世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(31)

2010-11-29 11:58:46 | Weblog

さて日清戦争はまだまだ続いている。

第2軍が花園口に上陸(10/21)して旅順に迫っている時、1894年10月24日第1軍は先遣部隊が鴨緑紅の渡河を開始し、10月25日早朝本隊も渡河を開始、敵砲台への攻撃を開始した。初めて清国の領土に攻め入ったのである。各陣地での清国軍は頑強な抵抗を示したが、日本軍の攻撃を支えきれずに九連城方面に後退する。九連城(くれんじょう)は、鴨緑江沿いにある町であり、当時清国軍の拠点のひとつとなっていた。今は丹東市の一部になっている。清国はこの鴨緑江沿いに将兵3万人余、大砲90門を配置し、さらに平壌からの敗走兵約1万人ほどが配置されその攻略にはかなりの困難が予想されていた。しかし翌日10月26日早朝攻撃すべく九連城に向かうと、清軍は恐れをなしてすでに逃走していた。そのため日本軍は九連城を無血で制圧し、初めて清国領土を占領することとなった。そしてさらに補給線確保のため鴨緑江の河口付近の要衝を占領する。そして清国軍の撤退を確認し主力部隊の攻撃が中止される。これが『鴨緑江作戦』である。

そしてこの少し前、1894年7月23日日本軍が景福宮を占領し、開化派を中心とした政権を誕生させていた。そして開化派政権は7月27日に改革を司る軍国機務処を設置し、中国の年号の使用中止、科挙や封建的身分制の廃止、奴婢の廃止、人身売買の禁止、そして財政改革等を矢継ぎ早な実施していた。これを『甲午改革』と言い、親日派官僚集団によって行われたが、自発的改革と言うところまでの強い動きとはならずに、結局は戦後になって、三国干渉などによる親露派の勢力に潰されることになる。

そして日清戦争の直接的の口実となった甲午農民戦争東学党の乱)の首謀者の全ホウ準は、1894年10月に『斥倭斥化』(日本も開化も排除)をスローガンに、再度蜂起する。これは親日派政権に対しての大院君(高宗の父)の、ある意味、反乱であった。大院君はひそかに東学の主だったものに密使を送り扇動を命じていた。しかし農民軍は近代的な訓練を受けた日本軍の敵ではなかった。これを東学の『第2次蜂起』と言う。大院君は東学に対して数十万で大挙して漢城を攻め、平壌の清軍と共に南北からに日本軍を挟み撃ちにして、日本軍を駆逐する策であった。このことは1894年9月15日の『平壌の戦い』(11/16,NO.23参照)によって得た多数の書類で証明されている。そのため国王、大院君らはこのことを認めて謝罪するのであるが、ことほど左様に千年否、千五百年属国根性が強い朝鮮だったので、自国民の力では到底開化独立はかなわなかったことであろう。そして日本の保護がなければ、当の昔に中国かロシアの属国に成り下がっていたことであろう。朝鮮の半分は、現在は中国の属国の状態になっていることを見れば、そのことは十分に有り得ることなのである。また、全ホウ準は1895年初頭に囚われの身と成り、漢城(ソウル)で処刑されている。

次に遼寧省の地図を示す。これは次のURLより引用している。
http://beijinging.zening.info/Liaoning/index.htm

1894年10月にはいると講和を仲裁する話が列強の間から出てきた。また11月には清が講和の交渉の申し入れの話もあった。しかし清国側には北洋艦隊はまだ威海衛に現存し、海城方面には兵を増強しつつあった。このため講和条件がすこぶる悪化することを嫌った伊藤博文首相と陸奥宗光外相は海城威海衛の攻略作戦(山東作戦)を決定した。
(続く)
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