世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

靖国神社に参拝しよう(7)

2008-09-18 18:08:52 | Weblog

(9)グラバイ・デサイ インド弁護士会会長(インド、法学博士)

(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召喚された藤原岩市F機関長★に対する挨拶、デサイ博士は藤原岩市参謀の主席弁護人を務めた。)

このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。現に優秀な貴国国民においておやである。果たしは日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄することを確信する。インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。

F機関とは、

マレー半島に暮らすインド系住民の協力を得るべく、昭和16年末にわずか11名で活動を開始した特務機関である。その趣旨は「力や威容で敵や住民を屈服させるものではなく、徳義と誠心を唯一の武器として、敵に住民に望むのである」として、F機関メンバーはほぼ一貫して丸腰で活動を続けた。Fとは藤原のFであると同時に、Freedom、FriendshipのFを意味した。F機関は、インド独立を目指す「インド独立連盟 IIL」と連携し、日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人を平等に取り扱いインド兵たちの共感を呼び、日本軍に投降するインド兵があとを絶たなかったという。そしてその中からモハーン・シン大尉からの申し出により「インド国民軍 INA」が産声を上げることになる。
そして1942年(S17年)2月15日、シンガポールは陥落し5万人のインド兵が捕虜となる。藤原機関長はその5万人を前に演説をする。

そもそも民族の光輝ある自由と独立とは、その民族自らが決起して、自らの力を以て戦いとられたものでなければならない。日本軍はインド兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の戦いのために忠誠を誓い、INAに参加を希望するものにおいては、日本軍捕虜としての扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また全面的支援を与えんとするものである

これを聞いた全インド兵は総立ちになって歓呼したと言う。その後インド独立の英雄チャンドラ・ボースがINA全軍の指揮を執ることになる。

藤原はその後インパール作戦を戦うことになる。この無謀な戦いと言われたインパール作戦は、日本軍がインド開放に尽力すると言うINAとの約束を果たすためでもあったのである。インパールでマラリアに冒された藤原は病床で祖国の敗戦の報を聞く。そして英国軍によるINAに対する軍事法廷に、藤原は呼び出されていた。その時、デサイ博士が藤原に伝えた言葉が、上記のものである。

その後インド人による強固な抵抗運動の結果、英国植民地政府はINA全将校の釈放を決め、インドは悲願の独立を果たすのである。1947年8月15日である。

この注書きはhttp://dogma.at.webry.info/200612/article_7.htmlや
http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/2006/03/post_a02f.htmlなどを引用している。

(10)ジャワハルラル・ネルー 独立インド初代首相
 (貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253~254頁)

チャンドラ・ボーズが指揮を執り日本軍と協力したインド国民軍INAの裁判で、弁護士として法廷に立ち、「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった。・・・彼等の日本との協力は、インド開放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。

(11)アリフィン・ベイ・インドネシア・ナショナル大学日本研究センター所長
(政治学博士、「魂を失った日本」未央社、57~65頁)

日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進と言う形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは他ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が大二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響が挙げられる。(中略)(日本は)目標達成の為にどれほど必死にやらなければならないかと言うことを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。

(続く)
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靖国神社に参拝しよう(6)

2008-09-17 15:20:25 | Weblog

(7)バ・モウ 初代ビルマ首相
   (バ・モウ著「ビルマの夜明け」より、ビルマは現在ミャンマーと名前を変え、首都ラングーンはヤンゴンに変わっている。)(http://1st.geocities.jp/cutenao104/biruma.htmのキャッシュより)

真実のビルマ独立宣言は、1948年1月4日ではなく1943年(S18年)8月1日に行われたのであって、真のビルマの解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった。」

「歴史的にこれをみるならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまた、その開放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない。」

(注)ビルマは19世紀初頭よりインドを侵略した英国の圧力を受け続けていたが、抵抗むなしく1886年に全土を英軍に占領され、英領インドに編入されてしまった。大東亜戦争開戦後、アウン・サンは日本軍の「南機関」の支援を得て、ビルマ独立義勇軍を創設。日本軍と共に戦い、1942年7月にイギリス軍をビルマから駆逐する。翌年3月に日本で旭日章を受賞し、この年1943年8月1日にバ・モウを首相とするビルマ国が誕生し、アウン・サンは国防相となる。
戦後イギリスからの完全独立を目指すビルマは、アウン・サンを主席とするビルマ行政参事会代表団と英国政府との交渉の結果、1947年1月、アウン・サン=アトリー協定を締結、アウン・サンはその後ビルマ国内を、英領ビルマ全域を連邦制国家として独立させる方向でまとめる(パンロン協定)。そして1947年12月英国両院でビルマ独立法案可決を経て、1948年1月4日英連邦から離脱した共和制国家として、完全独立を果たしている。しかし現在ビルマにおいてはパンロン協定の内容は実現していない。

以上、注書きはhttp://www.mekong.ne.jp/directory/history/panglong.htmおよび
http://homepage3.nifty.com/htunktt/index1.htmlより引用。

(戦後の初代ビルマ首相となったウー・ヌらビルマ指導者達の言葉、「同著」より)

「それは言葉では言い表させないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸を膨らませて、いたるところで歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。くる日もくる日も群集がパゴダを訪れて灯明を挙げ、花を捧げた。僧達は、町中で振る舞いを受け、催物は果てしなく続いた。人々は集い、日本語で「万歳」を叫んで、日本に対する深い感謝を現す決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージを東条首相と日本政府に送られた」

(8)ガザリー・シャフェー 元マレーシア外相
  (1988(S63)年7月19日、赤坂プリンスホテルにて、彼はアセアンの創設に尽力しハマーシェルド賞を受賞している。

http://chinachips.fc2web.com/repo4/045813.html日本をしかる男(2)より)

日本の代議士の、「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と言う挨拶に対して、

「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの対戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな体の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果マレーシアは独立できたのです。
大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ

私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに目を開いて下さい。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されもせぬアジアの経済大国ではありませんか。

「ルック・イースト」「日本に学べ」と言う呼び掛けはシンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かつて反日感情の強かった国々も、次第に親日感情が起こりつつあります。

そうした中にあって、日本は欧米ばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になってほしいのです。日本はかつて、アジアに対して責任を感じ、そのために戦争であれだけの犠牲を払ったのです。
この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を向いて運転しなければ進路を間違えますよ。」

(戦後の日本の姿を見て彼は次のようにも語った。)

自己を否定するあまり、日本の大事な精神を崩壊させて、民族の誇りを完全に失った。
(続く)
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靖国神社に参拝しよう(5)

2008-09-15 21:49:34 | Weblog

(3)チェスター・ニミッツ提督
 (アメリカ、太平洋艦隊司令長官、ペリリュー島慰霊碑・1982.5「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」による創建ペリリュー神社前の慰霊碑)
パラオの大和魂・http://www.tamanegiya.com/paraototujimoto.htmlより引用。


米太平洋艦隊司令長官 C・ニミッツの詩「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守る為に日本軍人がいかに勇敢に愛国心を持って戦い 玉砕したかをつたえられよ。
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.

☆実はパラオと言う国は世界一親日的な国かも知れない程の国なのです。何しろ国旗は日の丸を元にして決めた程の国です。そして、パラオのペリリュー島と言う小さな島で12,000人の日本守備隊は大東亜戦争において兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍の敵に対し、持久戦に持ち込み、全く補給なしに73日間守り通して死闘の末玉砕しました。其の戦闘は戦後ニミッツ提督はその著『太平洋海戦史』の中で、ペリリュー島の戦闘に相当の頁をさき、次のように結んでいます。「ペリリューの複雑きわまる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高に戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者合わせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」と言うほどの激しい戦闘にかかわらず現地住民は1人も死んではいないのです。ペリリュー島には、それまで現地住民が住んでいました。日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島に退避させました。だから最大激戦地で島民の方は1人も死んでいないのです。

(是非このホームページを訪れてみて下さい。また下記ブログにはその慰霊碑の写真や 経緯が説明されています。
http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/50736076.html
またその碑に刻まれている日本文は正確には次の通りである
この島を訪れる、もろもろの国の旅人よ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」)


(4)スリム中将イギリス 第十四軍司令官 「敗北から勝利へ」より)

たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上その例を殆ど見ないであろう。

かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別をなんと考えようとも、此の企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不適さを疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。

(注)たぶんインパール作戦での状況かと思われるが、それ以上は確認していない。

(5)ダグラス・マッカーサー元帥
   (アメリカ、日本占領連合軍最高司令官
   1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)


日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼等は労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取り立てていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、その殆どが、安全保障のためであった。

(6)ククリッド・プラモード 元タイ国首相
(「サイヤム・ラット紙」題名「12月8日」、1955年(S30年)6月赤字は'09.12.22訂正した)

「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本と言う母さん難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本と言う母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」
(続く)
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靖国神社に参拝しよう(4)

2008-09-14 12:49:46 | Weblog

・大東亜諸国の独立

また、日本軍の占領で独立を果たした国々は、フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジャ、満州国であり、日本軍の各種の施策により後日独立を果たした国は、インドネシア、インドなどがある。

日本軍は占領地域に対しては、日本語による皇民化教育や資源の収奪などが行われたことから、日本もかっての宗主国と同じ侵掠者に過ぎないという見方もあるが、日本軍が宗主国勢力を排し、現地人からなる軍事力を創設したことが独立につながり、占領下での様々な施策の改善、例えば愚民化教育を廃して学校教育を拡充し、現地語を公用語化し、在来民族の高官登用などが行われたため、旧宗主国に比べ日本はより真っ当な統治者であったと言われている。

(以上はWikipediaを参考にしている。)

このように「大東亜」の概念は、旧宗主国であった連合国にとっては東南アジアなどへのかかわり方に大きく影響を与えるものと考えて、其の使用を禁止したものと思われる。

そして独立を果たした大東亜の諸国にとっては、この大東亜戦争は他の何物にも変えがたい意味を持っていたのであった。

3.海外における大東亜戦争の捉え方

(http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/daitoua.html 私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです)
この項は、追記あるものと注書きを除き、上記よりすべて引用しています。

(1)アーノルド・J・トインビー (イギリス、歴史学者、1965.10.28、英オブザーバー紙)

第二次大戦に於いて、日本人は日本のためと言うより、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。其の国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。

(2)アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者、1968.3.22、毎日新聞)

英国最新最良の戦艦2隻★が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵でないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。

★1941年(S16年)12月10日、マレー半島東方沖で、イギリス東洋艦隊の新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスが、日本海軍航空隊によって沈められた。当時の常識を覆し、戦艦が航空機によって沈められた初めての出来事であり、世界に海軍戦略の変更を与えた画期的な出来事であった。
(続く)
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靖国神社に参拝しよう(3)

2008-09-13 01:05:53 | Weblog

・ハル・ノート*

1941年(S16年)11月26日、日米交渉においてアメリカ側から提示された交渉文書であり、実質的なアメリカ側の日本に対する「最後通牒(宣戦布告)」であった。当時の陸軍長官のスティムソンは、1941年(S16年)11月28日のルーズベルト大統領との会見の時には、「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして日本を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と発言している。このため日本が先制攻撃をするように仕向ける一環として、ハル・ノートを日本に突きつけたものである。アメリカが先制攻撃をする場合には、前もって議会と国内世論をまとめる必要があり、これにはかなりの困難が伴いものと思われていた。そしてアメリカ上層部は、12月はじめには日本との戦争状態に突入するであろうと予想していたといわれている。

Wikipediaによると、
ハル・ノートの原案は、ヘンリー・モーゲンソー財務長官がハルに示したものであり、更にそれは彼の副官である「ハリー・デクスター・ホワイト」が作成したものであった。ホワイトはフランクリン・ルーズベルト政権では財務次官補を勤めた経済官僚であった。彼は、ソ連スパイのパブロフやアフメロフなどと頻繁に通じてソ連コミンテルンの工作の一部を担っていた。アメリカのソ連の暗号書ベノナ文書の解読を受け、ソ連スパイであることが確定的となった。

ハル・ノート」の内容は概略次の通り。(http://www.senyu-ren.jp/AA/08.HTMによる。)

1.満州国を含む支那大陸、及び仏印から軍隊、警察の前面撤退。
2.大陸に於けるすべての権益の放棄。
3.三国同盟の廃棄。

と言う過酷な内容のものであった。

要するに、既に建国10年を経て栄えている満州国をも放棄し、日清・日露戦役以来国際法上認められてきた日本の諸権益も投げ出して大陸から出て行けということで、これは戦わずしてアメリカに屈服せよというに等しく、到底日本が受け入れられないことを承知で突きつけたものである。天皇の「戦争せずに交渉せよ」、とのお言葉に真剣に戦争回避の方策を検討していた東条内閣も首相以下政府・軍部首脳は、万事休すと天を仰いだのである。後の東京裁判でインドのパール判事をして「このような過酷な要求を突きつけられたならば、地中海の小国モナコと言えども銃を執って立ち上がるであろう。」言わしめるほど傍若無人な過酷なものであった。

・大東亜戦争(太平洋戦争)

1941年(S16年)12月8日、真珠湾攻撃で、今次の戦争の火蓋は切って落とされた。そして1941年(S16年)12月12日、大東亜戦争との呼称が閣議決定され、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表され、この戦争は、アジア諸国に於ける欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した。この方針は1943年(S18年)の大東亜会議で「再確認」されている。

このため大東亜共栄圏とは、アジアを欧米列強の植民地支配から開放し独立させて、現在の欧州連合のような政治・経済を中心とした対等な国家連合を実現させて、その中で日本も資源を確保しアジア諸国の発展に寄与し、共存共栄の経済圏を建設しようとしたもの理解できる。

このことは、1943年(S18年)11月5、6日に東京で開催された、史上初めての有色人種のみが一堂に会した首脳会議・大東亜会議で採択された「大東亜共同宣言」をみればよく分かる。

大東亜共同宣言(概略

よくよく世界各国が各々そのところを得、相より相助けて、万邦共栄の楽を皆にするは世界平和確立の根本要義なり。然るに米英は自国の繁栄の為には他国家、他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては、あくなき侵略搾取を行い、大東亜隷属化の野望たくましゅうし、遂には大東亜の安定を根柢より覆さんとせり。大東亜戦争の原因ここに存す。大東亜各国は、相提携して大東亜を完遂し、大東亜を米英の桎梏より開放して、其の自存自衛を全うし、左の綱領に基づき大東亜を建設し、以って世界の確立に寄与せんことを期す。

1.共存共栄2.自主独立3.伝統尊重・民族繁栄4.互恵提携・経済発展5.人種差別撤廃・文化交流・資源開放 』

なお大東亜会議への主席国は、日本、南京政府、満州国、フィリピン、ビルマ、タイ、インドなどの諸国であり、マレー、インドネシア、仏領インドシナは出席できなかった。
(続く)
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靖国神社に参拝しよう(2)

2008-09-12 01:51:30 | Weblog

2.大東亜共栄圏と大東亜戦争について

・西欧列強による東亜の植民地化

アヘン戦争は1840年11月から始まり1842年8月29日に集結したが、当時のイギリスはインドで取れるアヘンを大量に清国へ密輸出することによって、その貿易赤字を補っていたが、アヘンの弊害に危機感を募らせた清国政府はアヘンの輸入を禁止した。そのためイギリスは東洋艦隊を派遣しアヘンのイギリスからの輸出を認めさせようと戦端を開いた。この戦いは清国の完敗に終わり、多額の賠償金と香港の割譲、多数の港の開港や治外法権を認めさせられたり関税自主権の放棄など全くの不平等条約を結ばされた。これに伴いアメリカ、フランスなどの列強も次々と清国と不平等条約を結ぶこととなる。この事件はいち早く幕末の日本にも伝えられ、幕政改革、明治維新への近代化の大きなきっかけとなってゆく。

事ほど左様に東亜(東アジアや東南アジア)の国々は、西欧列強の植民地と化していった。そのため明治の日本国の危機意識は極限までに高まり、清国の改革と朝鮮の独立を第一優先事項として外交、安全保障の施策をとり、アジアで唯一の植民地にならずに近代化を果たすことが出来た。しかし日本の位置するアジアの他の諸国はイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの西欧列強の植民地として、思うように搾取されていた。

・植民地からの開放(大東亜共栄圏)

そのため欧米諸国(特に英米)の植民地支配から東亜の諸国を開放し、東アジア、東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようと考えた。これがいわゆる「大東亜共栄圏」構想である。

この考えは、1938年(S13年)11月3日、第1次近衛内閣が発表した日本、満州、支那3カ国についての「東亜新秩序*」構想に端を発しているが、1940年(S15年)7月に近衛内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話で共栄圏と言う言葉が使われ、一般化した。

*日・満・支三国相携(あいたずさ)え、政治・経済・文化等各般に渡り互助連環の関係を樹立するをもって根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以(ゆえん)なり。

・対日経済制裁

しかし是より前、1937年(S12年)7月7日、国民党軍に潜んでいた共産党員が演習中の日本軍に放った数発の銃声により盧溝橋事件が勃発していた。日本は支那事変を戦っていた。中国の権益確保に関心があったアメリカは、国民党政権に物資を供給する傍ら、日本に対して対日経済制裁を発動し、輸出を制限してきた。そのため日本は航空機燃料や鉄などの基幹物資の確保が出来なくなり、苦境のどん底に落とされてしまった。そして支那事変を早期に終わらせるため、1940年9月、英米からの中国国民党政権への物資補給ルートを絶つために、日本は仏領インドシナ北部へ進駐し、それに伴いアメリカは更に日本への鉄鋼などの輸出を禁止した。そのため1941年7月に日本は更に資源確保を目的に仏領インドシナ南部に基地を設置するために進駐する。是を契機にアメリカは日本への石油輸出の全面禁止を実施した。このとき日本は石油の8割をアメリカから輸入していたので、その影響は深刻であった。日本は経済制裁の解除を求めてアメリカと交渉を続けていたが、アメリカは日本の足元を見て一顧だに考慮を払わずに、ABCD包囲網*を構築して貿易を制限し、日本を戦争へと追い込んでいった。この間の事情はアメリカ国務長官コーデル・ハルが日本に発した最後通牒「ハルノート*」をみれば明らかである。

* A:America、B:Britain、C:China(中華民国)、D:Dutch(オランダ)
(続く)
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靖国神社に参拝しよう(1)

2008-09-10 10:50:23 | Weblog

1.神道指令とは?

江戸時代末期、諸外国の開国要請の圧力を受けた江戸幕府は、その鎖国政策を改めざるを得なくなり、日本国内は混乱を深めたいった。

この幕末時代は、日本の混乱を危惧する薩摩などの雄藩と京都における天皇を中心とする朝廷と幕府の存続を図る江戸徳川の3勢力が、夫々しのぎを削り維新への道を、ひた走りだした。この動きが尊皇攘夷運動となり、もはや幕府では日本の建て直しは不可能との大勢となり、倒幕運動へと進んでゆく。幕府と朝廷の二つの体制では、近代国家への脱皮は不可能であった。幕末の日本は、天皇を中心とする強力な立憲君主国家を目指して、近代国家としての新しい日本を築いてゆくことになり、古来より神格性を有していた天皇をその頂点に拝し奉る(大政奉還、王政復古)事により明治維新がなり、日本の近代国家としてのスタートを切ったのである。

そして、古事記・日本書紀などにも表現されているような連綿と日本を統治する天皇*と、国民との間に伝統的な絆があることを考慮し、明治政府は神社制度を整備し「神道」を国民統合の支柱としていった。これを「国家神道」と言い、「教派(宗教)神道」と区別した。そして大日本帝国憲法の下での信教の自由の建前上、国家神道は宗教ではなく一種の道徳的なものとの位置づけをして、神(天皇)を敬うこと(敬神)は国民の義務とした。

* 西暦478年の倭王武(雄略天皇)の南宋への上表文
(http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku246.htmによる。)

昔より、祖禰(そでい)自ら甲冑をはき、山川を跋渉し寧処(ねいしょ)に暇あらず。東は毛人を征すること55カ国、西は衆夷を服すること66カ国、渡って海北を平らげること95カ国。王道は融泰であり、土を開き、機をはるかにする。

やがて天皇を「現人神」、日本を「神国」として、天皇の威を借りた軍部による米英を懲らしめよ論が噴出し、大東亜戦争への道を歩むこととなる。1945年8月15日、大東亜戦争の敗戦を迎え、GHQ連合国軍最高司令官総司令部*により、国家神道を廃止し国家から神道を分離し軍国主義を排除し、政教分離を果たし信教の自由を確立するための通達が発せられた。この通達によって「大東亜戦争」「八紘一宇」などの言葉の使用も禁止された。

これが1945年(S20年)12月15日に発せられた覚書「神道指令」(国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件)である。

*GHQとは(Wikipediaによると)、”General Headquarters/Supreme Commander for the Allied Powers”、直訳すると「総司令部/連合国軍最高司令官」となり、連合国(軍)総司令部などと略称する。GHQは、軍事部門(参謀部)と専門部局(幕僚部)からなり、この神道指令は幕僚部の民間情報教育局(CIE)が大きく関与している。

幕僚部の組織

1.民生局(GS:Govermment Section 政治行政)
2.経済科学局(ESS:Economic & Scientific Section 財閥解体など)
3.民間情報教育局(CIE:Civil Information & Educational Section教育改革など)
4.天然資源局(NRS:Natural Resources Section農地改革など)

参謀部の組織

1.第1部(G1人事担当)
2.第2部(G2情報担当、諜報・保安・検閲を任務とし大きな発言権を持っていた。)
3.第3部(G3作戦担当)
4.第4部(G4広報担当)
(続く)
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映画「靖国」に物申す(11)

2008-09-04 09:50:32 | Weblog

(6) 刀匠刈谷直治さんは、李・インの質問にも全くぶれないさすが日本刀の刀匠だ。

いろいろ誘導質問をする李・インに対して、刈谷さんもひとつだけ質問する。

「小泉さんが靖国神社にお詣(まい)りすることをあなたはどう思いますか」と。

李・インはこれには答えられない。答えれば、この映画が反日映画だと言うことを暴露することになるから。そのかわり、「刈谷さんはどう思うか」と反問する。すると刈谷さんはここでもぶれない。

「韓国や中国の人達は起こるかもしれないけれど、私は小泉さんといっしょのようなものだから、靖国神社は国のために亡くなった人の霊を慰めるためにあって、将来戦争が起こらないようにと……」

坪内祐三氏は次のように結んでいる。

「これまで述べたように、李監督はこの映画で様々な情報やイメージの操作を行っている。

そういう操作がありながら、刈谷さんの表情の一つ一つは、その操作を越えて、靖国の真実を描き出して行く。

その美しい姿をより多くの人たちに見てもらうためにも、『靖国』は、絶対に上映中止にするべきでない。」と。

私はここで一言付け加えたい。将来戦争が起こらないように祈るのは当然であるが、将来戦争が起こらないようにするには、祈りだけではダメである。ロシアのグルジア侵攻でも分かるように、日本もいつどこから攻められるか分からない。福田康夫の「人に嫌がることはしない」なんぞといっているようでは独立は維持できない。

憲法9条の破棄と日本も核武装を進めることが必須である。アメリカに変心を見てみよ。日米同盟がありながら、しかも北朝鮮をテロ支援国家に指定する理由のひとつとして、日本人拉致問題を挙げている。それにも拘らず、北朝鮮が核計画の申告書を6カ国協議の議長国の中国に提出すれば、それだけで、北朝鮮へのテロ支援国家指定の解除と、対敵国通商法の適用除外を通告すると、あの黒人女性のライス国務長官が6月18日にワシントンでの講演で述べている。ライスはもちろんのことアメリカは信用できない日本は自分の力で自分を守る必要がある

(終わり)
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映画「靖国」に物申す(10)

2008-09-02 23:05:46 | Weblog

(4) 映画「靖国」に使われている映像は、殆どがある写真集からの転用だった。
しかもその旨断ってはいない。これって盗用?

この映画の中で、李・インは刀匠の刈谷直治さんに、執拗に一冊の本を示している映像が頻繁に映し出されていた。どうも日本刀による武勇伝を、刈谷さんに読ませて、日本軍の蛮行を証明させたいように見え、はなはだ嫌味に感じた。それには靖国神社と靖国刀に象徴される日本刀を、日本軍国主義の象徴に祭り上げようとの李・インの企みが見え見えなのだ。

内村祐三氏の調査によると、この本は『靖国刀』と言う写真集だという(トム岸田著、雄山閣出版・平成10年)。この映画にはこの写真集の写真が刈谷さんの作業場の風景の合間合間に映し出されている。この写真の転用もなんら説明されていない。

トム岸田氏は、フォトジャーナリスト(写真報道家)である。彼が、李・インを刀匠の刈谷さんに紹介した人物であるが、彼・トム岸田氏も、李・インに騙(だま)されたと言って上映中止を申し入れている

ある時、映画監督の李・インの助監督をしている「中村」と言う人物がトム岸田氏を訪ねて、伝統工芸品である日本刀(靖国刀)のドキュメンタリーを撮りたいから刀匠を紹介してくれと、頼んだことからこの話は始っている。

ドキュメンタリーとは実際のものを有りの侭に記録すると言うことであるが、しかしトム岸田氏も、この映画は記録するどころか、靖国を軍国主義の中心に据えて日本を貶(おとし)めようとして、世界にプロパガンダしている「政治的な宣伝映画」であるとして、上映中止を申し入れているのである。だから8月15日の靖国の映像しか映(うつ)していないのであろう。

(5) 毎年、靖国刀が靖国神社に奉納されていると錯覚させるストーリーになっている。

日本は明治維新後の明治9年3月に廃刀令を布告している。そのため写真集『靖国刀』には刀剣ジャーナリストの土子民夫氏の次のような文が掲載されていると言う。

「旧幕時代には恐らく数百を数えた刀匠も廃藩と廃刀で一挙に零落し、研(とぎ)師も鞘(さや)師・柄巻(えまき)師・塗(ぬり)師も、金工の諸職も、日本刀に関する限りことごとく失職の憂き目を見たのである。」

そして昭和の戦争にいたっては軍刀としての需要が増え、大量の日本刀が消失していった。やがて粗製刀が出回り始め、良質の軍刀の整備が叫ばれることとなる。

そのような折に、陸軍の全面的な協力の下に、昭和8年から昭和20年の終戦まで、日本刀鍛錬会が靖国神社内に設立され、日本刀が靖国神社内で作られることとなった。それを靖国刀と呼んだのである。日本刀の歴史は長く平安時代の後半と言われているが、靖国刀はわずか12年の歴史である。鍛錬と言っているのは、木炭などの低い温度の燃料では鉄は完全には溶けないため、諸々の工夫をして蹈鞴(たたら)と言うもので溶かし込んで炭素の多い鋼鉄の元をつくり、それを熱して鍛えてゆき(叩いてゆく)炭素を火花として放出させて、更に諸々の事をして刃の部分を鍛え、「焼き」を入れて硬くし、研(と)いで切れるようにすると言う。この時の「焼き」の水加減などが、一種の秘伝となっていたと言う。

そのため日本刀には、木炭しかなかった日本の刀鍛冶たちの創意と工夫が昇華しているのである。現在で言う先端技術の結晶なのである。それゆえ日本刀の技術が廃れることを恐れ、それが日本刀鍛錬会設立となったのである。しかし終戦と同時にこの鍛錬技術も廃れてしまう。しかしサンフランシスコ平和条約を機(1951年9月)に、日本刀の製作も許され刀匠刈谷直治さんは1952年(S27年)に戦後第一作を製作している。そして1982年(S57年)7月に靖国刀を作っていた仲間18人が集まり1983年(S58年)7月8日の日本刀鍛錬会創立50周年に当たる日に合わせて新たな靖国刀を合作することとなった。そのときに奉納した靖国刀への感謝状が、刀匠たちに送られている。これが映画「靖国」に出てくる感謝状なのである。

決して毎年靖国刀が作られ、靖国神社に奉納されているのではない。
(続く)
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映画「靖国」煮物申す(9)

2008-09-01 23:10:30 | Weblog

7、映画「靖国」が隠していること(誰も指摘しない重大な事実誤認がある)

これは文芸春秋・六月号に載った評論家坪内祐三氏の論文の題名である。さすが坪内氏である。

ここでは「…間違えとかデタラメといったレベルを超えたかなりの悪質な捏造、イメージ操作である。」と言っている。前項で述べた以上に鋭くこの映画を批評している。この項ではその内容を紹介しよう。体系的にこの映画の悪質振りが理解できるであろう。

(1) 靖国神社が「靖国刀」を今でも作っていると言う誤解を、敢えて与える設定である。

刈谷直治さんと言う90歳の現役刀匠の仕事場が頻繁に映し出されるが、そこで作られる日本刀が靖国刀として奉納されていると言う設定で、靖国神社内で製作されているという錯覚を強く植えつけようとしている。刈谷さんの仕事場は遠く離れた四国の高知県にある。このことには一言も触れていない。

(2) そして、246万6千余柱の軍人の魂が移された一振りの靖国刀が、靖国神社のご神体である、と強調している。

そして日本刀のシルエットが映り、その上にYASUKUNIと英文の文字が載る。明らかに海外への宣伝も考慮した設定であり、その前に意図的に旧日本軍の「向井敏明少尉」と「野田毅少尉」の並んだ旧毎日新聞の百人切りの物語の写真を見せており、靖国神社、靖国刀とご神体、百人切りと軍国主義との関連付けを巧妙に行っている。

靖国神社に祭られているご神体(御霊体)は、もちろん、刀ではなく剣である。「靖国神社誌」によれば、「御霊体は神剣及神鏡に増しまして、神剣は明治二年六月栗原筑前の鍛造し奉る所」とある。

あの田原総一朗までもが、靖国のご神体が刀と言っていると言う。こいつも馬鹿でないかい?

(3) この映画では、8月15日の靖国神社しか映し出していない。なぜか?!

8月15日は日本にとっても、靖国神社にとってもまことに特殊な日である。しかし靖国神社や日本にとっては、8月15日だけがすべてではない。8月15日はほんの一部である。8月15日には、軍服姿でお参りする人たちがたくさん集まる。もちろんそれ以外の人達のほうが多いのだが、この李・インはそれだけを象徴的に、しかも沢山はめ込んでいる。あたかも日本にはいまだに軍服姿の軍国主義者まがいの人達がうようよしているような錯覚を引き起こそうとしている。こいつも日本に悪意を持っている一種のテロリストではないかい!

坪内祐三氏は、次のように述べている。

そして靖国神社はそのたびに表情を変える。日本に19年暮らして、日本人以上に深く靖国のことを考えているという李監督はなぜ靖国神社のそのような四季の季節風景を一片もフィルムに収めなかったのだろうか

それは明らかである。8月15日の靖国の表情を、ことさらにこれでもか、これでもかと映し出すことによって、日本にはいまだに軍国主義が蔓延している、と言うことを世界に示そうとしているからである。いわゆるサブリミナル効果を狙った映像があちこちにはめ込まれていた、と小生は認識した。

我々の認識下には、明確に「認識」している領域と、明確には認識していないが無意識に「認識」している潜在意識の領域が存在していると言う。人間の行動は、往々にしてこの潜在意識に支配されていることが多いとも言われている。

どうもこれを狙って、全世界に日本は軍国主義がいまだに蔓延していると言うメッセージを、発信していると思われる。李・インは一種のテロリストではないか、日本政府は、彼を野放しして良いと思っているのか。映画やTVでは、このサブリミナル効果を狙った映像は禁止されている。
(続く)
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