あられの日記

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曽我梅林で一番おススメの撮影場所です

2017年02月14日 11時22分24秒 | 梅散歩
昨日に引き続き、2017.2.12の曽我梅林梅散歩を紹介します。
ダンナと無事に合流出来たので、まずは撮影タイムです。総合案内所(梅まつり本部)の東の紅白のしだれ桜を見に行こう!

どや!とダンナを連れてったら「いいね〜。曽我の里史跡と物語巡りでは梅がほとんど見えなかったんだよね〜」だってさ。
それは当たり前なんである。別所梅林は里山の中腹が日当りがいいから先に咲く。梅がたくさんある別所梅林は盆地みたいになってるから、見頃が幾分遅くなるのだ。まあ、早咲きの十郎はどっちにしても今年はほとんど過ぎてしまってるんだが。
何はともあれ、しだれ桜の撮影開始!




時刻は既に11時を周り、別所梅林の観梅客も増えて来ました。梅林は梅干しを採る梅畑なので、観梅客用に駐車場などはなく、農業道路が駐車場になります。梅まつり実行委員会の人があっちでもこっちでも交通整理してますが、そもそもは農業道路です。道の半分を駐車場にして、道路を一方通行に変え車を通しても車の数が多過ぎてそうそう進まない。あっちでもこっちでも車が立ち往生しちゃってるのです。どんなに使い勝手が悪くとも、公共のバスや鉄道の利用をおススメします。

これ、いい感じで撮影出来てますが、私背後では駐車場の空き待ちの自動車が連なってます。歩行者が歩くスペースはどこだ?みたいな状態。
さて、本日の記事のタイトル曽我梅林で一番おススメの撮影場所を紹介します。
県道72号線沿いにあるアイス工房の駐車場です。
上の画像では駐車場にゆとりがあるように見えますが、実は直前まで観光バスが画像奥左手に停まってました。バス観光の客がいる間はさすがに一番おススメの撮影場所は順番待ちの行列が出来てましたが、観光バスはすぐに行ってしまいました。知る人ゾ知るポイントからの画像がこちらです。

今がまさに見頃でしょ?

見頃のピンクのしだれ梅を額縁に見立ててみました。

2012年だったっけ?あの時は3月上旬に訪問したんだったわ。あの時は既に見頃を過ぎてたんだけども目をつけてた撮影ポイントです。別所梅林は広い。県道72号線からJR御殿場線に向って緩い傾斜で下ってます。富士山と梅をからめて撮影するならば、少しでも高い所がいい。だからここ。ちなみに、アイス工房のソフトクリームは美味しいです。(今回は寒かったのでパスりましたが)
アイス工房を県道72号線を横断した所に穂坂さん宅の大枝垂れ梅があります。

見頃になってます。これまた知る人ゾ知るのようで、観梅客は先着の1組のみ。うっとり見上げちゃったわ〜。
さて、こっからは曽我物語と史跡巡りです。別所梅林の東側の曽我丘陵には鎌倉時代からの伝承の残る石仏や石塔などの石造建造物があります。併せて曽我物語の史跡が点在しています。小田原市が推奨してる曽我の郷めぐりのコースなど、3〜4時間で回れる初心者向けのハイキングコースもある。ダンナが下曽我駅から参加した小田原ガイド協会さんが主催してる曽我の郷散策マップでは、スタートが下曽我駅なので、今から逆周りコースで曽我丘陵の散策開始!
実はこれ、結構おススメです。なぜならば、体力のある一番最初に別所梅林という一番の観梅ポイントを訪問。逆回りコースは太陽を背に富士山を眺めながら歩くので、青空の白雪を冠する富士山が目に楽しい。というのが理由です。

ますは、穂坂さん宅大枝垂れ梅から徒歩数分で法蓮寺さんに到着。

「法蓮寺。山号は千葉山(ちようさん)。この地方の古寺の通例として、もとは天台宗であったと言われるが、寺伝によると慶長19年(1614年)に改修したとのことです。」(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)
上の画像は法蓮寺さんにあった鬼子母神像。両側の梅が風情を増してくれてました。これで鬼子母神像が古びた感じになればいい感じの撮影スポットになるかも?

法蓮寺さんの墓域に曽我兄弟の母、満江(まんこう)御前の墓があります。墓石は卵型の自然石で、曽我兄弟の母・満江御前の墓と伝えられえおり、武藤家の子孫が、この墓の供養を現在も続けています。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)
なるほどお墓に水仙が捧げられています。

満江御前のお墓の前から富士山が見えた。ここで考えどころです。見頃の白梅の梅林が、曽我丘陵を上るように連なってるんだよね。そっちの小径を登って行くハイキング客がそこそこ。こんだけ素晴らしいお散歩日和なんだ。ついてくのも一案だけども。私は自分の体力が少ない自覚がある。無理してはイカン。前回見そびった瑞雲寺さんの枝垂れ桜が見たいんじゃ!だからして〜、登らない。松田方面に左折しよう。

数分で戦国時代の兵火で背中が焦げた薬師像がある焼薬師さんに到着。
説明板発見:別所薬師堂
本尊は、瑠璃光薬師如来(脇侍十二神将)で行基の作といわれ、長さ4尺八寸の立像です。
里人の伝承によれば、この薬師如来像は、山彦山薬師沢の奥の仏体ケ窪という所に、奈良時代から平安時代にかけて安置されていましたが、戦国時代兵火をこうむって、その背が焦げてしまったことから、別名「やけ薬師」と呼んでいました。
北条氏没落後、小田原唐人町の中国人・○七官の配下の者が来て、ここに草庵を結び礼拝していましたが、その後谷津法輪寺の末寺となり中華応福寺と称しました。明治に廃寺となり薬師堂だけが昔の面影をとどめています。」
訪問時は小田原ガイド協会さんの散策イベントが開催されていて、お薬師さんの建物が開けてありました。

道なりに進むと、急坂になった。曽我丘陵の起伏に沿って道があるので、ハイキングコースは登ったり下ったり忙しい。坂を降りた所で、ガイド協会さんのガイドさんに連れられて回るツアー参加者と出会った。道々単独で回っても道に迷わないようにポイントに矢印が設置してある。まあ、私は逆回りしてるので、勘を頼りに進んでるんだが。

この梅林は早咲きの十郎でなく遅咲きの白加賀の梅畑かな?中咲きの梅なら今が見頃だったかも?無念じゃ。

到着したのは曽我兄弟の母、満江御前の屋敷跡です。地元では満江御前が居住していた曽我氏の下屋敷であったと伝えています。屋敷地の東南に隣接する武藤、安池両家の祖先は、伊豆から満江御前に随行してきた家臣であったと伝えられています。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)
謡曲や幸若舞の曽我物語の『小袖曽我』の舞台です。
「小袖曽我」工藤祐経(くどうすけつね)の仇討ちを胸に秘め、曽我兄弟は今生の別れに母の満江御前から小袖を乞い受けました。
説明板発見:謡曲「小袖曽我」と屋敷跡
謡曲「小袖曽我」は建久4年5月中旬に源頼朝が富士の裾野で巻狩りを催すと聞き、この機会に父の仇工藤祐経を討とうと志した曽我兄弟は、暇乞いのためにそろって母のいるこの曽我の里を訪れた。しかし「母の命に背いて出家しなかった者であるから」と、かねてから勘当していう弟五郎に対して母は戸を閉じて対面を許さない。「なお重ねての勘当」という母に兄十郎は「親子の愛を疑う」と言ってさまざまにとりなし懇願したので、母の心は解け五郎の勘当は許された。兄弟は喜びのあまり舞をまい最後の別れをsて勇んで富士へと出立したという兄弟愛を主軸にした物語で、めでたい曲とされている。
この公民館は曽我屋敷跡に建てられたもので「小袖曽我」の舞台跡である。 謡曲史跡保存会
確か、お能にも曽我物語を題材にした話があったんじゃないかな?んで、曽我物語を題材に複数お話があったハズ。まあ仇討ち話だしね。庶民にも楽しめたのかな?今どき曽我物語って言われてもどんな話かあらすじも知らない人も多いと思うけどな。私はこの話が実話が題材だったのか〜と、曽我の地に来て初めて知ったんでした。

お散歩再開。この辺りの梅林は今が見頃でした。ついつい歩く速度が遅くなる〜・

到着したのは二宮尊徳遺髪塚です。
尊徳(二宮金次郎)の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛宅でした。太兵衛の次男、民次郎は下野の国の桜町(栃木県二宮町)仕法時代から尊徳に仕え、尊徳の死後、その遺髪を得て、曽我へ帰りました。
この遺髪塚は、民次郎の遺言により孫の與三郎が、昭和13年(1938)に建てたものです。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)

ってな事で、尊徳さんの遺髪塚で富士山ながめながらお昼ごはん〜。ハイキング客には嬉しい事にベンチが置いてあるのだ。(画像が増えたので明日に続く)

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