あられの日記

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海老名市立郷土資料館

2019年02月05日 21時07分23秒 | 展覧会&観光施設&能楽
相模国分寺跡に隣接するレトロ建物は海老名市立郷土資料館だった。入場無料だったので寄ってみた。すると、職員さんがついて展示物の説明をしてくれるスタイルだった。最初は若いお姉さんが説明してくれてたのだけれど、途中からベテランのおじさんにバトンタッチした。これがとっても面白かったのだ。なんと!1時間も聴き続けてしまいました〜。

何はともあれ、資料館前にある相模国分寺跡地の再現フィギュアから入る。
ってか、基本の基本。全国あちこちにある、もしくは地名になってる国分寺ってご存知ですよね?念のため説明しておきますね。
「国分寺・国分尼寺は奈良時代に聖武天皇が国ごとに立てされた寺院です。当時、日照り・地震などの天災や飢饉、伝染病、貴族の反乱などに苦しむことが多かったので、仏教の力で国家がやすらかに納まるようにと、天平13(741)年、聖武天皇が詔を出して国分寺を建てさせました。国分寺は僧寺、国分尼寺はあまでらで、それぞれの正式名称は国分寺は「金光明四天王護国之寺」国分尼寺は「法華滅罪之寺」といい、大和国(奈良県)の東大寺と法華寺が総国分寺・総国分尼寺とされました。国分寺の僧(お坊さん)は20名、国分尼寺のあまは10名と決められてました。国分寺は68か国に建てられてました。(以上、いただいたチラシより)
そうなのです。資料をいただいてしまいました。

資料紹介で画像をベランダで撮影してたのですが、強風で仕方なく足でチラシを抑えました。
さて、再現フギュアを見ながらふと疑問を抱いたので聞いてみた。
「どの建物にもたっぷり瓦が乗ってますが、本当にこんなにたくさんの瓦を使ってたのですか?」
すると「本当に瓦を使ってたんですよ。発掘したらいっぱい出てきましたから!」と。それでも疑り深い私は質問を重ねる。
「瓦って重いですよね?この近くで作ってたのですか?」と尋ねたところ。
「実は10年ほど前にようやく確定できたんですっ!」と答え、嬉しそうに地図を見せてくれた。
「ここ、逗子から葉山の辺りに窯があるのは分かってたんですが、相模国分寺の軒丸瓦と同じものが発掘されて確定出来ました」と。
「え!?葉山って?逗子って??ど〜やって海老名まで運んだの?あ!相模川!船ですか?」と答えながら気づく私。でもその答えは十分じゃなかった。
「途中までは正解ですが、途中から目久尻川を使いまして」
「え?でも相模国分寺跡から目久尻川って小高い山を挟みますよね??」
「途中から切り通しを作ったんです。数メートル掘って、幅は3メートル」
「凄いっ!それ運河?水路ですか。でも川下から遡って〜〜!あ!分かった!両岸で人力で引っ張ったんだ。そうでしょう?」
「そうです。で、その頃の船着場がこの辺にありました。昔ある大学の先生が、出来たばかりの相模女子大学の生徒と一緒に見つけたんです」
「凄いですねっ。で、今残ってますか?」
「切り通しは少し残ってる場所もあります。今から見にいかれますか?」
「無理!今、南の本郷の有馬のハルニレから歩いてきたから今日は無理です〜」と。
わくわくと目を輝かしてると、私が歴史好きだと伝わったようで、次に見せてくれたのが古い直刀と赤い勾玉のついた玉の首飾りでした。
「これはわずか3年前にここで(とても低い丘の上に数本の木が生えた写真)見つかったものです」
ん?とても遺跡に見えないんですけど?
「日曜日、歴史好きの人が見つけ、当日は日曜だったので市役所とか閉まってたから持ち込んでくれて」
「凄いっ!その時に居合わせたんですか?」
「〜〜〜」どうやらベテラン解説員のおじさんは不在だった模様。その日の当番だった人が急いで確認に行き、写真撮影して、見つかった勾玉を確保して。で、この刀は実は鉄製で、鞘は杉で出来てます」
「凄い凄いっ!」
でもなんで今頃突然?
「豪雨で表面の土が流れ現れた」
「保護する石棺とかなかったの?」
「ありません」
「埋葬者は〜〜あ。溶けたか?」
「ええ。この辺りは酸性の土なので、骨はあっても溶けます」
「で?この赤い勾玉はどこ産か、判明したのですか?」
「なんと!出雲です」
「ええっ!?本当に?どうやって??」
「どうやってかは分かりません」
古墳時代にまさかの海老名まで運ばれたなんて!
実は説明してくださったベテランのおじさんの話で、海老名には秋葉山古墳群が存在し、まさかの円方後円墳なんだと教えてもらう。しかも造成された時期は、邪馬台国の卑弥呼が生きてた時代!それっていつだよ!?と思われた方の為に、3世紀半ばと答えておきましょう。
私、生まれは四国は香川県の西部なんですよ。近所に小さいけど母神山という古墳群がありまして、大学の夏休みの宿題というか提出物のために調べたことがありまして。その時に前方後円墳って西日本に多いと。ってかぶっちゃけ何で海老名にあるんじゃ!?と魂消ました。
最近ウォーキングで渋沢駅近くとか、小田原のフラワーセンター見に行ったらすぐ近くに久野古墳群があったり、田園調布の多摩川台公園でも古墳を見たりで、神奈川にも結構あちこちにも古墳あるんだ!と混乱してたらば。ベテラン解説員のおじさんが、「海老名には縄文土器も弥生土器も出土します」と教えてくださり、更に「相模川段丘の上はあちこちに古墳が点在してるのだ」と自慢。
そっか〜、相模原は縄文時代のが近所の勝坂にあるので見物に行ったけども。弥生はなかったなあ〜。と。
そして、と。歴史好きな私を案内してくださったのが石器コーナーです。「これは香川ではサヌカイトで作る石器です」と。え!?何を言ってるんだ?このおじさんは??と思ったら「海老名ではサヌカイトで作った石器を別の石で作成してます」と言う。
つまりだね。石は違っても、石器を作る技法が香川のサヌカイトの石器と同じということだ。
サヌカイトは石の名前で示すように香川=讃岐の狭い範囲で取れる石です。ぶっちゃけ五色台でしか採れん!となると、古墳時代に四国香川から海を越え、神奈川県海老名まで旅した職人がいたか?もしくはサヌカイトの石器を作った人が作った石器を、陸路か海路で運んだ商人がいたという証明でもある。
凄いわ〜!!昔の日本人も凄いっ!わくわくが止まらないぜ。
ってなことで、気付ば説明を聞き始め1時間が過ぎてました。ヤバいっ!実はわくわくから正気に戻った理由がありまして、右足の大腿部がじんわり痛み始めたんです。うわ〜〜!!まだ私の右足治ってないっ!痛み始める前に対処しろ!と言われ続けてるのに懲りてない私。説明員さんにお礼を言って退散〜〜の前に、資料館2階で開催してる「記念の盃〜ハレの器・ケの器〜展」を見学に寄る。

驚いたのは日清・日露戦争の記念盃です。戦争の絵付けのつけられた盃は見たことなくて見入ってしまいました。
さてと、帰ろう!と坂を降りる。駅に向け歩く。

ビナウォークを突っ切っていこうとして相模国分寺にあった七重塔を1/3サイズで再現したものを眺める。元は推定65メートルの高さだったんだって。そういえば資料館のベテラン解説員のおじさんに「相模国分寺の塔はいつまで建ってたのですか?」と質問したら「実は正確には分かってません。平安後期まではおそらくあったと思ってます」と教えてくれた。そもそも国分寺は奈良時代の天皇の国家事業でできたから、律令政治が崩壊したら続かないよな〜。でも見てみたかったかも?
ビナウォークの海老名中央公園では何かの催しをやってました。

海老名のゆるキャラえび〜にゃが踊ってたし。海老名特産のいちごも色んな商品に加工したり鉢入り苗にして売っていた。まああっちもこっちも店じまいにとりかかってましたが。

時刻は15時ちょうど。う〜ん。私資料館でどんだけいたんだ。我ながら呆れてしまう。

資料館には相模国分寺の再現モデルを展示してあります。記事の構成上どうしても瓦の多い状況を見せたかったので貼り付けましたが、「個人的に撮影はOK です」と許可をいただいたものの、記事に掲載してはイカンのでと画像処理してぼかして瓦が多いのが分かる程度の劣化させようとしました。前に持ってたPhotoshopなら出来たけど、前のMacが壊れた時に中味が全部消えてしまい、今は持ってない!今のMacにある画像処理はせいぜい白黒にして画素数を落として暗くしてと加工を頑張ったけどもこれが限界でした。もしかしたらしばらくしたら再現モデルの画像は記事から削除するかもしれません。

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