世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(14)

2010-11-03 09:50:08 | Weblog
そして更に続けている。
「韓国は、1000年以上にわたって宗主国への貢女と宦官の献上と言う哀史を抱えている。妓生の秘史も、過去の軍妓、駐留軍慰安専用の「ウォーカーヒル」つまり「米軍将兵慰安総合遊興村」などから、現在の「退廃理髪店」に至るまで、脈々と続いてきたのだ。それはつい最近までの歴史であり、韓国は「売春立国」と言う自慢できない歴史を持っているわけだ。」

「もし韓国が歴史から真の反省や教訓を得ようとするなら、まず自ら1000年以上も続いた売春史や妓生史として学ぶのが本筋だろう。しかし、実際は日本について、「過去の一時期」にあったかどうかわからない従軍慰安婦についての記述を、中学の歴史教科書に入れるように強制するばかりである。韓国の子弟に自国の慰安婦史を教えると言うのなら判るが、これではあまりにも本末転倒であり、日本にとっては大きなお世話だろう。」

至極真っ当な意見である。菅や仙石も肝に銘ずるべきであろう。なお朝鮮の売春立国に関する件については、当ブログの2007年4月30日の「慰安婦問題について」も参照願う。これには、朝鮮人が自国で婦女子を拉致して慰安婦にするという朝鮮の東亜新聞の記事が紹介されている。

この貢女の歴史も、日清戦争の講和条約・下関条約により朝鮮の独立を清国に認めさせたことによりなくなったのであるが、上の記事によれば朝鮮国内では朝鮮人による慰安婦狩りが横行していたのであろう。誠にもって朝鮮人とは、信用ならざる人種である。

ちなみに日清戦争はなぜ戦われたか、今一度おさらいしたいのだが、その前に先にも言及した「江華島事件」を取り上げ見よう。

先に朝鮮が明治政府の国書の受け取りを拒否した話を伝えたが、日本と朝鮮との修交のための明治政府の外交交渉に対して極めて非協力的で無礼な態度であったために、この無礼は許しがたいと誰もが思い、征韓論が巻き起こるのである。しかしその征韓論も下火となった1875年(明治8年)5月釜山で再度政府間交渉が持たれたが、宴饗の儀での日本大使の大礼服着用と宴饗大庁門の通過を許さなかったなど紛糾し、交渉は膠着した状態となった。明治政府は2隻の木造軍艦を派遣し応援するも、交渉はまとまらずに終結する。この軍艦は長州藩が英国より購入した木造の240tクラスの船であったが、朝鮮沿岸の測量に従事する。その1隻「雲揚」は9月に入り清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられ、9月20日に首府漢城(ソウル)に近い江華島沖に投錨し、役人と面談するため端艇で江華島に向かったところその砲台から砲撃を受ける。そのため本艦に取って返し、9月21日砲台に接近し砲撃戦を開始する。そして第三と第二砲台を破壊する。翌9月22日には第一砲台を攻撃し占拠する。守備兵は逃げ去り、多数の民間人を保護し負傷者を治療し食料を与え開放する。日本軍は場内から大砲36門他多数の戦利品を手に入れ、翌9月23日に戦域から離脱する。そして1876年2月11日に交渉を開始し、2月27日に日朝修好条規(江華島条約)が結ばれた。この条約は日本の安政の五カ国条約と類似しているが、最も特徴的で異なっている点は、そのに「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国と認める。」とある。これは朝鮮が清国の藩属国であることを考慮して特に日本が挿入した一文である。日本は朝鮮を「自主の国」とすることで、清朝の介入をなくそうとしたのである。しかしそれでも朝鮮は清国の属国の地位に甘んずることを選択していた。清朝も朝鮮への冊封体制を強化し始めた。この清国の宗主権を否認することとなり、日清戦争のある意味直接的原因となるものである。そのため結局朝鮮を真に独立させることは、日清戦争を待たねばならなかった。

(続く)
コメント
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