半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

もりこび 川手先生のお話会

2013年09月17日 | 素敵な空間・イベント
いつもうちの子供が通わせて頂いている「もりのこびとたち」。シュタイナー教育の考え方をベースにしながら、わらべ歌を行っています。

その主宰者の奥村さんが師事しているのが川手先生。

ゲーテの世界、神とは何か?そういったものを追い求めながらスイス、ドイツなどを渡り歩き、演劇をやり、シュタイナー教育で自閉症の子供達の教師として最前線で活動してきた方です。

また、バリ島の伝統文化でもある「年1回の村祭りでの「魔女ランダ」の舞い」の後継者として、地元の僧侶にもなり、家族の1員にもなり、舞い手として村人を恐怖に陥れ、トランス状態にし、お祓いが出来るほどのレベルに到達した人です。
ランダのお面をかぶると、物語の世界にトリップし、現実世界から魂は飛び、踊りが終わって周りから聖水をかけられて初めて現実世界に精神を戻す、という体験をしてきた人です。

このあたりは、演劇や精神世界に関心が無い方にはわかりにくいのですが、私は少し演劇をかじったこともあり、理解が出来る範疇(だと思っています)。
なので、そのいきさつを著した本を読んだ私は「すっげぇ~、こんな人、いるんだいっちゃっている、この人。凄い、いっちゃっている」と何度も口からこぼれるほどでした。

この「いっちゃっている」というのは良く考えたら大変失礼な表現なのですが、言葉の意味は「その境地にたどり着いた人」という意味です。ただ、自分の言葉でいうと「その世界へいってしまっている人」ということになってしまいます。
なんというか、神ではないのですが、人という存在の極限までいってしまっている人、いってしまった人、という理解ですね。
どうしてもきれいな言葉ではないのですが「いっちゃっている人」という言葉になってしまうのです。川手先生、ごめんなさい

そんな川手先生のお話が、もりこびさんで大体月1回開催されているということで、初めて聞きに行きました。


初めてですが、やはり「行き着くところまで行っちゃったことがある人」でした。


2部制だったのですが、1部は講義録をとりました。
ただメモをひたすらとっていると、心を開いて聞くことが出来ないので、2部はメモを取らずに聞きました。

以下、がんばって文字にしますので、ご関心がある方はご覧下さい。
特に1部は子育て中の方には読んでもらいたい内容です。

奥村さん、こんな感じでよいですか?
駄目出しは、またお会いしたときにでも宜しくお願い致します


<第一部:子供は親の所有物ではない。1個の独立した人格で、その中にある権威を敬わなければいけない>

子供は親とは違う独立した人格であること、親の所有物ではない、これを心底理解する必要があります。
子供は1つの人格、1つの魂で、どんなに小さくても、親にいえないことがある。
どんなに小さくても、疑いを持っている。
例えば、自分が本当にこの家の子供なのだろうか?とか。
言葉を話せるようになった時点で、そんな疑いをもう持っているんです。記憶を持てるようになったあたりから、親との会話が成立するぐらいから、相当1個の独立した人格なんだよ、そういうことを理解しなくてはいけないんです。

シュタイナーでは7周期、0~7才、8~14歳、となっていくんですが、シュタイナーの時代に比べると今は成熟度がはるかに早くなっていると思います。
幼稚園の先生、保育園の先生、小学校の先生など教育者が、子供を小ばか人間みたいに扱うと、しっぺ返しが来る。もちろん子供達にとっても良くない。

子供は親の所有物ではないんですよね。それを親は毎日自分に言いきかせる必要がある。
ついつい子供達に自分の思うとおりにさせよう、言い聞かせようとする。子供は間違って自分は正しいと思って子育てする。権威は大人にあると思う、権威は子供にはない、と思ってしまう。

そうじゃないんですね。

ここでシュタイナーの言う「権威」とは、「子供の中に生きる権威を見出して保障する」というもの。
子供達にある生きる崇高なものを認め、敬う大人に対して、子供達も敬うんです。

整理すると

1:子供達の心に生きる神がある
2:それを大人が保障する
3:保障する大人に子供は感謝する

いきなり最初から子供は3番目=大人に感謝、はしないんです。

子供は自分とは違う、1つの敬うべき存在なんだ、ということです。
上から目線というのが最近あるけど、子供の目線に降りてみましょう、というのがありますね。でも子供の目線というのもおこがましい。敬うべき存在なのだから、本当は下から見上げるようにするぐらいの対象なんだ、ということです。

改めて言うと、子供の中に神が生きている。それを大人が認める。
独立した存在なんですよ。そして、子供の中に神がいるのであれば、敬わなければいけないですよね。


子供が何かしたらどうするか?
本人の人格を責めるのではなく、いたずらをした「行為」をしかること。
・あなた、またそういうことやっているの!→子供を、人格を責めている×
・その行為は危ないことだから、止めなさい→行為を注意している○


子供が親に心を開いているか?
完全に閉じているんです。

小学校入学前の子がこんなことを言っていました。
「自分は『ここまで育ててくれた』親に感謝している」
無条件にお母さん好き!、じゃないんですね。
育ててくれている、だから感謝している。逆にいえば、育ててくれていなければ、ということ。本当に小さいときからこういった意識があるんです。
全面的に信頼しているかとういと、そうじゃないんです。

子供は独立した存在ですから、小学校2年生ぐらいにはもう家出をしたり、どこかにいってしまいたい、というのが誰もがあるんです。今の家にいたくないという気持ちがあるんです。
でも経済的にも、どうしようもない、できないからしないだけ。でも心にはそういうものがある。誰もがどこかにいってしまいたいという放浪症のようなものがあるんだと思うんです。

子供は小さい時から親に信頼はなく、ここまでしてれくれたから、この親以外に育ててくれる人がいないだからこそ、ここにいようと思っているんです。
みなさんも小さい頃、そう思っていたでしょ?


自閉症、アスペルガー、発達障害と言われている子が最近増えてきました。心の保護を求める子供達が多い時代です。
彼らは2~3歳で親から独立しているんです。親の所属物ではないということですね。
自分にとって利益がある存在があるかどうかで判断をします。つまり非常に合理的な考えを持っている。
親が自分に対して利益のあるというときはいいが、ないというときは親は存在しない。
新しい子供のあり方。とても参考になります。
<補足:川手先生は「心の保護を求める子どもたち」のために、芸術治療教育の活動を現在無償で行っています>

だから、こういった子と親は、親子関係が非常にすっきりするんです。
これからの人間関係を間違えなくていいから、ふつうよりはるかに幸せなんです。

健常児は誤解をし、引きずるが、彼らは誤解が生じない。思春期にどうしようもない出来事をおこさない。愛してくれているという妄想がない。人が自分を愛すことを思うほうがおこがましいんですけどね。

3つ子の魂100までといいますが、逆にいうと、3つ子までは親のもの。3歳以上は独立した存在なんですね。今まで天使だったのが明日から悪魔。

蛇が自分の尻尾をくわえてぐるっと輪になっているというのがあるのですが、その蛇が親でその中にいるのが子供、3歳までは親が守っているのが、3歳になったら子供はその頭や尻尾を切って出てくる、そんなイメージです。
親はそこで痛みを覚える。9~10歳でもバシっ!と切って、14~16歳も同じように切って出てくる。親はその都度痛みを覚えるんですね。


財布からお金を盗む。万引き。これも必ずやりますよ。
子供達にとって乗り越えなければならない儀式のようなものなんです。
みなさんだって子どものころ、したでしょ?
小さいうちに子供のうちに親の財布からお金を盗むのと、大人になって銀行強盗するの、どっちがいいですか?
小さいうちに、カエルを八つ裂きにしたり、女の子だって人形の首をひっこぬくじゃないですか。大人になって実際に人間を八つ裂きにするよりずっと良い。

お金を抜き取る、カエルの八つ裂き、人形の首とり、こういったことを物質的にしていなくてもそういった心はみんなある。それはしたかどうかは行為の問題であって、心がある時点でやった方が良い。

そして、そういうことをしたときに、親は始めて叱るんです。

だから普段は怒らない。普段から怒っていたら慣れてしまう。「はいはい、魔女のランダが出てきた」ってね(笑)
だから、普段は怒らない。行為を正す。
そしていざ、という時に、本気で叱る。母は山から岩を呼び、父は雷を落とす。

ランダも同じです。ランダって舞う直前にだけお面をかけるから良いんです。練習のときもかけない。本当に祭りのときにしかかけない。普段からランダを見せたら怖くないでしょ?1年に1回、祭りの時だけだからランダなんです。だから、怖い。

キャラクターも気をつけたほうが良いですよ。ミッキーやドナルド、初めて見た子は泣きますよ。犬なら声を裏返せて泣きます。グロテスクなものをあんまり見ているとそれが怖くなくなっちゃう。


祭りは恐怖体験なんです。
1人1人人格が違うから、基準がある以上、確執はある。村にいる家族の中にも確執が起きる。またそういったものが一族是認病気という形になって現れることがある。
舞、影絵などはそういったものを祓うわけですが、それは恐怖を村人に起こさせるんです。それはどういう役割を持つか?

恐怖は人を寄り添わせる。恐怖があると一体感をもって、助け合う気持ちが起きるんです。

震災で津波が来たとき、いつもはケンカしていてもそういったときは助け合って一緒に必至に逃げようとするでしょ?

災いは人を束ねる。祭りは意図的にそれを毎年起こさせるんですね。


ランダの本に「芝居と治療教育の関連について問われるなら・・・演出家は役者の中に眠っている隠された能力を引き出そうとする。治療教育者は心の保護を求める子供達の裡にまどろむ叡智を呼び醒まそうとする。」とありますが、これは教育者や親にも当てはまるんです。
親は自分の中にある叡智を押し付けるんじゃない、子供の中にある叡智を呼び覚ます。そのためには、まどろむ叡智を敬っていないといけない。

演出家は役者に、親は子供にある叡智を呼び覚ます。
バリの祭りも同じで、自分の内側に入り込むと集合意識・潜在意識とつながって祭りの村人に繋がることができる。イメージはお風呂の栓が抜けて、その下にはパイプみたいなものがあって、それが、みんなつながる感じです。人間の心は繋がっている。恐怖でお風呂の水が抜けると、そこでみんなが繋がれる。

必ず、この子、なんてことをいうの、というときが来る。クソババア!なんていうとき。その時こそ、お風呂の下の栓を抜いてお湯が出て行ったとき、下のパイプでつながるチャンス。逆行時こそ、親子の人間関係が生まれる。1つの人格同士になる。
さっきの蛇の話じゃないが、尻尾を切るときが来る。そういったことは必ず起きるもの。



・・・と1部のお話をまとめてみましたが、まあ、聞きながらメモをとったもので、ライブ感はあまりないですね
でもどんなお話だか、ざっくりとはつかめましたでしょうか?

シュタイナーの知識が前提にあり、また「魔女ランダ」の本を読んでいると、このお話はよくわかるのですが、その前提がなくても、「子どもは親の所有物ではない」「子供は3歳ぐらいには、もうれっきとした別の人格」「その子どもの中に神を、権威を、その子どもが持っている叡智がある、生きる力がある、ということを認めて、それを敬う」といった言葉、ふだん、子どもとずっといることで、どうしても子どもと相対して緊張関係があるお母さんには刺さっていたようです。
もちろん私も勉強になりました。

昔は子育てはおばあちゃんや地域の人がするもので、嫁さんは田畑仕事をしていたのが当たり前でした。
年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんがいて、村祭りや何かしらで悪知恵も含め、色々教えてもらっていたそうです。
そういえば、私の子ども時代はガキ大将というのが、まだいましたね。

今は親とも住まず、お父さんも会社に行ってしまい、お母さんと子どもだけ、という異常な人間関係な中で子どもは育っているわけです。
お母さんもその異常な関係の中では、ついつい自分の感情優先になってしまう場面が多いのも、ある意味いたしかたないもの。

しかも、テレビ、ビデオ、携帯、商業施設、作られた街、などなど、子どもを誘惑する刺激はたっくさんあります。

そんな環境下で押し込められた子どもは、小さいときからも漠然と社会に違和感を覚えるでしょうし、それが力で負けているときはお母さんの言うことをしぶしぶ聞きますが、心の底では黒いものがプスプスと燃えていると思います。
そして力で勝てるときがくると、それを爆発させて反抗期に入る、そんなものだと思います。

まあ、私がそうでしたから
これは親が悪いとかではなく、その前提の現代の環境が問題なんでしょうね。

どんな大人だって、子どもの時は社会に違和感を覚えていたはずです。あるいは自分の生に何かしら疑問を持っていたはずです。それが年を追うごとにぼんやりとしながらも大きくなっていく。大人になってもそれは続くのかな?

その自分が子どもの頃に抱いた違和感を思い返すこと、そして純粋に自分のところを選んで来て生まれてきてくれた子どもに、「生まれてきてくれて有難い」「今日も一緒にいれて嬉しい」といった存在感謝の気持ちがあれば、川手先生の言っている「子どもの中に敬う神を見る」ということは、とても当たり前のことのような気がします。

我が家では、奥さんがあきれるほど、私は子どもに「生まれてきてくれてありがとう」「大きくなったね~。嬉しいな~」「と、毎日のように言っています。
それは心から子どもがいることが「奇跡」だと思っているからで、今日も1日一緒に過ごせたことを幸せに思い、もう数年で人として自立して巣立ってしまうことのことの寂しさを思いながら、残りの時間を大切にしたいと心から思っているからです。

そんな私でも、奥さんがお泊りに出かけて、子どもと一緒にずっといながら家事などをやると、ついついキーキーなるもんです。
お母さん達も、子どもの寝かしつけたあと、そのスヤスヤ寝ている子どもの顔をみて神を見るのでしょうね。
そして「今日は怒ってしまったな~」と反省するのでしょう。
言うは易し、行うは難し、ですね

といった私のことは横において、二部に移りましょう。



<第二部>
二部はメモを取らずに聞いていたのと、少し抽象的なお話も多かったので覚えている限りで書きます。

■本物を出す責任
以前の劇は「刺身のない船盛」と言ったのかもしれないけど、今回のはちゃんと刺身が乗っていたよ。
<補足;もりこび夏祭りで、お母さん達が劇の出し物を毎年しています>

子供には本物の刺身を与えなくてはいけない、生きの良い新鮮な刺身を出さなくてはいけない。刺身を出す側、親とか教育者にはそういった責任があるんです。
食べるのはもちろん子供達。

それは黒マグロの刺身でなくても良い、その辺の川の鮒でもよいんです。


先日の夏祭りの「セミと少女」という演目は、人間達は自然が天災・地災などで壊されていくことを不安になるが、そうではなく自然がそういった洪水や天災などを起こしているんだ。人間達は死んだ後のことは忘れてしまったけど、死ぬときに初めて死後の国のことを思い出す。

人は必ず死ぬ。死も出会いの1つ。


■女性の力、母の力
女性は最後に一番強い力を発する。
ランダの本にも書いてありますが、インドの最高神のシヴァの奥さんがドゥンガなんだけど、普段はシヴァの方が強い。しかし、天災や病気が流行ったりしてどうにもならなくなったとき、それを一層するのはシヴァではなくドゥンガ。その力はシヴァよりも強い。しかもその力は怒りから来る。
全ての力の中でもっとも強いのが女性の怒りの力なんですね。


こんな話が実話としてあります。

昔、といっても10年ちょっと前の話だったと思いますが、エチオピアかどこかで、少女が盗賊団にさらわれたそうです。
それを感じた母親のライオン達が少女が囚われていた小屋に行き、盗賊団を追い払ったそうです。
そして少女を襲うことなく、その周りにまるで守るかのように輪になって囲い、少女を助けようと探していた人達がくると、何も言わずに立ち去っていったというお話です。

私はとても興味深くこの話を聞きました。実際のお話で世界中に広がった話なのですが、これが作り話であっても、私はとても意味が深いな~と思っていました。
これで例えば演劇を作るとしてもとても色々なメッセージが伝えられる。
ライオンはお腹がすいていたわけでもなく、盗賊は追い払い、子どもは守ったわけです。
まるで先ほどのぐるりと輪になった蛇のように。しかも全部がお母さんライオン。
動物学者はお腹がすいていなかったのだろう、とか少女のなき声がライオンの子どものものに似ていたのだろう、と言っていましたが。まあそういった解釈をするしかないですよね。

お母さんライオンが怒りで盗賊を追い払い、愛によって子供を守った。


■女性の恋の力
女性同士の恋愛感情は、良いもの。
芸術には叙情詩、叙述詩、演劇の3つがあるんですが、叙述詩は物語り、つまり昔こういった話がこうあった、というもので、それを人が役を演じるのが演劇。叙述詩と演劇はつながっているんですが、叙情詩は誰がどうしたではなく、自分がこう思う、といったことを書いたもの。歴史上初めて「わたし」という1人称を使った詩なんですね。
レズビアンの語源は紀元前600年頃、古代ギリシアのレスボス島というところがあって、そこには女性しか住んでいなくて、そこにいたサッポーが女性同士の恋愛について始めて詩にしたのが始まり。

女性の恋愛感情が叙述詩という世界で始めて自分の思いを表す芸術を作ったんです。


■全てに母がある
ゲーテの「ファウスト」という戯曲があります。
悪魔のメフェストフェレスがゲーテに「世の真実を知りたくないか?そのためには地上にいてはいけない。地下の国に行く必要がある」という節があるんです。

ファウストは「地下の国だって?怖いな~」という。
メフェストは「地下の国のまたの名は『母達の国』という」と言ったそうです。
それに対してファウストは「母達だって?聞いたことがない。母は1人じゃないか?どういうことだろう?」といって地下の国に降りていく。
そこにはウジャウジャ色々なものの母がいて、恐ろしい女の神様が本当にウジャウジャいる。
「これは?」とファウストが尋ねると、メフェストが1人1人紹介する「これが怒りの母。これが悲しみの母。これが慈しみの母。これが三角の母。これが机の母。これが椅子の母。。。これが真実だ」

こんな話のように、全てには源がある。母がある。
母の力。みんな源があるんですね。


■道徳を教え込むより想像力を

例えば子どもが誰か他の子をいじめていて「そんなことするんじゃないの。自分がやって欲しくないことは人にはしないの」とか言ったとしますよね?そうすると大体が「俺は別にやられても大丈夫だから、やっていいんだろう?」と言われますね。
理屈でいったら、子供は賢いから他の理屈で返してくる

そうじゃなくて、駄目だ、と行為が間違っていることを指摘するんです。

相手が痛いことは自分にとっても痛いということは子供もわかっている。

じゃあそういう時はどうするのか?それはファンタジーでしょ。
ごっこあそび、お母さん役になって人形をあやしたりするから、いたわる気持ちなどが育まれる。人格に立ち入っては駄目なんですね。

育てるべきは創造の力。
子どもは道徳心は持っている。
それを働かせる力が想像力。あれがだめ、こうしなさい、といった道徳をわざわざ口で言う必要はない。育てるべきは想像力なんですね。


■お母さん、お父さんの語源
お母さんという言葉の語源は、カラスから来ているんです。
カラスは山の神様。
物語を運んできてくれる。
子供と遊んでくれる。
かあかあ、これが語源。
またカラスはお日様の化身。やたがらすといいますね。
カラスは山から来る、だからお母さんも山。
お母さんの力は、山崩れ、地すべり。

お父さんの語源は、とおとめというのが語源、これは「尊い」のこと。

動物でいえばお月様だから、うさぎ。お父さんはうさぎなんですね。

一部で母は山から岩を呼び、父は雷を落とすと言いましたが、お父さんは恐れ、敬いの念をもつ存在なんですね。



以上、二部は抜粋ばかりでしたが、記憶の限り書きました。


トータルで川手先生のお話の感想としては、「やっぱり凄い人」ということに尽きるでしょう。
こういった方の場合は、話している言葉を理解しよう、自分に活かそうとしてもしょうがないんですよね。
その方の存在自体が力であって、その力が身につくまでに積み上げてきたこと、自分の体の中に落とし込んできたもの、深さが違うんですよね。

以前、学校給食を改革することで、荒廃した学校を立て直した長野の偉大な大塚先生の講演会を聞きました。
この大塚先生も、結局、学校給食を変えることが大事なのではなく、そこに至るまでの情熱、子どもは全く悪くなくその食環境が問題だと本気で思っていること、そして子どもに対して本気であること、そのこと自体が「あ~、こんな先生がいたら、子どもたちも変わるよな」と思わざるをえない存在自体が力でした。
詳しくは→こちらをご覧下さい。

川手先生も同じで、川手先生の発する言葉では、川手先生の深さは理解しきれない。
そもそも「子どもたちを見る視線」が違うんです。

「視線」ということで思い出したのですが、10年も前のことですが、コーチの養成機関にフィルという存在自体がコーチングになっている人がいました。
そして彼のコーチングのワークショップで、「sharping eyes」というものを教えてもらい、それを見て、体験して、その深さに驚愕したのを覚えています。

その目は鋭く、しかし優しく、強く、その人の心の奥底を見る目でした。
「言葉で言い表していること以上に、その人の本当の言いたいこと、思いが心の奥底に眠っている。コーチはそれを見つめ、勇気を持ってその本当のことをつかまなくてはならない」フィルはそう言っていました。

クライアントのその奥底にしまっているものを、クライアントの無限の可能性、力を信じて、パンドラの箱を一緒に開けるような感じですね。それには「あなたがどうであろうと、私はあなたの無限の可能性を信じる。そして必ずそばにいる」という確固たる信念、メッセージが存在から伝わるほどのものでした。


川手先生のように集合意識と繋がれる人、ランダの舞を踊れるなんて人は、世の中探しても普通はいませんし、繰り返しになりますが、演劇などを極めていく人は、少し精神がいっちゃってないと出来ないものです。

繰り返しですが、変な意味ではなく、人間としての極みに到達しないと芸術は表せない、というのが私の感覚にあります。
いわば超人ですね。
逆にいえばちょっと病的なぐらいにならないと精神世界は深くはいけないでしょうし、だから神霊のようなものと繋がれるのでしょう。

事前にランダの舞の本を読まなければ、シュタイナー教育の一人者という目で見ていたでしょうが、ランダの舞の本を読んでから参加したので、私にも先入観があるかと思います。

まあそれしても、「こんな人がいるんだ。凄いな~」というのが実直な感想でした。
いや~、それにしても凄かった。

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