていたけど「些細なことだけどお金も持たないな」というもどかしい思いを持ちました。
ボランティアにも諸事情があっていけず。
かといって、「絆」という言葉にも何か疑問というか違和感を感じたし、デモ集会に行く人達をみても、あまり賛同するというか自分が行きたいという気持ちも沸きませんでした。
そんな時、読売の橋本五郎さんが小学生か中学生に講義している話を聞いたのです。
「東日本大震災があって、何かをしたいという気持ちがあれば、被災地に行ったりしなくてもいい。そういった気持ちをもって勉強や家のことなど今の生活をきちんとすればいい。それが将来、必ずそういった問題に取り組むことにつながるから」
といったような話でした。
これが腑に落ちたわけです。
サティシュ・クマールという哲人も、世の中、問題が多すぎるけど、何から始めればいいか?という問いに「まずは、自分の食卓を見なさい。自分の食べ物がどこからきて、どういった人達がつくっていて、どう作られているか、それを知ることがすべてにつながる」と答えています。
同様だと思います。
沖縄基地問題のことは、成田空港問題を真剣に考えれば通じます。
世界の食料問題も、自分の食卓や地元の農業をまじめに勉強すれば通じます。
戦争がなぜ起こるのか?は、歴史を紐解くのと同時に、夫婦ケンカが戦争にも繋がっている、ということがわかります。
社会問題をおっかけて、家族を放ったらしにしたり、地元の第一次産業のことを学ばずに、フェアトレードやら海外の有機JASの食品を買う人を見ると「ちょっとまってよ」と思ってしまうのは、全ての問題はローカリゼーションが最後の解決策になるはずだ、と思っているからですが、その考え方は、孔子の考え方とほぼ同じなんですね。
そして、1つ1つの問題は、最後は人の在り方。
徳を求めて、道徳を深めていくことが、全ての問題の根本につながる、というのは、昔の日本人の共通した考えだったはず。
今、立派な人というのは人間が素晴らしく、そういった人は、みんな道徳心があると思います。
90歳ぐらいの方々は、大体が、立派な方が多いですが、それは、江戸時代から戦前まではあった「儒教的考え」が根付いていたからだと思います。
もちろん、為政者によって「国のため」という使われ方をしてしまったところもありますが、戦後、「日本の精神力をそぐ」ことを目的に、アメリカが「論語」や「儒教」などを禁止にし、「個人の尊重」「自由主義」が最高のものと位置づけたことで、色々な問題が起きているわけです。
そう思うと、改めて、世界の問題を解決するためには、1人1人が徳のある人になる、その道を学ぶ、という考え方を取り入れるのは、とてもタイムリーだな、と思うのですが、いかがでしょうか?