高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

庄内の旅(その9)

2013-09-11 04:42:30 | 歴史
【松ヶ岡開墾場】
最上川の清川口から羽黒山の方向に向かいました。でも出羽三山の羽黒神社の参拝ではなく、庄内藩が開墾した「松ヶ岡開墾場」の見学でした。今回をもって庄内の旅の最終回です。
戊辰戦争後多くの困難に遭遇した庄内藩は、禄を失った旧藩士が刀や槍を鋤(すき)や鍬(くわ)に持ち替え荒野を開墾しました。明治7年までに300余ヘクタールの桑園を造成し、大蚕室10棟を建設して養蚕事業に励みました。


(松ヶ岡開墾場の配置図)

 
(松ヶ岡開墾場の説明)

 
(今も残る大養蚕室の細長い棟)


(模様替えはしてありますが内部を見学)

 
(松ヶ岡本陣)

開墾に取り組む旧庄内藩士に、西郷隆盛から「気節凌霜天地知(きせつりょうそうてんちしる)」の箴言(しんげん:いましめとなる短い句)が贈られました。これは「困難に遭遇した場合、それを凌ぎぬく気概をもって取り組めば、天地の神もそれを知り応えてくれる」との意味のことだそうです。
松ヶ岡開墾場は、戊辰戦争で自分たちの意図に反し、賊軍という汚名を着せられた旧庄内藩士3千人が、それを払拭するべく原野の開墾を推し進めた場所でした。


(天地知の石碑)

 
(瓦に酒井家の家紋が付いた蚕業稲荷神社)

庄内藩士の松ヶ岡開墾場の夢はさらに広がり、北の大地に「札幌桑園」へと繋がります。庄内藩に穏便な処置を下し、その後開拓使長官になった薩摩藩士黒田清隆は北海道に渡り、それを追いかけるように庄内藩の開墾は続きました。この宿舎跡はやがて札幌農学校長となる長岡藩士森源三が買い取り、「桑園碑」の石碑を建てました。
旅の最後に松ヶ岡開墾場に立ち寄ったことで、戊辰戦争をともに戦った庄内藩と長岡藩の固い絆を感じました。(参考:クラーク博士と河井家の末裔

 
(道の駅「庄内観光物産館ふるさと本舗」と宿から見た日本海の夕日)

(鶴岡市)        (おわり)

コメント (2)
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