あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

麻溝公園の西洋あじさい2018.6.15見頃 その3

2018年06月15日 11時15分54秒 | アジサイ散歩
2018.6.12訪問。麻溝公園には200品種・6000株のあじさいが植栽されてます。5月末に山あじさいが開花。現在はアスレチック場の外周にあるあじさい順路で西洋あじさいが見頃を迎えています。

実はですね、順路の左右にあじさいが植栽されているのですが、画像右側はフェンスの外に向かって花がついてるので、順路からはほとんど見えません。
でもアスレチック場側の西洋あじさいは綺麗で、すぐそばで観察出来ます。

順路途中に全く花のついてないタマあじさいゾーンがある。山あじさいゾーンで知り合ったおばさんに説明しながら案内してまして「タマあじさいの見頃は9月なんですよ。探したらようやくつぼみが出来た株が見つかる。あ、ありました!」見つかったタマあじさいのつぼみはまだビー玉サイズです。9月に再訪をオススメします。
さて、アスレチック場のあじさい順路の後、水道みちの真っ白なアナベルなどを案内して、出会った山あじさいゾーンに戻ってきました。そこで「さようなら」のつもりだったのですが、おばさんが「たくさんあじさいあったわねえ。こんなに品種が多いと名前が知りたいわ〜」とおっしゃるので「それなら管理事務所いあじさい図鑑が販売されてますよ」と伝えら「それどこにあるの?」と聞かれたので「案内します」と。
私のブログを日々チェックして下さってる方はお察しですね。麻溝公園には高低差があるのです。管理事務所は斜面花壇の上にあるのだ。
おばさんが「疲れたからジュースでも」とおごってくれました。嬉しい〜。
この日は相模原公園の花しょうぶの開花状況の確認だけのつもりだったので、普段は背負ってるリュックサックを家に置いてきちゃったのだ。リュックがあればお茶も携帯してたんだけどね。ウエストポーチだけなのね。
おばさんとジュースを飲みながらあれこれ会話して、前の週(6月7日)に訪問した相模原北公園のあじさいの画像や、6月9日に訪問した八景島のあじさい祭り(神奈川県内最大級20000株)の画像をお見せして、すすめる。もうすぐ暑い夏がやってくるので、なかなか花見散歩に出かけるのは不向きになる。だから今オススメのお花見場所の情報を伝えてみた。おばさんが出かけよう!と思えば嬉しいですもの。
さて、休憩もしたし帰ろうか?と思ってたら、おばさんが「あじさいの本買ってきます」と。あ。そうだった!そもそも管理事務所にあじさいの本を買いに来たんだった。つい事務所棟は涼しくてイスとテーブルが置いてあるので忘れそうになったわ。
で。おばさんが戻るのを待ってたらば!!
なんと!!
おばさんが「これ、あなたへプレゼント」と。
 
やややや!!!!ダメよ。ダメダメ!そんなつもりで案内したんじゃないんだっ!おしゃべりして楽しかったから、それで満足なのに〜〜。
主張してみた。「この本は娘さんにプレゼントして、今度一緒に公園にあじさいを見に来ればいいのでわ?」
でもおばさんは「それは私用に購入したあじさい本があるから」と。
マジでぇ??嬉しいよ?でもさ〜。む〜〜ん。
「ありがとうございますっ!」と。素直にいただいちゃいました。
あじさい本は正式書名をあじさい 園芸豆図鑑特集号といい、A4 フルカラー36ページ 500円となってます。ピックアップしたページは公園に植栽されたあじさいで、花の画像の下に新種名と北公園にあるのか麻溝公園でみれるのかわかるようになってます。
さて、おばさんはバス。私は自転車ということで、管理事務所前でお別れ。いつか再会できたら、次は隣接の相模原公園を案内させていただきます。
我が家までの最短コースは、麻溝公園から水道みちを抜けてオダサガなのですが、せっかくなので、先ほど見えなかったフィールドアスレチック場のあじさい順路のフェンス側をフェンスの外から見ながらいこう。

期待通りフェンスの外からあじさい順路のあじさいが綺麗です。

ちなみに、フェンスにはクレマチスが巻きついてて、品種によると今見頃のクレマチスもあります。

隙間から、もしくはフェンスの上から順路のあじさいを眺める。

綺麗だけどもこれ以上近づけません。

ここが公園の角。角を曲がると第2第3駐車場に行きます。が、私は反対側へ。
帰宅後、いただいたあじさいの本を開いてみた。てっきりカシワバアジサイと思ってたのが、更にスノークインとスノーフレークとハーモニーとバックボーチという4品種も混じってたのを知る。あじさいって品種が多いのね。と。読み込んでしまいました。いや〜、いい本いただいちゃいました〜。
ちなみに、麻溝公園では6月17日(日曜)9:00-15:00にあじさいフェアが開催されます。
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麻溝公園あじさい開花情報2018.6.12 その2

2018年06月15日 08時53分40秒 | アジサイ散歩
2018.6.12訪問。 相模原公園へ花しょうぶを見に行ったついでに隣接する麻溝公園のあじさいも見学しました。
早咲きの山あじさいは既に見頃の盛りを超えた品種が多くなってます。グラウンド縁と東屋周辺の姫あじさいも痛みが目立ち、撮影モデルには向きません。今美しいのは遅咲きの西洋あじさいです。この記事(その2)においては、第2駐車場側の西洋あじさいと、第3駐車場入り口の西洋あじさいを紹介します。
トップ画像は第二駐車場のフェンス内側のあじさい散策路に咲く西洋あじさいです。

あじさい順路に咲いてるのですが、グラウンドの縁にまずつつじの生垣があり、その奥にあじさいが植えられており、年々つつじが成長して見づらくなりました。でもつつじがあるおかげで適度に木陰が保たれてるおかげか、綺麗な花をつけてくれるのですよ。

つつじの株と株の隙間から入ってあじさいを撮影しています。ので、撮影したい方は汚れてもいい服でお越しください。

知る人ぞ知る撮影ポイントですが、知ってる人は知ってるので人気です。

第3駐車場入り口に移動。

背景にタワーを取り入れて画面構成。このタワーを入れると、麻溝公園で撮影してるのが知れて分かりいいんです。
 
前回もここから撮影した画像を紹介しましたが、あの時は晴天続きだったのであじさいがぐったりしてました。6月12日は曇天だったので、あじさいも元気だろうと期待して立ち寄りました。

あじさいは元気でしたが、既に見頃を過ぎつつありまして、あまりアップにしても美しくない。無念。晴天の上に気温が高い日が続いたからなあ。今日(6月15日)くらいの気温と湿度なら花持ちも良かったろうに。

さて、アスレチック場外周のあじさい順路に移動です。
第二駐車場側の入り口からしばらくは、山あじさいゾーンです。

アスレチック場は木が多くあって、木陰なので山あじさいが元気に咲くポイントですが、さすがに早咲きの山あじさいは見頃終盤に入ってます。アップで撮影しても美しさが足りない。(その3)に続く

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杉並さんぽ9 チャンドラ・ボース像のある蓮光寺

2018年06月15日 06時36分18秒 | インド旅行記
杉並さんぽの途中、区立図書館の建物が黒川紀章と知り見物に寄ったらガンジー像を見つけた。図書館の地下にはガンジーとチャンドラ・ボースの展示があり、興味深く見学。その時に杉並区和田3丁目の蓮光寺にチャンドラ・ボース胸像もあるのを知る。

和田ってどこにあるの?杉並区に土地勘がなく図書館では諦めたのですが、さんぽの途中角川庭園でいただいたすぎなみ景観ある区見マップ和田・堀ノ内編を眺めてたら、蚕糸の森公園と妙法寺の途中に蓮光寺チャンドラ・ボース像と書かれてるのを見つけました。ラッキー!
15時50分、蓮光寺到着。

本堂の階段横にチャンドラ・ボース像があった。
説明板発見:蓮光寺
当寺は、頂光山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊です。
「文政寺社書上」によれば開創は、文録3年(1594)、両国矢ノ倉(現中央区東日本橋)で、開基は、源受院日宝と言われています。
正保元年(1644)には、朝倉新寺町(現台東区元浅草)に、境内地を拝領して移転し、境内には円理院・受教院・専玄房などがあり、寺運の隆盛があったと伝えられますが、文化3年(1806)に、火災により焼失したので、詳細なことは明らかではありません。
当寺で有名な「開運大黒天」は、浅草新寺町時代の地名の俗称にちなんで、通称「土富店の大黒天」とも言われ、江戸庶民の信仰をあつめました。
この「大黒天」は、当初、日蓮上人が母妙蓮尼の病気平癒を祈願して彫ったものと伝えられております。また、開基日宝が、小湊巡錫の折に、庄屋の娘の難産に会い、祈祷して助けました。その際に、床柱が光を発しこの家に伝来、不明となっていた「大黒天」が再び発見され、これをもらう受けて江戸に持ち帰り、蓮光寺建立の際、奉安したものと伝えられます。
本寺は、江戸時代旗本寺としても、栄ました。なお昭和50年記念碑としてネタジ・スバス。チャンドラボースの碑が建立されています。
胸像の後ろに「当寺に参ってネタジの聖なる遺骨にお祈りを捧げる事を私の幸福とするところであります
1958年10月4日 ラジェンドラ、プラサット大統領
仏陀の使命が人類に平和をもたらすように祈ります
1957年10月13日ジャワハルラル、ネルー首相
御仏の光が「真心と平和に向かって人々のために永久に永遠を導かれんことを
1963年6月26日 インディラ、ガンジー首相
もう1枚
「インドの偉大な自由の闘士ネタジースバッシュ チャンドラボースの霊を安置している蓮光寺を再び訪れることができてうれしく思います 2001年12月9日 パジパイ首相
ヒンズー語だと思うけども、パジパイ首相の言葉が彫られてます。
記念ノートが置いてあって、何の気なしにページをめくると、参拝に訪れた英語とヒンズー語で埋まってました。
「たぶんヒンズー語」と書いてるのは訳があって、ヒンドゥー語はインドの人々の18%の母語です。ヒンドゥー語を話す人でも30%ほど。公用語も一応ヒンドゥー語ですが、22の言語は普通に使われていて、お札にも多くの言語が印刷されています。ノートの文字を見てもそれがどの言語か私には判別できませんでした。
よっぽどノートを撮影しようか?と思ったのですが、おそらく参拝者の気持ちが書いてあるので自重しました。

ところで、スバス・チャンドラ・ボースさんをご存知ですか?
WIKIによりますと、イギリス領インド帝国ベンガル州生まれ。生没年:1897年−1945年8月18日(48歳没)。没地:台湾台北市 信教:ヒンドゥー教
インドの独立運動家です。
当初はガンジーと一緒にイギリスからのインド独立の活動をしてました。しかし、無抵抗主義を貫くガンジーと袂を分かち、やがてドイツのヒトラーやムッソリーニと連携してインドの独立を進めようとしたものの挫折。次は社会主義思想のソ連と。そして枢軸国の一つで独立を保っている日本へ。
マレー作戦の後、インド国民軍はインドの軍事的方法による解放を目指して、日本軍によるインパール作戦に参加。インパール侵攻失敗後、インド国民軍は主にビルマで連合軍と戦った。
1945年8月15日日本の敗戦で、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることは不可能となり、ボースは延安で中国共産党と協力を得るか、ソ連と協力するためにソ連が占領した満州へ向かおうとした。
1945年8月18日午後2時、ボースは台湾の松山空港から大連へ向かう予定の爆撃機に乗り込んだ。しかし離陸直線に機体が故障で落ちた。全身おおやけどを多い台北の日本陸軍病院へ。
遺体を東京に送るように命じられたが、夏季の上にやけどの損傷が激しく、現地で火葬。
1945年9月5日、ボースの遺骨は日本に運ばれた。
9月18日、蓮光寺で葬儀が行わた。
ちなみに遺骨は蓮光寺に保存されていたが、2006年にボースの兄の孫に返還されている。」
とありました。
ふと疑問に思うのは、ヒンドゥー教徒って火葬したら遺灰をガンジス河に流すのが作法だよね。すでに遺骨は返還されたようですが、長らく蓮光寺に置いてたのはどうなんだろうなあ〜?インド旅行したら、日本で一番有名なインド人、ガンジーさんのお墓もなかったんだよね。もちろんガンジーさんの遺灰も死後ガンジス河に流されたとガイドさんが言ってました。ええ。
だから、飛行機事故死は陰謀で、ボースさんは生きてソ連に向かった!という説もあるようで。
悩んでも仕方ないので、次行ってみよう。
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