世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(27)

2010-11-23 11:48:34 | Weblog

日本はなぜこれ程までして清国と戦ったのか。それは朝鮮のために戦ったのである。すべてが日本のためだけではなかったのだ。朝鮮が中国の千年属国のままであれば、当時の世界情勢からして中国(清国)は列強の餌食となり、千年属国の朝鮮はロシアか他の列強の植民地とされ更にその国の奴隷属国になりさがり、日本にも直接その圧力が掛かってくることになってしまう。日本はそのことを心底から心配していたのである。朝鮮がしっかりとした独立国にならなければ、日本の独立も危うい。切羽詰った状況に立たされていたのである。だから当時の日本の為政者は、敢然と朝鮮の独立のために立ち上がったのである。菅・仙石内閣は、頓馬でも、是非勉強してこのことを、理解しなければならない。こういうことを知りもせず理解もせずに、単に「謝罪談話」を出せは「えらい」とか「今風」とか思われるであろうと曲解(きょっかい)している菅・仙石内閣のアホらしさは許せないのである。まことに以て日本を貶めている。

日本が朝鮮のために清国と戦っているのであるから、朝鮮は当然日本に協力しなければならない。1894年(M27年)8月26日に、『大日本大朝鮮両国同盟約』を結んでいる。

内容は「朝鮮を清国の属国から開放するため日朝は協力する」と言うもので、わずか3カ条の盟約である。その内容を以下、意訳して示す。


第1条
 この盟約は清兵を朝鮮国より撤退させて、朝鮮国の独立自主を強固にし、日朝両国の利益を増進することを目的とする。

第2条

 日本国は清国に対し攻守の戦争を遂行し、朝鮮国は日本軍の進退及びその食糧準備に、出来得る限りの便宜を提供すること。

第3条
 この盟約は清国との平和条約が締結されるまで続くものとする。

と言ったところだ。

日清戦争下の日本と朝鮮(3)』 http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/062/resi064.htmlを参照されると良い。

次に「遼東半島」の花園口に位置を示す。これは
『keizai report.com』
http://www3.keizaireport.com/report.php/RID/104431/「海外トピックス」  http://www.fukuoka-fg.com/tyosa/201002/kaigai.pdf
より引用している。



矢印の集まるところが花園口でその先端に大蓮、最先端が旅順である。その旅順の渤海湾に面するところに金州城がある。


さて旅順要塞の攻略は、9月25日に編成された第2軍が実施することとなった。第2軍は海軍と調整し、1894年(M27年)10月21日、花園口に上陸する。花園口は旅順と丹東市を結んで中間点の海岸に位置している。上陸作戦は現地地形に疎く時間を要したが、敵の攻撃もなく上陸を果たす。そして敵を蹴散らしながら遼東半島の先端の旅順に向かう。そして遼東半島の渤海湾側の金州城を攻略し旅順に迫った。金州城は東西600m、南北760mの長方形で、高さ6mのレンガ城壁で囲まれていたが、城門を破壊し攻め入ると敵は浮き足立ち算を乱して逃げ惑う状態となり、11月6日の昼過ぎには完全に金州城は平定されてしまった。多くの清国兵達旅順へ逃げ込んだ。しかしこれで金州城の西南50kmの旅順の攻略への準備が整うこととなった。この花園口上陸から旅順攻略戦では秋山好古少佐引きいる騎兵を中心とした復州街道支隊は、その尖兵として目覚しい働きをしている。しかし11月18日、秋山は全騎兵750名を集め捜索騎兵隊として、水師営西方の高地の偵察に向かい砲6門を持つ6000人の部隊と遭遇し、緒戦だったため士気にかかわるとして敢然と攻撃を開始したが、衆寡敵せず戦死者を出し戦場を離脱せざるを得なかった。この退却劇は「秋山少佐の豪勇」と言われた見事な退却であった。この『土城子の戦闘』は日本軍の敗北であったが、この秋山軍の奮闘に恐れた清国軍は翌日の日本軍の攻撃に内紛を起こし、あっけなく攻略されている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日韓併合100年(26) | トップ | 日韓併合100年(28) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事