水戸城はかっては佐竹氏の城でしたが、関ヶ原の戦いの責任を問われ、秋田に転封になりました。戦略的に重要な地でしたので、家康の5男武田信吉、10男徳川頼宣(紀州徳川家の祖)を経て、11男の徳川頼房が城主となりました。
歴代藩主の中で、特に有名なのは第2代の徳川光圀で、水戸の黄門さまとして知られています。光圀の大きな業績は大日本史の編纂を手掛けたことで、事業が本格化したのは光圀が西山荘に隠居してからのことです。この事業は代々の藩主に引き継がれ、完成したのは明治になってからでした。隠居所の西山荘は、水戸から北へ20kmほどの常陸太田市にあります。
水戸城の北には那珂川が流れ、非常時には天然の要塞になるとともに、平時は舟が往復したものと思われます。学校に御三階櫓の写真がありましたが、かっての展望もこんなだったのでしょうか。 (水戸市)
歴代藩主の中で、特に有名なのは第2代の徳川光圀で、水戸の黄門さまとして知られています。光圀の大きな業績は大日本史の編纂を手掛けたことで、事業が本格化したのは光圀が西山荘に隠居してからのことです。この事業は代々の藩主に引き継がれ、完成したのは明治になってからでした。隠居所の西山荘は、水戸から北へ20kmほどの常陸太田市にあります。
(空堀にかかる大手橋を渡ると、土塁で堅固な枡形になっています)
水戸城の北には那珂川が流れ、非常時には天然の要塞になるとともに、平時は舟が往復したものと思われます。学校に御三階櫓の写真がありましたが、かっての展望もこんなだったのでしょうか。 (水戸市)