半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

バブルが起きた流れ

2015年06月12日 | 自分の時間
今週も忙しく、また暑さで体も悲鳴をあげそうだったのですが、今日は久々の休み

撮り貯めたテレビをちょこっと見ましたが、今年、NHKがやっている「戦後70年 ニッポンの肖像」シリーズはとっても面白く、出来るだけ見ているのですが、今回見たのは「バブル"と"失われた20年" 何が起きていたのか」というテーマでした。

まあ、私はバブル世代ではなく、氷河期に入って就職に入ったものですが、その前のことはあんまりわかっていません。

自分の体験に基づくと、まず自分達が氷河期があって、その後にホリエモンや楽天などが出てきて、日本に「ベンチャーブーム」が起きて、投資やら、一攫千金をビジネスで狙おうという若手が増えてきて、「会社で数年働いたら起業する」なんていう若者が増えた時代もありました。

また、「派遣解禁」で、派遣の方が手取りが多い、ということで、助成を中心に派遣社員に自分の意思で登録する人達が増えた時代でした。

そして、段々デフレスパイラルに入っていき、就職戦線もより「氷河期」に入り、大卒の3割が就職できない、とか、「正社員になりたいのになれない」という人が増えて、「派遣からできれば正社員に」と思う人が増えていったり、大企業もそんなに安定ではない、という意識が芽生え、そして大リストラが普通に行われるようになり、「終身雇用」ということは「暗黙の約束」という意識が薄れていきました。

そういえば「ゆとり世代は使えない」みたいな酷い風潮もあったな~。

そういった私より上の世代、つまりバブルを経験した世代、あるいは、そのさらに前の人達が「失われた20年」という言葉を使っていますが、その前の「バブル時代」あるいは、そこにつながる「戦後の奇跡の復興」の時代についてまとめられて、「へ~」と思いました。

バブルが起きたのは、その前に、「戦後の経済復興」「右肩上がりの経済成長」が止まったのも一因だったそうです。

池田勇人首相が「所得倍増計画」を宣言し、実際は所得が3倍になり、東京オリンピックも成功し、「奇跡の成長」を遂げるわけですが、70年代から80年代にかけて、オイルショック、そして著しい成長が落ち込んでくるという流れがあったそうです。

そんな時代、今まで「大きなものを、大量に、どんどん作ればいい」というアメリカ経済(特に自動車産業)は落ち込み、日本の「小型、効率、省エネ、低コスト」といった自動車や商品が世界を席巻していました。

そしてアメリカの経済が大変厳しくなり、ドル安を進めるように仕向けた「プラザ合意」がされました。
これで、日本もドルを大量に売った結果、円高になり、輸出で儲けていた企業は大打撃を受けました。
そこに、「金融緩和」があり、資金を企業が低金利で海外から仕入れられるようになり、国内の銀行に預金するだけで、利ざやを稼げる時代になったそうです。

さらに、アメリカは日本に「金融緩和」を促し、日銀は「バブルの予感」を感じながらも、日銀が銀行にお金を貸し出す金利の「公定歩合」を下げていきました。1985年に5%だったのが、たった2年で2.5%という半分になってしまったんですね。

銀行は大量のお金が手に入り、企業に低金利で貸し出せる。
企業は銀行からもお金を借りやすくなり、また銀行からお金を借りなくても直接金融でお金を手に入れやすい時代になったので、本業よりも簡単に稼げる株などへの投資、当時は「財テク」と言われていたものをやり始め、本業よりも財テクによる利益の方が上回る、なんていう企業があちこちで出てきました。

資金を企業が低金利で海外から仕入れ、国内の銀行に預金するだけで、利ざやを稼げる時代だったそうです。

日本全体では株価があがり、それに連れて土地の値段も上がっていきました。

また企業も、効率化、省エネ化など努力を続けた結果、「アメリカに追いつけ追い越せ」というスローガンを達成して、「日本は世界1の経済大国」ということになってしまった。

「ジャパン・アズ・ナンバー1」と言う本が爆発的に売れた時代です。

企業はお金が余り、財テクで更に儲け、銀行から借りる必要がなくなり始めました。
しかし、銀行はお金が余って仕方が無い。それなのに預金金利は払わなくてはいけない。

そこで何とか貸し出し先を探そうと必至になり、目を向けたのが「土地」の売買でした。
土地を持っている不動産屋や地主を徹底的に調べあげ、土地購入を促しました。
実際に、土地がどんどん値上がりするので、この流れにのっかり、「土地成金」が増えていきました。

時代としては1987年にNTTが上場し、株価が3ヶ月で3倍近くなる、なんていう時代でもありました。

アメリカからは「日本がナンバー1だから、日本から学べ」という本が出て、企業や個人も「財テク」で儲かり、ジュリアナ東京でOLがお立ち台で踊り、会社では業績達成パーティーで芸能人を呼び、夜の宴会やタクシー代は全て会社の経費で落ち、そんな時代で、「土地が上がり続けるのは当たり前。だって日本は世界一の力をもっているのだから」という認識が広がり、「これはバブルだ」と警告する経済学者には批判の言葉が浴びせられ、山一證券のように「にぎり」といって、損失は絶対に出さない、裏で約束をすることで財テク投資のお金を借りてもらうようなことも平然と行われていたのです。

そんな時、日銀も「バブル感が出ているから、アメリカからもっと下げろとは言われているが、公定歩合を上げなくてはいけない」という論調があったそうです。

しかし、1987年の「ブラック・マンデー」で日本の株価も急落。
そこで日銀の中の「公定歩合を上げよう」という意見は急速に消えてしまったそうです。

そして、ブラック・マンデーが落ち着き、再び日本の株価は上昇し続け、バブル崩壊直前の1989年の年末の大納会で、日経平均株価は史上最高値の38,000円を突破。最高の気分で年越しを迎えたのでした。

しかし、この頃、ようやく日銀は公定歩合を上げ始め、バブルつぶしをはじめ、また1990年に当時の大蔵省が「総量規制」という行政指導が銀行に行われました。簡単に言えば、土地に対して行き過ぎが貸し出しを止めなさい、全体の貸し出しの中で土地に対する貸し出しを抑えなさい、という指導ですね。

これにより、大量に流れ込んでいた銀行融資は止まり、地価の上昇がストップし、一気に不良債権が出始め、銀行も貸し渋り、貸しはがしが行われ、怒とうのバブル崩壊へと進んでいったようです。


またBIS規制といって、銀行が海外で活動するには、自己資本比率を8%以上にしなさい、というのがかかり、日本の銀行で体力の無いところは海外から撤退を検討したのもこの時代です。

ちなみに、私が新卒で入社したときが1997年ですが、1996年ぐらいに「就職氷河期」が始まっています。
ただ、私の2つ上、つまり1995年に就職をする大学の先輩の時代はまだバブルの余韻があって「ホテルに缶詰、内定者を他の企業に行かせない接待」のようなものが行われていたことを、聞いていました。

バブルが崩壊し、あれよあれよと土地神話が崩れ、銀行の貸しはがしなどがありましたが、不良債権がどんどん出てきたのは90年代半ばを過ぎてからで、一般的に表面化するまでタイムラグがあったそうです。

そして、私が社会人になってから、山一證券破綻、北海道拓殖銀行破綻、住専問題発覚などが続くわけです。

大手企業では「終身雇用」「ベースアップ」をどうするかが議論され、「製造業も派遣解禁へ」といった要請が経済から政府に出されたり、日本の企業の風習も変わって行きました。

昔は、運動会を会社がやり、家族で参加、みたいな時代だったわけですからね~。
今の若い人達は信じられないでしょうね。


私世代まではバブルの体験は無いから、よくわかりませんが、今の経済の中心にいる人達はみんなバブルを経験している人達だから、今の日本を「失われた20年」と呼びます。

でも、私よりももっと若い世代からみれば、冷めた目で見ていると思います。

GDPや株価とかの経済的指標を追い求めてるんじゃなくて、、楽しく幸せに生きることにそろそろ軸を移して、「国民幸福度ランキング」で10位以内を目指す国作り、とかを大きく考えてもらいたいもんですね。


話は横道にそれましたが、戦後70年の肖像シリーズ、面白いので引き続き見ていこうと思いま~す

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