あられの日記

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旧島崎藤村邸

2015年03月02日 00時08分17秒 | レトロ建築
旧東海道。大磯中学校そばの歩道橋から徒歩5分。午後13時23分、旧島崎藤村邸到着です。

こことっても雰囲気がいいです。なんか、玄関戸をくぐると小津安二郎の映画の中にタイムスリップした気になる。

上の画像の小部屋で、係員さんが見学者にはパンフレットを一部づつ手渡しして下さるのですが、この部屋は島崎藤村ありし日には、先生が書斎として使用していた部屋です、
「この書斎を離れる時は、自分がこの世を離れる時だ」と先生が言う程お気に入りだったようです。画像では分かりにくいけど、画像は屋外から撮影してまして、文机に向って原稿を執筆してると、割竹垣と手前に小庭を眺めつつ、思索しつつ、筆を進める。そんな先生の姿が見えそうですよ?たまに尋ねてくる気のおけない友人等と縁側で会話や囲碁や詩作を楽しんだんだろうか?す・素敵だ~~~っ

潜り戸を抜けて玄関へ向う。こういう飛び石の通路、昔はどこのお宅にもあったよなあ…。

廊下の小窓。窓の向こうに和室が見える。かつては先生の寝室かな?それとも…。さっきまで気分ブラタモリで妄想全開だったせいか、ワクワクが暴走気味です。ちっとは落ち着け!自分!!
小窓の先に玄関があります。ンでも施錠されてて中へ入れません。中も見えません。
そうなの!島崎藤村邸は見学可能かつ見学料無料という素敵な【レトロ建築】物件なのですが、奥内に上がっての見学は出来ません…。
未練がましく建物の裏に周ると?

素敵な日本家屋の外壁でした。こうね。木で出来てる建物感があっていいでしょ?窓枠さえ木製なんだぜ~。アルミサッシじゃないんだぜ~。木扉も蝶番を除くと全部木製なんだぜエ~~~!!
気になったので、帰宅後アルミサッシの歴史について調べてみた!
アルミサッシが始めて使われたのは昭和7年近三ビル。戦後復興期、昭和27年の東京都八重洲の日本総合銀行(現さくら銀行)からオフィスビルで私が思い浮かべるのと同じアルミサッシが採用される。一般住宅で使われ始めたのは昭和39-40年。高度経済成長期に一気に普及した。ちなみに、アルミサッシの前にスチールサッシ時代もあったりした。
へえ~へえ~へえ~~!!
ちなみに、かつては画像奥の窓の向こうは浴室でした!更に台所の出入口ですね。
では、庭にまわってみましょう。

どうだんつつじにクチナシ。先生は白い花が好きだったとか。白い椿が一番好きだったといただいたパンフレットに書かれてました。

広縁に腰掛けるダンナです。このお宅の広縁は奥行きなあってとっても素敵
90度広縁に沿って回り込んでみると?

天井の構造が分かり易い。つーか、この幅は広縁なんだ!うわ~~。夏、浴衣で団扇持って座ってみたい…。妄想が止まってませんね。

柴垣の奥へは行けません。画像奥に、便所がありました。
ここで注目なのは、今では希少な大正ガラスのはめ込まれた窓ガラスです。この手の窓ガラスも最近見なくなりました。
ちなみに、上の画像中央を上下に見えてるのは、これ、雨戸をしまってあるのです。
そういえば、ちょっと前までの田舎の住宅は、和室の周りに廊下が巡ってて、廊下の外はガラス。そして雨戸というデザインは一般的な住宅でした。雨戸の出し入れが面倒くさいし時間がかかるんだよな。今はあんまり見なくなった。やっぱでっかいガラス窓は防犯的にアカンかったか?
うちの近所で最近建ててる住宅の外壁部につけてる窓は、人が通れない大きさのちっさい窓で、しかも窓には檻みたいな鉄棒か鉄格子がついてるんだよね。あれ、防犯の為に明り取りとか空気の通り抜けとかを捨てた作りなのか?しかも日本の湿気る夏には最悪の作りじゃないのか??と。
ンでも藤村邸は、蚊とは蠅には無防備だな。蚊遣りで対応してたのかな~??などと、またまた妄想が止まりません。

広縁越しに8畳の居間。廊下があって、奥の障子の向こうが6畳の和室。引き襖の奥の明るい所が玄関です。
島崎藤村邸の道路に面して説明板があります。
島崎藤村邸
藤村(1872-1943)は、明治5年(1872)2月17日、信州木曽の馬籠村(現在の岐阜県中津川市)の本陣の家に生まれる。
代表作に『破戒』など。
昭和16年(1941)1月14日、大磯のドンドン焼きを見に来て珍しい郷土行事であるのを喜び、これを『左義長』と名付けた。
これを機に大磯での生活を決め、2月25日に敷地124坪に建つ24坪の長屋を借り、翌年の8月には当時のサラリーマンの30年文の給料に相当する1万円でこの家を買い取り、終の住処としました。(中古の長屋がサラリーマンの30年分の給料ってボラれたんじゃ…?)
藤村は、この書斎で「東方の門」を執筆します。しかし昭和18年(1943)8月21日、静子夫人が「東方の門」の原稿の朗読中藤村は頭痛を訴え倒れる。8月22日午前0時35分、「涼しい風だね」という言葉を残し永眠。
本人の生前の希望により、大磯の地福寺に葬られている。

さて。と?散策に戻ろうとして、公開されてる島崎藤村邸の敷地を囲む割竹垣が、更に東側に続いてるのに気付く。
ん~~??
もしかして、こっちもかつては藤村邸だったのかな?
上の画像奥、公開されている藤村邸とテイストも時代もよく似た日本和邸です。
パンフレットによりますと「藤村邸大正後期から昭和初期にかけて建築され、周辺には同じ様な貸別荘が数軒あり、一帯は『町屋園』と称されました」とあります。
藤村の所有だったかどうか?はともかく、建築時期は同じかもね?
パンフレットによりますと…。藤村死去後、戦火が厳しくなり静子夫人が箱根に疎開。昭和24年より作家の高村保が住み始め、昭和27年に彼がこの家で亡くなり、その後静子夫人が昭和48年まで暮らしていたそうです。

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