世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(28)

2010-11-24 11:18:50 | Weblog

旅順は天然の良好で清国屈指の軍港で北洋艦隊の母港でもあった。日清戦争で日本に割譲されたものの、1895年4月23日ロシア、フランス、ドイツの三国が「遼東半島は清国に返還すべし」との勧告により、清国に返還されている。これが三国干渉である。その後ロシアが進出しロシアの租借地とし、ロシア東洋艦隊の根拠地としてロシアの軍港・要塞として堅固な軍事拠点となってしまった。そのため日露戦争では、旅順港攻略に多大な労苦を費やざるを得なかったのである。
ことほど左様にロシアと言う国も、全くもって信用ならざる国である。

現在の旅順は人口21万人の大都市となっているが、日清戦争当時でも大都市であった。推測するに人口10万人くらいの大都市であったであろう。そこを清国は軍港を守るために要塞化していた。その旅順を日本軍は攻めた。日本軍1万5千人、守る清国軍1万3千人1894年11月21日総攻撃を仕掛ける。清国軍の士気は低く堅固と思われた旅順要塞は僅か1日で陥落してしまう。日本側の損害は戦死40名、戦傷241名、行方不明7名。これに対して清国軍の戦死は4,500名、捕虜600名余り。攻略はこの通り問題なかったが1894年11月28日英国の『タイムズ』(The Times)が、次のように報道した、「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と。ヨーロッパで国際法を学び法律顧問として日清戦争に従軍していた有賀長雄は、戦闘による巻き添えにより民間人が被害にあったことを示唆したという。小生はこの「翌日から四日間」と言う期間と清国軍1万3千人、戦死4,500名と言う数字に着目したい。更にこの花園口から金州城の戦いの過程では、多くの敗残兵旅順に逃げ込んでいる。だから実際にはこの清国兵は2万を超えていたのではないかと、確信している。だから旅順市街には多くの清国兵が隠れていたものと思われる。この中国清の敗残兵が、旅順に進駐した日本兵を攻撃したことであろう。だから日本軍は中国敗残兵たちと小競り合いをせざるを得なかったのである。その過程で清国民間人が犠牲になったのである。だからこれは日本軍にすれば正当防衛名のであり、何も非難される筋合いのものではない。これを『旅順口虐殺事件』と言われているが、12月12日にアメリカの新聞『ニューヨーク・ワールド』の記者クリールマンが次のように報じたことで問題化した。

日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を大虐殺した。無防備で非武装の住民達が自らの家で殺され、その体は言い表す言葉もないくらいに切り刻まれていた』と。

これは西洋人の白人至上主義という人種差別根性の成せる業であろうと思われるが、日中戦争中に『マンチェスターガーディアン』の上海特派員ハロルド・ティンパーリの『戦争とは何か』も全く同様な作り話であった。彼は国民党中央宣伝部の顧問であった。真実は次の通りである。日中戦争での「南京攻略」時に国民党軍が軍服を脱ぎ「便衣兵」として民間人の振りをして日本軍に襲い掛かり日本人を殺戮した。そのため日本軍は反撃したのである。旅順口虐殺事件は、この事件と同じ構図であろうと確信している。南京の件は、小生のブログ「南京大虐殺の虚構宣伝と胡錦濤の秘密工作に騙されるな」('7.6.6~)や「日中戦争は中国共産党が引き起こしたものだ」('07.7.4~)を参照願いたい。

民間人の振りをした清国兵が殺されたことや巻き添えとなった民間人は存在したであろうが、虐殺と言われる旅順口虐殺事件は実際にはなかったのであるが、中国はこのことをも反日教育に使っている。いくら中国が戦略的互恵関係だとか誤魔化しを言っても、絶対に信用してはならない。

これに類した事例は現在の中国共産党政権にも存在する。今年の2010年9月7日に発生した尖閣諸島での中国漁船の日本巡視船への衝突事件である。中国に非があるにも拘わらず、中国共産党政府は日本政府に対して、何重にもわたる恫喝をしてきたではないか。現在の中国は世界一の暴力装置を有しているため、それを背景とした脅しである。清国はそれほど実力がなかったために、騙しの手練手管を施してきたのである。根底にあるその根性は同じものである。

この『旅順口虐殺事件』の事の興りは、次のような経過を辿っている。

旅順陥落に伴い、第2軍司令部は乃木希典少将率いる歩兵第1師団に市内探索と掃討の任務を命じた。先の『土城子の戦闘』(11/23,NO.27参照)では死者11名、負傷者37名を出す苦戦を強いられたが、その戦闘などでの日本軍戦死傷者の生首が鼻や耳などをそがれた状態で、道路脇の柳や民家の軒先に吊るされていたり、体を切り刻まれて放置されていたのである。中には息のあるうちに切り刻まれた兵士もいたことであろう。これを見た日本軍は、当然激高せざるを得なかった。しかも清国兵は軍服を脱ぎ捨てて「便衣兵」としてに日本兵に歯向かってきた。いわゆるゲリラ戦を挑んできたのである。だから民間人の姿をした清国兵の死体もかなり存在していたのであり、巻き添えで死んでいった民間人も多くいたことは推察に難くない。しかもこの掃討作戦は、旅順要塞への攻撃と連動して行われていた。だから市街戦と攻城戦が平行で行われていたのである。従って旅順市街の掃討作戦中は、市街でも清国兵(や便衣兵)は戦意喪失していいなかったのであり、激しく抵抗してきていたのである。だから市街戦では民間人の犠牲者も数多かったものと思われる。更に戦闘が一段落すると、日本軍は各家ごとに人数を把握し、便衣兵ではないので殺すな、などと茶番とも思われるような貼紙を貼らなければならなかったのである。

(続く)
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