あられの日記

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波除稲荷神社

2016年10月17日 05時37分30秒 | 神社・仏閣
以前がら訪れてみたかった波除稲荷神社さんへ。
海軍省の敷地となった幕府の海軍施設、軍艦操練所跡からほんの200メートル位の位置にありました。
以前何かのテレビ番組で波除稲荷神社さんの境内にある玉子塚の映像を見た事があって、依頼機会があればぜひよって見たい神社さんでした。今回【ぶらり、秋山真之ゆかりの海軍施設めぐり】の途中で寄り道です。散歩のテーマから外れるので、カテゴリーは【神社・仏閣】としました。

波除稲荷神社さんは、今話題の築地市場のすぐそばに位置している為か、訪問した時も外国人の姿がありました。
あ。説明板発見。
波除稲荷神社:波除稲荷神社の創建は、万治年間(1658−1662)と伝えられています。
築地一帯の埋め立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり。埋め立て工事が無事完了したと言われています。「波除け」という尊称はこの故事に由来sるもので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除などの神として人々に篤く信仰されてきました。」
う〜む。神社仏閣巡りをしていると、《浜辺に打ち上げられた仏像》やら《漁師の網にかかった観音像》とかにあちこちで出会うんだけども…。江戸初期とかそれ以前ならこの辺りはせいぜい寂れた漁村だったハズ。なんであちこちでお稲荷さんや仏像が川やら海やらに浮いているのか?…え〜と?後付けエピソード?それとも神社やお寺さんの檀家さん獲得の為のやらせ???何だか安っすい日本昔話がいくつも書けそうな感じですね。
ってか、波除稲荷神社さんがある場所が、陸地になったのが万治年間という事は、徳川家綱の治世(在職:1651−1680)です。江戸時代が埋め立てで土地を増やしてったという事は知ってましたが、早い段階でこの辺りまで埋め立てられた事に感動しました。
説明板に戻ります。
「波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には多くの獅子頭が町をねり歩きました。獅子頭の多くは震災・戦災などで失われましたが、現存する嘉永元年(1848)製作の獅子頭一対(中央区民文化財)は社宝として本殿に安置されています。なお、現在でも毎年6月の「つきじ獅子祭」では、「厄除天井大獅子」や「弁財天お歯黒獅子」が巡幸れることがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。」
あ?その獅子頭ってこれかな?



波除稲荷神社さんは境内の小さな神社さんですが、入ってすぐ両側にド〜ン!と大きな獅子頭の入った社殿があります。(波除稲荷神社さんのホームページを確認したら、違ってた。黒い大獅子は平成2年に神社鎮座330年を記念して江戸末期に焼失した厄除天井大獅子」を再興し、獅子殿に納められたんだって。
同じく赤い大獅子は、江戸時代に江戸の名物だった「お歯黒獅子」を、平成14年に再興して、獅子の頭の宝珠の中に弁財天のご神像が納めてあるのだとか。ちなみに、嘉永に製作された獅子頭一対は、本殿の裏手に納められてるのだとか)

帰宅後、神社さんのホームページを閲覧して、本社殿の正面から見えたとか。上の画像が本社殿ですが、お詣りしましたが、気付きませんでした。残念です。
説明板に戻ります。
『江戸時代、現在の築地市場の南半分には尾張徳川家の蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品が運び込まれていました。』
そうか!築地市場がある場所は、江戸時代は尾張徳川家だったのね。
その後、明治になって海軍の一大施設のあれこれになり。
1923年(大正12年)9月の関東大震災で壊滅した日本橋魚河岸なんかの市場群が、水運に都合のよい築地の海軍省所有地の一部を借り受けて臨時の魚市場を開設したのが現在の築地市場の始まりな訳ですね。

つまりですね。日本が世界に誇ってる築地市場で、そもそも臨時の魚市場スタートな訳で。やっつけ仕事の超特急で建物を建てて関東大震災の復興&東京市民の食糧供給を一刻も早く再開させる目的だった訳ですよ。
…築地市場、移転しても問題ないんじゃないかな?ってか、そもそもやっつけだった訳で、耐震とか考えて建てたものじゃないならば、いつ大きな地震が来ても不思議じゃないんだから、早いとこ移転すればいいんじゃないかな〜?
というのがおそらく東京都民の見方だと思うんだけどさ。だからといって、高度成長期の公害汚染の土地に建った建物に移転するというのはどうなんだ?というのが『今ここ』状態らしい。
8月に豊洲からゆりかもめに乗車して東京ビッグサイトへ向いました。その時、モノレールの車窓から、「新市場11月5日開場」の横断幕が建物に掲げられてました。もうね。長い間雨ざらしの土地だったから、ようやく上ものが出来て始動するんだ!と感動したものですが…。わたしの感動を返せ!いつまでもめてんだ!犯人探しをいつまでもやってる場合じゃない!
ならもうさっさと出来てる建物をどうするのか?もう一度壊わして土地改良してから再建設するのか?決めてから東京オリンピックに全力を注ぐべきだと思います。
何つーの?あんなに大騒ぎして設計からやり直しになった国立競技場ですが、新しい競技場に聖火台の設置がない!って聞いて呆れましたよ。わたしは。
たぶん、責任者がいないんでしょうね。具体的に書くと、東京オリンピック実行委員長とか、築地市場実行委員長っていう職がないんじゃなかろうか?何つーの?口だけ達者な人が多過ぎる。明治に出来たあれこれ巡りをしていると、施工規模と工事期間を見て何度驚愕した事やら。
そういや、江戸初期の大工事も似た様なもので、出来ないと藩のお取り潰し!殿の領地替え!!それは避けねばならん!とそれこそ命懸けの工事があちこちに残ってるんだよね。
もうね。見習え!と!東京都の職員には言いたいわ。同じ日本国民として情けないのなんのって…。日本人は謙虚で真面目に仕事する国民性じゃなかったのか?
歴史巡りをしていてすっかり熱くなってしまいましたが、本日の記事は波除稲荷神社さんです。境内でみかけたあれこれを紹介します。

ますこれ!今、あなたの脳裏に何が浮かびましたか?「牛丼の吉野家」ですよね?正解!
敷地の一画にずらりと塚が並んでまして。トップ画像の玉子塚は平成5年11月に、東京鶏卵加工組合が、創立30周年を記念して建立したもの。

すし塚と海老塚です。
左のすし塚は、昭和47年11月1日に東京都鮨商環境衛生同業組合により建立。
右の海老塚は、昭和48年9月に東天会てんぷら料理協同組合と(株)海老の大丸により建立。

あんこう塚と活魚塚です。
左のあんこう塚は、昭和48年7月に魚河岸の仲買の尾邦・三浦啓雄氏により建立。
右の活魚塚は、昭和59年5月に、魚河岸で活魚を扱う仲買の団体、東京築地市場活物組合により建立。
ほかにもはまぐり塚とかあれこれの団体がそれぞれの塚を建ててます。
歴史好きとしては、尾張の廻船業者・餅つき業者・尾張屋弥八が世話人となり、尾張徳川家に絵入りした蔵の荷物の搬出業者達が経費を出し合って、天保9年(1838)に奉納した鉄製の天水鉢を撮影し損ねたのが残念です。きったない湯船みたいだったんだもの〜。
さてと?この辺りにあったハズのかちどきの渡しってどこじゃろか??

今ではちょっと見ただけじゃ分からん。事情通に運良く行きあわないと無理!
あ・地図発見。

分からんわ〜。だって今は陸地なんだもの。しかも築地市場の関連の建物があるんだもの。
かちどきの渡しを見つけるのは諦めた!
次は…日本の近代海軍発祥の地、旗山の石碑ですが…。どこにあるの〜〜??ええ、またですわ。なんかさ〜、案内人が欲しいですっ。

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