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世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(22)

2010-11-15 10:14:17 | Weblog
高陞号が撃沈された時は、すでに戦争の始まった後である。蓋し、戦争というものは、豫め宣告することなくして、これを始めても、少しも違法の措置ということはできない。このことは、英国及び米国の法定で、幾度となく確定せられたところである。
さればたとへ高陞号の船員は、初め戦争が既に起こったことを知らなくても、日本の士官がわが船に乗りこんで来た時、これを承知したものと見做さねばならぬ。
この時に当たってその船が英国の国旗を掲げていたといないとは、敢えて注意するにたらない一些事に過ぎない。
当時日本の軍艦は、捕獲の目的をもって、高陞号に兵員を乗船せしむることは、とうてい実行できないという見込みをもっていたので、日本の艦長は、高陞号をその命令に従はしむるためには、いかなる暴力を用いるとも、それは固よりその権内にあることを知らねばならぬ。そもそも、高陞号には、日本軍攻撃のため派遣せられた遠征の一部隊が乗船していたので、日本人がその目的に達することを防止するためには、これを撃沈したことも、正当の所為といはねばならぬ。
また沈没後に救助せられた船員は、何れも規則通り、自由の身となることができたので、この点もまた日本の行為は、国際法にいはんしたものということはできない。
故に日本政府は、これがため決して英国に対するの義務なく、また船主及び溺死せる欧人等の家族は、日本に対して、損害を要求する権利はない。



(16)更には沸騰した英国世論に対して、日本側は積極的に情報を開示し、救助した英国船長の証言などから、事の次第が判明。東郷艦長が2時間半の長きにわたり説得を試みた末、国際法に則り、予告信号を出して砲撃していることが判明し、国際的に納得したことも大きく寄与している。

東郷平八郎はイギリスに留学して、国際法を修めていたので、東郷の取った処置には非のうちどころがなかったのであった。

中国漁船衝突事件のビデオの公開を最後まで拒否していた現民主党政権のやり方と比べても、雲泥の差がある。APECを控え、ことを荒立てぬとする了解事項が、菅・仙石政権と中国共産党指導部との間にあったに違いない。そしてロシアは中国と通じており、今国後島を訪問しても民主党政権は強硬には出ないと踏んでのメドベージェフの訪問であろう。全くこいつらに日本を任せて大丈夫か? 『風知草:ビデオ騒ぎの教訓=山田孝男
http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20101108ddm002070070000c.htmlも参照願う。

(17)またこの事件は高陞号が清国兵を満載していたことにより、中国側が事前計画にもとづいて、天津条約背馳し、日本の最後通牒を無視し朝鮮領海内を突破し、牙山に大兵を集中させつつあったことを全世界に暴露した。これによって、中国がこの戦争において侵略者であることを示した事件でもあった。天津条約によれば朝鮮に派兵する場合には通知することが義務付けられている。天津条約については当ブログの11/5を参照のこと。
  『豊島沖海戦
http://ww1.m78.com/sib/hoto%20battle.htmlを参照願う。

(18)日本の最後通牒とは、上記のURLによると、次のように記述している。

豊島沖海戦は日本の宣戦布告8月1日以前の7月25日におきているのである。詳細にいえば、日本は7月19日に清国に「今より5日を期し、適当な提議を出さねば、これに対し相当の考慮をおしまず、もし、この際(朝鮮への)増兵を派遣するにおいては『脅迫』の処置と認む」と警告(五日猶予付き最後通牒)した

(19)なお『日清戦争前夜の日本と朝鮮(24)』によれば、事実上の最後通牒と言われるものは、
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi060.html1894年7月12日に閣議決定し、小村臨時代理公使をして清国政府に通知させた。(清国政府への通知は14日

(続く)
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日韓併合100年(21)

2010-11-12 11:47:19 | Weblog
(1)清国駐在の領事・武官から清軍の増派を知らされた日本軍大本営は、1894年7月19日に同日編成された連合艦隊に、1.朝鮮半島西岸の制海権と仮根拠地の確保、2.兵員増派を発見次第輸送船団と護衛艦隊の破砕を指示した。

(2)1894年7月25日早朝、日本海軍第一遊撃隊巡洋艦吉野(4216t,15cm4門)、秋津島(3150t,15*4)浪速(3709t,26*2)は、朝鮮北西岸豊島沖で清国巡洋艦済遠(2440t,21*1)、広乙(1000t,12*3)の2隻と遭遇する。

(3)3000mに接近した時、済遠が21cm砲を発砲し戦闘が始まる。その後霧が濃くなり清国艦隊は逃走を始める。

(4)広乙は追い詰められ擱座し乗員を下船させた後爆破。済遠は国旗を降ろし降伏の意を示したかと思うと逃走を図る。

(5)この追跡戦の最中に、吉野と浪速は、清国軍艦操江と英国商船旗の高陞号(こうしょうごう)に遭遇する。

(6)高陞号は清国軍にチャーターされたイギリスのジョージ・マディソン商会の商船であったため、浪速の艦長「東郷平八郎」大佐は、高陞号に信号を送り停船させて臨検を実施する。

(7)短艇で高陞号に乗り込んだ士官は、清国兵1,100名、火砲14門、弾薬多数が満載されていることを確認する。

(8)東郷大佐は高陞号を拿捕すべく”本艦に続航せよ”と信号を送るも、従わず”清国兵が騒いで続航できず”と信号を送ってくる。

(9)東郷艦長は清国軍が拿捕に応じないと判断し、”直ちに船を見捨てよ”と信号を送る。

(10)再度高陞号に士官を送り、清国兵がイギリス人船長らを脅迫していることを確認する。その後も清国兵たちはイギリス船長らを脅迫し続けて、日本側の指示に従わず、短艇派遣信号を繰り返す。

(11)そのため東郷は高陞号の撃沈を決意し、”短艇送り難し、直ちに船を見捨てよ”と最後の信号を送る。そして「危険」を意味する信号旗”B旗”を掲揚する。

(12)そして、浪速は砲撃と魚雷攻撃で高陞号を撃沈する。清国兵1,000名以上が死亡し、イギリス人船長以下3名を救助する。

(注)Wikipediaの「日清戦争」では清国兵を50名救助していると記されているが、他の史料にはその記述はないので、これは間違いであろう。『7月25日、今日はなんの日?高陞号事件起きる。日清戦争』http://news.livedoor.com/article/detail/3243936/にもその旨記載されている。

(13)高陞号を撃沈されたイギリスの対日世論は沸騰し、東郷艦長の処罰と日本政府への損害賠償を要求したきた。

(14)しかし当時イギリスを代表する国際法学者のジョン・ウェストレーキとトーマス・アースキン・ホーランドの両氏がタイムス紙へ「東郷艦長の取った決断と行動は戦時国際法のいかなる条文に照らしても全く正当である。」と投稿すると、批難は一気に沈静化する。

(15)ロンドンタイムス紙の論文を次に示す。これは『「明治」という国家』からの引用である。

http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/07/post_524.html
(続く)
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日韓併合100年(20)

2010-11-11 17:40:42 | Weblog

この例でも分かるように農村も荒れていた。壬午軍乱の翌年の1883年頃から農民の反乱が各地で起きていたが、1894年(明治27)2月15日に全羅道での民衆の反乱に対して、朝鮮政府はその反乱は東学に責任があるとして東学の弾圧を始めた。東学とは東の学で、儒教、仏教、道教などを合体した民族的宗教である。西学とは西の学でキリスト教を言う。東学は「お札をもらい呪文を唱える」だけの単純なものであったので、農民に支持が広がり瞬く間に各地に広がった。3月29日には東学党が全羅道で蜂起し国政の改革を唱えたため、支持する農民を巻き込み全国的な内乱へと発展していった。政府軍はこの反乱を鎮圧することが出来ずに、閔氏政権は、清国に援軍を要請する。これを甲午農民戦争(東学党の乱)と言う。清国公使は日本外務大臣陸奥宗光に対して「朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する」旨6月6日に通告する。陸奥宗光は「朝鮮は清国の属邦とは認めず」と抗議し、駐清代理公使の小村寿太郎は清国政府に「公使館保護のため日本軍も出兵する」ことを翌6月7日に伝える(天津条約に準じて通告)。朝鮮政府は日清の武力介入を避けるために東学党の国政改革案を受け入れて反乱を収め、1894年(明治27)6月10日全州和約を結んでいた。朝鮮は日清両軍の撤兵を要請したものの両軍とも受け入れず、6月15日、日本は「朝鮮の内政改革を日清共同で進める」旨の提案を行うも、清国はそれを拒否する。その後イギリスが調停に乗り出し、ロシアは日本軍の撤退を要求する。7月9日清国はイギリスの調停案を拒否する。日本は駐露公使よりロシアの干渉はこれ以上ないとの情報により、7月11日清の調停拒否を非難し清との国交断絶を伝える。これに激怒した光緒帝も7月14日開戦を決定する。回答に3日の猶予をもらった朝鮮は「内政改革(宗属関係の撤廃)は自主的に行うので、日清両軍の撤兵」を再度伝えてくる。19日には日本から5日の猶予をもって朝鮮改革案の提起をせよと清国に迫っている。現地ではすでに、7月25日には豊島沖の海戦が戦われており、8月1日に日清両国が宣戦布告する。したがって日本側は朝鮮、清の回答待ちの状態であったため、陸奥宗光は「外交にありては被動者(受身)たるの地位を取り、軍事にありては常に機先を制せむ」と回顧している。

豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)は次のような経過で戦われた。
以下はWikipediaと『東郷艦長の決断』http://blogs.yahoo.co.jp/torakyojin88/34327394.htmlを参照してまとめている。

(続く)
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日韓併合100年(19)

2010-11-10 01:10:37 | Weblog

当時は軍事力が直接的に物を言う時代、現代もそのことは通用しているが、では、軍事力が不足すると、非が相手国にあっても外交問題では負けてしまうのであった。そのため日本は散々苛められてきたのである。その点日本の軍拡8カ年計画は、今の中国のアジア一極支配を目論んでの軍拡とは、根本的に異なるものである。

中国は現代にその定遠、鎮遠を蘇らせ日本を威嚇し属国化しようとしている。中国は1986年に海軍発展戦略を発表し、航空母艦の保有を宣言しいてる。その前年の1985年にはオーストラリアから空母メルボルンを購入し研究を開始し、1990年にはソ連からワリヤーグ他3隻の空母を購入している。そして2016年には新造の2隻の中型空母とワリヤーグで3隻体制のとると宣言している。この空母機動部隊こそ現代の「定遠、鎮遠」なのである。2010年9月7日に発生した中国漁船衝突事件はその尖兵である。どうする、菅・仙石よ。中国は必ずや第2の尖閣諸島事件を起こし、尖閣諸島に居座ろうとするであろう。どうするか、民主党政権よ。

この件は、2009.9.4の当ブログ「尖閣諸島問題(122)」以降を参照願いたい。

ちなみに1891年(明治24)には、定遠、鎮遠をはじめとする清国北洋艦隊の6隻が、更に一応親善目的で日本を訪問している。6月30日に神戸、7月には横浜港に入港している。横浜港には清国軍艦6隻のほか、日本の軍艦も6隻が停泊していた。その6隻を次に列挙する。

定遠(7,430t)、鎮遠(7,430t)、経遠(2,850t)、来遠(2,850t)、致遠(2,300t)、靖遠(2,300t)

これに対して日本側は、

扶桑(3,718t)、高千穂(3,650t)、浪速(3,650t)、高雄(1,760t)、葛城(1,476t)、大和(1,476t)

これを見れば、清国の軍艦6隻が同数の日本軍艦に比べて優越しているのは一目瞭然であり、日本人がこれを見て驚愕したであろうことは想像に難くない。

この軍艦の列挙は、「鎮遠定遠下駄に履き4」から転載している。下記URLを参照願う。
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/wardroom/Nagasaki_riot/nagasaki_riot4.htm
しかし明治の為政者はこの困難を直視して、完全ではなかったにしても確実に対処していった。

しかし甲申事変の天津条約(1885年)では「朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要とする」となっていたが、朝鮮では袁世凱率いる清国軍が朝鮮王朝を抑えることにより親清政権が誕生し、政治的にも軍事的にも清が主導権をとることとなり、清の朝鮮に対する宗主権が温存されることとなった。そのため1893年(明治26年)の朝鮮国内での「防穀令事件」では、日本の伊藤首相と李鴻章北洋通商大臣との間で話が進み、朝鮮が賠償金を払うことで決着していると、Wikipediaに記されている。

防穀令事件とは次のものである。

1890年頃には、朝鮮からの輸出先はほとんどが日本で全体の9割を占めていた。その中身は米穀がその30%以上であった。そして1889年(明治22)、朝鮮での凶作を理由に穀物の輸出を禁止した。そのため日本商人は大打撃を受け、朝鮮との外交問題となった。日本は防穀令の施行は通商章程に違反するとして抗議、賠償請求した。
(続く)
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日韓併合100年(18)

2010-11-09 11:32:07 | Weblog
このように世界の動きは日本の近代化を待ってはくれなかった。特に壬午軍乱(1882年・M15年)による公使館焼き討ちや日本人が殺戮されたこと、また甲申事変(1885年・M18年)による日清駐留軍の武力衝突したことなどのため、富国強兵が改めて叫ばれることとなったが、明治18年当時の日本の財政にとってはかなり厳しいものであった。しかし清国の軍拡定遠、鎮遠は1885年に就役している)、清仏戦争(1884~5年)、露朝密約事件(1885~6年)、巨文島事件(1885年)、シベリア横断鉄道(1891年・M24年起工)など、日本は毛を逆立てるだけではなく爪と牙を磨き、自国を守りきる必要があった。

清国海軍の北洋艦隊は、ロシアのウラジオストックを訪問した後、艦艇修理を名目に1886年(明治19年)8月1日長崎に入港させている。定遠、鎮遠、済遠、威遠の4隻である。定遠と鎮遠は、清国がドイツから購入した装甲戦艦で7,300トンの巨艦であった。その時の日本海軍の最大艦は、「高千穂」でその半分の3,700トンであった。これは明らかに清国の威嚇のための示威行動であった。更に8月13日には上陸した水兵達が遊郭で暴れだし警察官とがお互いに抜刀して切りあう乱闘を起こし、双方に死傷者を出している。更に15日には、前日の士官の監督の下に上陸すると言う協定に反して300人の水兵が上陸し、武器を持ち交番を襲撃しそれぞれに死傷者を出している。これを長崎事件と呼び甲申事件と共に、日本の感情を大いに刺激し反清感情が極限までに高まり、これも日清戦争の引き金のひとつとなっている。そのため民権論を主張する政治結社の玄洋社の頭山満は、国権論へと転向している。また長崎事件の2ヵ月後の1886年10月24日にはイギリス貨物船「ノーマントン号」が紀州沖で座礁し沈没している。イギリス、ドイツ、中国、インド、日本人(25名)が乗船していたが、白人はほぼ全員が助かったのに、日本人全員とインド人乗組員も全員が死亡した。この人種差別に日本人の怒りは頂点に達したが、当時は不平等条約で外国人には治外法権があり日本での裁判は実施できなかった。これを「ノルマントン号事件」と呼んでいる。この長崎事件とノルマントン号事件の二つは明治期の重大な外交事件と言われている。

定遠、鎮遠の舷側装甲の最大厚は305mm、主砲も30.5cmと、日本海軍から見ると化け物のような巨大戦艦であった、とWikipediaには記載されている。1886年4月末に就役した高千穂の装甲は、Wikipediaによると平坦部51mm、傾斜部76mmで26cm単装砲4基などであった。日本が本格的に定遠、鎮遠に対抗する軍艦として建造された軍艦は、松島、厳島、橋立であり、三景艦と呼ばれた。それでも甲板上部の主砲部分が300mmで他の部分の装甲は40~75mmであった。Wikipediaによると小さな船体に定遠の30.5cmを上回る巨砲32cm一基積んだ背伸びしたものであった。そのため子供に大型拳銃を持たせ、撃たせるようなものであった、と言われ日清・日露戦争ではそれなりの働きはしたようだが、決定的な働きは出来なかった。むしろ艦隊行動の高速機動性を有する12cm砲以下の速射砲を備えた軍艦による戦果のほうが大きかった、と記されている。

壬午軍乱の起きた1882年、その12月に、政府は「軍拡8カ年計画」を決定している。

その総額は、8ヵ年で5,952万円であった。この年の一般会計歳出決算額は、7,348万円であった。そのため一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、20%以上で推移し、「軍拡8カ年計画」が終わっていた1892年(明治25年)度の31%がピークであった。これは当時の日本を取り巻く状況、例えば清国の砲艦外交長崎事件などを見れば、至極当然の成り行きであった。
(続く)
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日韓併合100年(17)

2010-11-08 10:21:21 | Weblog
さてこの女・子供を含む近親者への残酷な処刑は、中国・朝鮮への憎悪を福沢諭吉らに呼び起こさせて、福沢諭吉の「脱亜入欧」論を発表させることになり、日本近代化の方向性が定まるきっかけともなっている。そして日本軍惨敗の結果が反省され、後の日清戦争には大いに役立ったと言われている。

ちなみに壬午軍乱で虐殺された日本人の死体は尋常ならざる状態であったと言う。死体は切り刻まれ、頭骨までもが打ち砕かれており、個人の特定ができなかったと言う。日本人と特定したのは、付着する衣類の一部が日本特有のもので、全員の遺体の損壊状況が尋常ならざる状況ですべて共通していたからであった、と報告書にも記載されている。

以下は『きままに歴史資料館』の「明治開花期の日本と朝鮮(23)」よりの引用である。

http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi034.html

「・・・・・・・・
検死は遺骸の損壊状態と腐敗の為に極めて困難を要した。
 その状況というものは、
「砕けたる骨に付着せる衣類のままを白布を以って巻きつけたり。頭骨皆砕けて髪は胸の辺りに散乱す。」「全身分明せず」「以下全て同様である」「頭骨等砕けたるを以って尋常の死体ならずと認定する。」
という有様であった。
 結局は生死不明者7人の内、1人はついに相当する遺骸は見出しえなかった。
 個人が特定できたのは1人であり所持品からである。
 日本人と特定したのは付着する衣類の一部が日本特有のものであったからである。
 特定できる衣類の一部などが無い者も日本人と判断したのは、全員の遺体損壊の状況がすべて共通していたからである。
 即ち「死体六個の内、其の二は遂に証拠ものと為すべきものなしと雖も、頭部及び其の他の骨惨酷に砕けたるを以って見れば決して他の死骨と疑いを起こすに及ばず。」とある通りである。
 真に凄惨極まる状況の報告であるが、なぜここまで惨酷な状態にせねばならないのだろうかと筆者は思わざるを得ない。」


そして朝鮮の安定化のためにロシアが朝鮮中立化案などを提案し、日清朝の関係にロシアが首を突っ込んでくる。1885年には、朝鮮の外務次官を勤めていたロシア人メレンドルフが不凍港の租借を画策しその代わりロシアが単独で朝鮮を保護すると言う密約を提案したが、清の李鴻章に反対されメレンドルフは失脚する。翌年の1886年には朝鮮政府からロシアに密書が送られ、紛争時に軍事的保護を要請するものであった。ロシアを引き込み清の圧迫に対抗する意図があった。しかし密告により袁世凱の知るところとなり、国際問題化した。これを第1次、第2次露朝密約事件と言う。1885年4月の天津条約では、日清以外の国から軍事顧問を招聘することとうたわれているので、ロシアが首を突っ込んできたのか。1885年4月15日には、イギリス海軍軍艦による巨文島占領事件が発生している。これもロシアの永興湾一体の占拠を阻止するため、南下を恐れたイギリスが起こしたものであった。永興湾は元山(げんざん)の麓、朝鮮半島のウサギの耳の付け根の日本海に面したところに位置している戦略上の要衝となるところであるが、巨文島占領はロシアの強硬な反対のために、2年ともたなかった。1840年前後には、ロシアのアフガニスタンへの進出を阻止するためイギリスは、アフガニスタンを保護下においていた。そのため朝鮮へのロシアの進出をイギリスは極端に恐れていたのであった。ヨーロッパでもロシアはフランスと同盟をむすぶ事となる(1891年)。このためイギリスは東アジアでもロシアを押さえるために、日本に接近することとなる(1894年(M27年)日英通商航海条約)。
(続く)
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日韓併合100年(16)

2010-11-05 12:10:11 | Weblog
その後日本は花房公使を全権委員として、軍艦5隻、歩兵1個大隊と海軍陸戦隊を派遣する。これに対し宗主国としての清国軍戦艦とアメリカ軍艦が派遣され日本側を牽制する。結局は、日本は公使館の警護のために日本軍を駐留させることになる。このことは、清の朝鮮に対する宗主権の牽制を意味することともなった。この事変を壬午軍乱(じんごぐんらん)と呼び、1882年(明治15年)8月30日に結ばれた条約を済物浦条約と言う。このとき決まった賠償金は5年で支払う50万円と決まったが、財政困窮のため結局は10万円しか支払われなかった。日本は最後まで賠償金は厳しく取り立てるべきであった。ちなみに壬午軍乱で死亡した17名の日本人は(語学留学生も含め)全員が靖国神社に祭られている。このように靖国神社には、日本近代化の課程で犠牲になられた多くの御霊が、祭られているのである。


この交渉中宗主国と自認している清国はさまざまな内政干渉を行い、朝鮮開化派は清国に一層反発し日本に接近させる結果となった。清は1882年10月に「中国朝鮮商民水陸貿易章程」を結び、朝鮮を属国扱いしている。いわゆる不平等条約であった。そのため親清国派(守旧派・事大党)と親日本の独立党(開化派)との権力争いが激化する。そして漢城に日清両国の軍隊が駐留することとなり、2年後に駐留清国軍と武力衝突することとなる。(甲申事変こうしんじへん)

朝鮮では閔妃一族が親清政策(事大政策)に転じたため、開化派は危機をつのらせる。開化派の金玉均らは日本の政財界の代表者たちに接触し近代化の構想をはぐくみ、福沢諭吉らは熱心に支援する事となる。開化派は国王を頂点とする立憲君主制の樹立を企て国王高宗を取り込み、クーデターを計画する。1884年(明治17年)12月に郵征局の開庁祝賀パーティーの際に放火し、その混乱に乗じて守旧派の高官を倒し、高宗はそれを名目に日本に保護を頼み、日本軍は朝鮮国王を保護し開化派が国王をトップとする立憲君主制国家を樹立すると言うもの。しかも1884年から1885年にかけて清国はベトナムをめぐってフランスと清仏戦争を戦っていたので、朝鮮の駐留清軍は半減している。そして1884年(明治17年)12月に計画は実行され、そのクーデターは成功する。そしてその日のうちに金玉均を首相とする内閣は国王の稟議を経て成立し、清国への朝貢を廃止するなど決めたが、即座に袁世凱率いる清軍が王宮を警護する日本軍を攻め、日本軍とクーデター派は敗退してしまう。漢城市街では清国軍人によって多数の在留日本人が殺され、略奪されている。そして金玉均らは日本へ亡命するが、残った開化派人士やクーデター派の三親等までの親族が残忍な方法で処刑されている。その後日本と清国の間に1885年(明治18年)4月18日に「天津条約」が結ばれる。これが甲申事変である。

条約の内容は、
(1)日清両国は4ヵ月以内に撤兵を完了する。
(2)日清両国は朝鮮に軍事顧問を派遣しない。朝鮮は日清両国以外から軍人を招致する。
(3)朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要とする。派兵後は速やかに撤退し駐留しない。
(4)日本人殺傷事件を調査し、事実であれば処罰を行う。

などが決められたが、相互通知(「行文知照」)の「照」の字は「中国の天子の了解を得る手続き」と理解され、中国側では日清両国共に中国の天子に「照会」をとると、曲解して解された。

だから、外交交渉は十二分に注意して揚げ足を取られることのないように、語学力はもちろんのこと、特に中国の場合は相手の意図せんとすることを広く考慮して、歯止めをかけておくことが必要なのである。「革新的利益」なんぞに誑(たぶら)かされて尖閣諸島を取られることのないように、十二分に準備することが必要なのである。それには尖閣諸島への自衛隊の駐留が是非とも必要なことなのである。果たして菅・仙石の民主党政権にその力量はあるのか。それにしても日本軍は駐留清国軍に対抗出来得るだけの戦力を準備しておかなければならなかったのだ。

(続く)
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日韓併合100年(15)

2010-11-04 11:12:17 | Weblog
言ってみれば、この江華島条約は朝鮮を独立国として認めお互いに友好な外交関係を築こうとしたものであるが、このようにいくら日本が頑張って朝鮮の独立を認めても、清国をはじめ世界は朝鮮を清国の属国と認めていた。例えば、1885年にイギリスが朝鮮半島南端の巨文島を占領した時には、イギリスは李朝には通告せずに、イギリス駐在の清国大使の曾紀沢に連絡し曾紀沢もそれを李朝政府には連絡することなく占領を了承している。国土変更も清国の裁量しだいだったのである。1885年(明治18年)と言えば、江華島条約の9年後のことであり、その第1条には朝鮮は自主の国だと記されているのである。
このように列強は直接朝鮮と外交関係を持とうとしたため、清国は朝鮮管理を強化したのである。

江華島条約(1876年・M9年)の5年前の1871年(明治4年)には廃藩置県を実施し(この年の12月に宮古島の住人が台湾に漂着している)、翌1872年(明治5年)には琉球王国を廃止して琉球藩を設置する。1874年(明治7年)には台湾出兵(牡丹社事件)を行っている。 そしてその年の10月には日清両国間互換条約が調印され、琉球の日本帰属と台湾の清国帰属が認められる。
1879年(明治12年)に明治政府は軍隊と警官を派遣し琉球藩を廃止し鹿児島県に編入し、同年中に鹿児島県から分離し沖縄県を設置している。このような動きのある中、清国は朝鮮管理を強化せざるを得なかったのである。

この一連の琉球に関する動きを「琉球処分(第1次及び第2次)」と呼ばれている。

ちなみに話はそれるが、1919年(大正8年)に中国福建省の漁民31人が遭難し尖閣諸島に漂着したところを、石垣村の住民らが熱心に看病し、全員を生還させている。このため中華民国駐長崎領事から感謝状が贈られている。その文面には「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内の和洋島」との記載がある。和洋島とは現在の日本の尖閣諸島の魚釣島のことである。
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/syasin.htm などや
http://www.youtube.com/watch?v=boVrB2uAP-8
などを参照されると良い。

さて話を朝鮮に戻すと、この琉球の日本帰属が清の朝鮮外交に大きな影響を与えることとなる。清は朝鮮の属国解消を恐れ、朝鮮と西洋列強との条約締結を促進したのである。そして米英独と修交通商条約を結ぶこととなる。しかし朝鮮政府内で力を得た「開化派」は清国に対する対応の違いから分裂することとなる。また清国の属邦のままでよいとする「守旧派」(事大党、大に事ツカえると言う意味)と「開化派」(独立党)とが勢力争いを続けていた。朝鮮宮廷内でも高宗の実父の興宣大院君らと高宗の妃の閔妃(びんぴ)とが対立し、1883年(明治16年)閔妃が大院君一派を追放する。閔妃は当初開国政策を採り、1876年(明治9年)の日朝修好条規(江華島条約)は彼女の下で締結されている。閔妃は日本から軍事顧問を招き新式軍隊を育成していたが、旧軍の不満に大院君らの勢力が加担し1882年(明治15年)に閔妃暗殺を企て、漢城で大規模な旧軍兵士の反乱が起こる。反乱軍は閔妃一族の開化派高官たちを殺傷し、更に攻撃の矛先を日本人や日本公使館にも向け、花房公使以下28名は17名の死者と多数の負傷者を出しながら焼き討ちされた公使館を捨て済物浦(さいもっぽ)へ非難し、英国測量船に保護され命からがら長崎へ帰還する。閔妃はといえば事変をいち早く察知し、朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の下に転がり込む。清国軍は反乱鎮圧と日本公使館護衛を名目に漢城(ソウル)に駐留し大院君を天津に軟禁し、閔妃一族は政権を取り戻し開化政策から親清政策へと転換してしまう。

(続く)
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日韓併合100年(14)

2010-11-03 09:50:08 | Weblog
そして更に続けている。
「韓国は、1000年以上にわたって宗主国への貢女と宦官の献上と言う哀史を抱えている。妓生の秘史も、過去の軍妓、駐留軍慰安専用の「ウォーカーヒル」つまり「米軍将兵慰安総合遊興村」などから、現在の「退廃理髪店」に至るまで、脈々と続いてきたのだ。それはつい最近までの歴史であり、韓国は「売春立国」と言う自慢できない歴史を持っているわけだ。」

「もし韓国が歴史から真の反省や教訓を得ようとするなら、まず自ら1000年以上も続いた売春史や妓生史として学ぶのが本筋だろう。しかし、実際は日本について、「過去の一時期」にあったかどうかわからない従軍慰安婦についての記述を、中学の歴史教科書に入れるように強制するばかりである。韓国の子弟に自国の慰安婦史を教えると言うのなら判るが、これではあまりにも本末転倒であり、日本にとっては大きなお世話だろう。」

至極真っ当な意見である。菅や仙石も肝に銘ずるべきであろう。なお朝鮮の売春立国に関する件については、当ブログの2007年4月30日の「慰安婦問題について」も参照願う。これには、朝鮮人が自国で婦女子を拉致して慰安婦にするという朝鮮の東亜新聞の記事が紹介されている。

この貢女の歴史も、日清戦争の講和条約・下関条約により朝鮮の独立を清国に認めさせたことによりなくなったのであるが、上の記事によれば朝鮮国内では朝鮮人による慰安婦狩りが横行していたのであろう。誠にもって朝鮮人とは、信用ならざる人種である。

ちなみに日清戦争はなぜ戦われたか、今一度おさらいしたいのだが、その前に先にも言及した「江華島事件」を取り上げ見よう。

先に朝鮮が明治政府の国書の受け取りを拒否した話を伝えたが、日本と朝鮮との修交のための明治政府の外交交渉に対して極めて非協力的で無礼な態度であったために、この無礼は許しがたいと誰もが思い、征韓論が巻き起こるのである。しかしその征韓論も下火となった1875年(明治8年)5月釜山で再度政府間交渉が持たれたが、宴饗の儀での日本大使の大礼服着用と宴饗大庁門の通過を許さなかったなど紛糾し、交渉は膠着した状態となった。明治政府は2隻の木造軍艦を派遣し応援するも、交渉はまとまらずに終結する。この軍艦は長州藩が英国より購入した木造の240tクラスの船であったが、朝鮮沿岸の測量に従事する。その1隻「雲揚」は9月に入り清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられ、9月20日に首府漢城(ソウル)に近い江華島沖に投錨し、役人と面談するため端艇で江華島に向かったところその砲台から砲撃を受ける。そのため本艦に取って返し、9月21日砲台に接近し砲撃戦を開始する。そして第三と第二砲台を破壊する。翌9月22日には第一砲台を攻撃し占拠する。守備兵は逃げ去り、多数の民間人を保護し負傷者を治療し食料を与え開放する。日本軍は場内から大砲36門他多数の戦利品を手に入れ、翌9月23日に戦域から離脱する。そして1876年2月11日に交渉を開始し、2月27日に日朝修好条規(江華島条約)が結ばれた。この条約は日本の安政の五カ国条約と類似しているが、最も特徴的で異なっている点は、そのに「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国と認める。」とある。これは朝鮮が清国の藩属国であることを考慮して特に日本が挿入した一文である。日本は朝鮮を「自主の国」とすることで、清朝の介入をなくそうとしたのである。しかしそれでも朝鮮は清国の属国の地位に甘んずることを選択していた。清朝も朝鮮への冊封体制を強化し始めた。この清国の宗主権を否認することとなり、日清戦争のある意味直接的原因となるものである。そのため結局朝鮮を真に独立させることは、日清戦争を待たねばならなかった。

(続く)
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日韓併合100年(13)

2010-11-02 10:18:41 | Weblog
この書籍では、「統一新羅の時代から李朝朝鮮に至るまで、例年、宗主国の元、明、清へと貢女を進貢してきたとの記録もある」と述べている。「婚姻の習慣から言えば、古代朝鮮は売春婚の国である。中華帝国をはじめとする北方諸王朝への貢女の献上は、古代からすでに有名だったのだ。とくに元の時代、モンゴル人の百数十年に渡る長期支配化では、貢女、娘の供出の催促が厳しかった。」と記されている。そしてこの貢女の歴史は、中国の歴史書だけでなく、『韓国通史』(学生社)などの韓国人学者による通史にも散見できる、とも記されている。

元の時代の朝鮮は高麗朝である。あの元寇は、高麗・元の連合軍が九州北部を襲ったことは先にも述べたが、その高麗である。もともと朝鮮は朝貢国家であったために、古くから貢女の習慣はあったようで、先に見たように朝鮮の朝貢の歴史は高句麗の355年北燕朝貢から始まっている。朝鮮の歴史はこのように朝貢の歴史であり、朝貢品の中には必ずやなどの奴隷が含まれており「性奴隷」として扱われていた。貢女の献上は古代からすでに有名だったと黄氏も述べているように朝鮮の歴史でもあったが、とくにモンゴル人によるむすめの供出の催促は厳しかったために、高麗朝の貴族社会にとっては、かなりの苦痛であったと言われている。献上するむすめは「処女」でなけばならず、明や清の時代にもそれが受け継がれ、美女で処女であることが原則で更にはその身分もそれなりに高いことが求められた。そのため朝鮮国王の妹や王女、あるいは王室や大臣の娘が好ましいとされた。そして両班の娘、またはその妾(めかけ、こしもと)が望ましく、それ以外の地位のものを貢女としてはならないとされていた。誤魔化そうとした場合には、厳しく罰せられたと言う。

そして黄文雄氏は次のように史料を上げて説明している。

1274年、と言えば文永元年の文永の役の年であるが、元寇のために元は南宋の軍人を朝鮮に派遣した。いわゆる蛮子軍(華北の住民が漢人、江南の住民を南人または蛮子マンジと呼んだ。)であるが、元は蛮子軍のために高麗の婦女140名の供出を要求した。高麗の元宗は「結婚都監」を設けて、市井の独身女性、逆賊の妻、僧人の女を集めて供出した。その時は処女、童女ではなく、独身婦女や罪人の妻を強制連行して、一人絹12匹(布地24反、1匹は2反)で、モンゴル政府に売ったのである。これは政府と言う国家権力による人身売買と強制連行である。日帝の朝鮮女性の強制連行などの捏造は、朝鮮史の中にこのような史実があったから、捏造できたことなのである。

その翌年の1275年元宗の子・忠烈王の元年に、元は蛮子軍・1400人を派遣し駐屯した。高麗政府は蛮子軍に営妓を売るために「寡婦処女推考別監」を設け、役人を各道に派遣し婦女を推考、選別したのである。『明実録』(1409年2月、永楽七年)に記録されている例では、明の永楽帝時代に内使(内々の点検のために中央から地方へ派遣された使者のことか?)が朝鮮へ派遣され、直接美女を選んだとされている。そのため驚いた朝鮮政府は、あわてて全国に結婚を禁止し、13才から25才までの処女を各所からかき集めたと言う。

事ほど左様に「朝鮮では統一新羅の時代から李朝朝鮮に至るまで、例年、宗主国の元、明、清へと貢女を進貢してきたとの記録もある。婚姻の習慣からからいえば、古代朝鮮の売春婚の国である。中華帝国をはじめとする北方諸王朝への貢女の献上は、古代からすでに有名だったのだ。」とKには記されていることは先にも述べた。

「西洋の伝道師シャルル・ダレが書いた『朝鮮事情』(平凡社東洋文庫)には、李朝朝鮮は毎年、宮廷慰安婦として「美女3000人」を供出していたと書いてある。しかし(韓国の)朝鮮史の専門家までが、朝鮮の妓生はただの踊り子や楽師、またはせいぜい日本の芸者のようなものであり、娼妓や売春婦ではないなどと言っている。しかし、史実をいくら「美化」しようとしてもウソはウソだ。これは明らかに歴史の捏造である。」

(続く)
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