藩校サミットは水戸駅から北西に1kmほどの、水戸芸術館で開催されました。当日は茨城県知事を初め多数の来賓を迎え、会場は満員の盛況でした。
藩校サミットは1年前の東北大震災により延期となっていましたが、まだ復興途上ではありますが、水戸市民の熱意が伝わってくるサミットになりました。この日に合わせ、梅の名所の偕楽園も復興からオープンになったようです。
「むかし中国に伯夷と叔斉の王家の兄弟がいた。伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に王位を譲ることを伝えられた兄の伯夷は、遺言を守り叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差しおいて王に就くことを良しとしなかった。伯夷は国を捨て他国に逃れたが、叔斉も兄を追って国をでた。・・・」
テレビの水戸黄門(徳川光圀)でも、黄門様は自らのことを、かなりの悪がきであったと告白していますが、18歳で史記列伝を読み、その後は行いを改め立派な第2代藩主になったようです。光圀は兄頼重とは同じ母を持っていますが、弟の光圀が水戸藩の跡取りとなり、兄は高松藩の藩主になりました。史記列伝に感銘していた光圀は、兄の息子綱條を水戸の第3代藩主にし、自らの息子頼常に高松藩を継がせました。
兄弟が家督を争うことが多い時代に、光圀は見事に義理をたてたことになります。
水戸では光圀のことを「義公」と呼んでいます。また史記列伝には「彼(か)の西山に登り・・・」とありますが、ここから隠居所を西山荘と付けたのでしょう。 (つづく)
藩校サミットは1年前の東北大震災により延期となっていましたが、まだ復興途上ではありますが、水戸市民の熱意が伝わってくるサミットになりました。この日に合わせ、梅の名所の偕楽園も復興からオープンになったようです。
(進行はNHK水戸局アナウンサー) (全国の藩校ゆかりの殿様紹介)
「むかし中国に伯夷と叔斉の王家の兄弟がいた。伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に王位を譲ることを伝えられた兄の伯夷は、遺言を守り叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差しおいて王に就くことを良しとしなかった。伯夷は国を捨て他国に逃れたが、叔斉も兄を追って国をでた。・・・」
テレビの水戸黄門(徳川光圀)でも、黄門様は自らのことを、かなりの悪がきであったと告白していますが、18歳で史記列伝を読み、その後は行いを改め立派な第2代藩主になったようです。光圀は兄頼重とは同じ母を持っていますが、弟の光圀が水戸藩の跡取りとなり、兄は高松藩の藩主になりました。史記列伝に感銘していた光圀は、兄の息子綱條を水戸の第3代藩主にし、自らの息子頼常に高松藩を継がせました。
兄弟が家督を争うことが多い時代に、光圀は見事に義理をたてたことになります。
水戸では光圀のことを「義公」と呼んでいます。また史記列伝には「彼(か)の西山に登り・・・」とありますが、ここから隠居所を西山荘と付けたのでしょう。 (つづく)