高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

藩校サミットin水戸(その5)

2012-02-26 07:57:10 | 山野草
藩校サミットは水戸駅から北西に1kmほどの、水戸芸術館で開催されました。当日は茨城県知事を初め多数の来賓を迎え、会場は満員の盛況でした。
藩校サミットは1年前の東北大震災により延期となっていましたが、まだ復興途上ではありますが、水戸市民の熱意が伝わってくるサミットになりました。この日に合わせ、梅の名所の偕楽園も復興からオープンになったようです。


(藩校サミットin水戸は「江戸の学びと水戸の学び」)

 
(会場は水戸芸術館)


(冊子の表紙は全国で最も大きな藩校であった弘道館)

 
(進行はNHK水戸局アナウンサー)   (全国の藩校ゆかりの殿様紹介)

 
(記念講演Ⅰ:徳川恒孝氏)        (記念講演Ⅱ:石川忠久氏)

 
(水戸藩徳川家第15代当主が徳川光圀を語る)

徳川宗家の徳川恒孝氏は、「地方自主と質素倹約の時代」の題名で講演されました。「全国に独立したたくさんの国(藩)があり、それぞれの藩で独立して領地を治めていた。江戸時代の300年間は、この間戦争もなく世界的に見ても、平和な時代であった。各藩には藩校や寺小屋があり、世界のどの国よりも極めて高い教育水準にあった。」

 
(水戸徳川家系譜)

石川忠久氏の史記列伝(伯夷列伝)とは、
「むかし中国に伯夷と叔斉の王家の兄弟がいた。伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に王位を譲ることを伝えられた兄の伯夷は、遺言を守り叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差しおいて王に就くことを良しとしなかった。伯夷は国を捨て他国に逃れたが、叔斉も兄を追って国をでた。・・・」


(石川忠久氏の史記列伝)

テレビの水戸黄門(徳川光圀)でも、黄門様は自らのことを、かなりの悪がきであったと告白していますが、18歳で史記列伝を読み、その後は行いを改め立派な第2代藩主になったようです。光圀は兄頼重とは同じ母を持っていますが、弟の光圀が水戸藩の跡取りとなり、兄は高松藩の藩主になりました。史記列伝に感銘していた光圀は、兄の息子綱條を水戸の第3代藩主にし、自らの息子頼常に高松藩を継がせました。
兄弟が家督を争うことが多い時代に、光圀は見事に義理をたてたことになります。
水戸では光圀のことを「義公」と呼んでいます。また史記列伝には「彼(か)の西山に登り・・・」とありますが、ここから隠居所を西山荘と付けたのでしょう。   (つづく)

コメント (2)
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