高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
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八王子宿の武田家の謎に迫る(その2)

2010-01-21 00:13:16 | 歴史
ダイヤモンド富士の観察で、冬至の日に高尾山の山頂で、ダイヤモンド富士が見られるのはすでに述べている。富士山と高尾山を結ぶ線を、北東に伸ばしていけば、この線上にある地域は冬至の日にダイヤモンド富士になるが、この線が甲州街道と重なり追分を通ることがわかった。
すなわち追分で富士を拝むことは、その真後ろの富士山を拝むことになる。大久保長安は山岳信仰が強く、富士森公園に富士浅間神社と富士塚を建立している。また高尾山の奥の院の背後に、浅間神社があり、ここで浅間神社を拝むことは、富士山に行ったと同じことだといわれてきた。

甲州街道は日野から淺川を越え八王子宿に入ると、防御性を高めるために鍵の手(枡形ともいう)に曲がり、迂回しながらまた元の街道の延長線に戻る。そのあとは一直線で追分まで続いているが、地図の上で追分側が少し北(左肩上がり)に傾斜している。
甲州街道の西の中央に見えるのは、武蔵・相模・甲斐の国境にある連行峰(1016m)といわれている。ここで止めておけば、何も起こらなかったが、八王子宿の甲州街道を西に延々と延ばしてみた。Googleの地図を何枚もつないで進んだら、甲州街道の延長線は、武田家の終焉地で、再起を計り風林火山の旗を納めた天目山栖雲寺の付近を通った。更に延ばすと、驚くべきことに躑躅ヶ崎の館(いまは武田神社)につながった。
追分で甲州街道を背に連行峰を拝むことは、武田家の再興を願うことである。

ここまできたら、追分からの陣馬街道が、何処かに向かっているのは察しが付くが、思い付くのは甲斐・武蔵・信州国境にある甲武信ヶ岳(2475m)である。同じように陣馬街道を真っ直ぐに伸ばしてみた。何と大菩薩嶺(2057m)にぶつかり、冷や汗がでてきて、これ以上の作業は恐くなって中断した。
大菩薩嶺は甲斐源氏の祖の新羅三郎義光が、一族の繁栄を願い、南無八幡大菩薩と唱えたことが山の名前になった、武田家の聖地というべき山である。

何と長安は徳川の家臣として、八王子宿の縄張りを決めるのに、武田家の再興を頭に設計したと推定した。かれは死後に徳川家康の家臣団の派閥争いに巻き込まれ、謀反の疑いをかけられる。死後に遺体は掘り起こされて磔になり、一族はことごとく処刑されるという、江戸時代最大の疑獄事件に発展した。


(追分から各街道の延長線を引く、何と武田家の重要ポイントばかり)


(隠されていた長安の秘密、追分に立って武田家の再興を誓ったのか)

伊能忠敬がこの時代に生まれていれば、大久保長安の野望は夢と消えたであろうが、この時代は長安だけが、天体観測などから方位を正確に読む術を知っていたと思われる。
自らが設計した八王子宿と甲州街道の追分の地に立ち、それぞれの方角に祈りを捧げ、長安は武田家の再起を誓った。八王子宿にはこんな秘密が隠されているのであろうか。
こんな重大事実があるとすれば、今まで誰かが発表しているに違いない。調べるとあった。馬場喜信氏は中世の町の設計に山当ての手法があり、甲州街道は西の連行峰を東西の基準線とし、追分は高尾山と富士山の線が結ばれる延長線にあると述べている。連行峰からさらに西に延ばすと、天目山や躑躅ヶ崎の館が線上にあることや、大菩薩嶺については触れてない。長安が背を向けた東の先に、何があるかはわからないが、多分江戸城にも近いのであろう。
そんなことから、「寅太の仮説」がここに生まれ、初めて公開されることになる。
長安は石見銀山だけでなく、金山奉行もかねて莫大な資産を持っている。しかも太閤検地に匹敵する石見検地を実施して、土木工事に優れ、武田の再興資金を隠すのは容易もないことである。大久保石見守長安、武田家では猿楽師(平安時代の芸能で、こっけいな物まね言葉芸などを演ずる)だった謎の多い男である。
次回からは武田の埋蔵金を、地図の上で定規と虫眼鏡で追いかけることにする。

 
(追分に建つ道標と見えてきた大久保長安の野望)

 
(左に進むと高尾山薬王院奥の院と浅間神社、その先には富士)

 
(真っ直ぐ進む先には、躑躅ヶ崎の館とたなびく風林火山の旗)

【参考】馬場喜信著「八王子を読む」、「多摩の街道と宿」
(八王子)

コメント (6)
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