世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

映画「靖国」に物申す(10)

2008-09-02 23:05:46 | Weblog

(4) 映画「靖国」に使われている映像は、殆どがある写真集からの転用だった。
しかもその旨断ってはいない。これって盗用?

この映画の中で、李・インは刀匠の刈谷直治さんに、執拗に一冊の本を示している映像が頻繁に映し出されていた。どうも日本刀による武勇伝を、刈谷さんに読ませて、日本軍の蛮行を証明させたいように見え、はなはだ嫌味に感じた。それには靖国神社と靖国刀に象徴される日本刀を、日本軍国主義の象徴に祭り上げようとの李・インの企みが見え見えなのだ。

内村祐三氏の調査によると、この本は『靖国刀』と言う写真集だという(トム岸田著、雄山閣出版・平成10年)。この映画にはこの写真集の写真が刈谷さんの作業場の風景の合間合間に映し出されている。この写真の転用もなんら説明されていない。

トム岸田氏は、フォトジャーナリスト(写真報道家)である。彼が、李・インを刀匠の刈谷さんに紹介した人物であるが、彼・トム岸田氏も、李・インに騙(だま)されたと言って上映中止を申し入れている

ある時、映画監督の李・インの助監督をしている「中村」と言う人物がトム岸田氏を訪ねて、伝統工芸品である日本刀(靖国刀)のドキュメンタリーを撮りたいから刀匠を紹介してくれと、頼んだことからこの話は始っている。

ドキュメンタリーとは実際のものを有りの侭に記録すると言うことであるが、しかしトム岸田氏も、この映画は記録するどころか、靖国を軍国主義の中心に据えて日本を貶(おとし)めようとして、世界にプロパガンダしている「政治的な宣伝映画」であるとして、上映中止を申し入れているのである。だから8月15日の靖国の映像しか映(うつ)していないのであろう。

(5) 毎年、靖国刀が靖国神社に奉納されていると錯覚させるストーリーになっている。

日本は明治維新後の明治9年3月に廃刀令を布告している。そのため写真集『靖国刀』には刀剣ジャーナリストの土子民夫氏の次のような文が掲載されていると言う。

「旧幕時代には恐らく数百を数えた刀匠も廃藩と廃刀で一挙に零落し、研(とぎ)師も鞘(さや)師・柄巻(えまき)師・塗(ぬり)師も、金工の諸職も、日本刀に関する限りことごとく失職の憂き目を見たのである。」

そして昭和の戦争にいたっては軍刀としての需要が増え、大量の日本刀が消失していった。やがて粗製刀が出回り始め、良質の軍刀の整備が叫ばれることとなる。

そのような折に、陸軍の全面的な協力の下に、昭和8年から昭和20年の終戦まで、日本刀鍛錬会が靖国神社内に設立され、日本刀が靖国神社内で作られることとなった。それを靖国刀と呼んだのである。日本刀の歴史は長く平安時代の後半と言われているが、靖国刀はわずか12年の歴史である。鍛錬と言っているのは、木炭などの低い温度の燃料では鉄は完全には溶けないため、諸々の工夫をして蹈鞴(たたら)と言うもので溶かし込んで炭素の多い鋼鉄の元をつくり、それを熱して鍛えてゆき(叩いてゆく)炭素を火花として放出させて、更に諸々の事をして刃の部分を鍛え、「焼き」を入れて硬くし、研(と)いで切れるようにすると言う。この時の「焼き」の水加減などが、一種の秘伝となっていたと言う。

そのため日本刀には、木炭しかなかった日本の刀鍛冶たちの創意と工夫が昇華しているのである。現在で言う先端技術の結晶なのである。それゆえ日本刀の技術が廃れることを恐れ、それが日本刀鍛錬会設立となったのである。しかし終戦と同時にこの鍛錬技術も廃れてしまう。しかしサンフランシスコ平和条約を機(1951年9月)に、日本刀の製作も許され刀匠刈谷直治さんは1952年(S27年)に戦後第一作を製作している。そして1982年(S57年)7月に靖国刀を作っていた仲間18人が集まり1983年(S58年)7月8日の日本刀鍛錬会創立50周年に当たる日に合わせて新たな靖国刀を合作することとなった。そのときに奉納した靖国刀への感謝状が、刀匠たちに送られている。これが映画「靖国」に出てくる感謝状なのである。

決して毎年靖国刀が作られ、靖国神社に奉納されているのではない。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする