世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

靖国神社に参拝しよう(7)

2008-09-18 18:08:52 | Weblog

(9)グラバイ・デサイ インド弁護士会会長(インド、法学博士)

(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召喚された藤原岩市F機関長★に対する挨拶、デサイ博士は藤原岩市参謀の主席弁護人を務めた。)

このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。現に優秀な貴国国民においておやである。果たしは日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄することを確信する。インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。

F機関とは、

マレー半島に暮らすインド系住民の協力を得るべく、昭和16年末にわずか11名で活動を開始した特務機関である。その趣旨は「力や威容で敵や住民を屈服させるものではなく、徳義と誠心を唯一の武器として、敵に住民に望むのである」として、F機関メンバーはほぼ一貫して丸腰で活動を続けた。Fとは藤原のFであると同時に、Freedom、FriendshipのFを意味した。F機関は、インド独立を目指す「インド独立連盟 IIL」と連携し、日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人を平等に取り扱いインド兵たちの共感を呼び、日本軍に投降するインド兵があとを絶たなかったという。そしてその中からモハーン・シン大尉からの申し出により「インド国民軍 INA」が産声を上げることになる。
そして1942年(S17年)2月15日、シンガポールは陥落し5万人のインド兵が捕虜となる。藤原機関長はその5万人を前に演説をする。

そもそも民族の光輝ある自由と独立とは、その民族自らが決起して、自らの力を以て戦いとられたものでなければならない。日本軍はインド兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の戦いのために忠誠を誓い、INAに参加を希望するものにおいては、日本軍捕虜としての扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また全面的支援を与えんとするものである

これを聞いた全インド兵は総立ちになって歓呼したと言う。その後インド独立の英雄チャンドラ・ボースがINA全軍の指揮を執ることになる。

藤原はその後インパール作戦を戦うことになる。この無謀な戦いと言われたインパール作戦は、日本軍がインド開放に尽力すると言うINAとの約束を果たすためでもあったのである。インパールでマラリアに冒された藤原は病床で祖国の敗戦の報を聞く。そして英国軍によるINAに対する軍事法廷に、藤原は呼び出されていた。その時、デサイ博士が藤原に伝えた言葉が、上記のものである。

その後インド人による強固な抵抗運動の結果、英国植民地政府はINA全将校の釈放を決め、インドは悲願の独立を果たすのである。1947年8月15日である。

この注書きはhttp://dogma.at.webry.info/200612/article_7.htmlや
http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/2006/03/post_a02f.htmlなどを引用している。

(10)ジャワハルラル・ネルー 独立インド初代首相
 (貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253~254頁)

チャンドラ・ボーズが指揮を執り日本軍と協力したインド国民軍INAの裁判で、弁護士として法廷に立ち、「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった。・・・彼等の日本との協力は、インド開放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。

(11)アリフィン・ベイ・インドネシア・ナショナル大学日本研究センター所長
(政治学博士、「魂を失った日本」未央社、57~65頁)

日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進と言う形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは他ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が大二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響が挙げられる。(中略)(日本は)目標達成の為にどれほど必死にやらなければならないかと言うことを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。

(続く)
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