今日、松山で吹いた強い風。
あれは春一番だったのでしょうか。
花粉症持ちでないオットでさえ、目かゆ鼻むずとなりまた。
朝ごはんに白い飯。
穏やかでいつもと何も変わらぬ日を迎えられる幸せ、
ありがたくかみしめながらいただきます。
今日は目覚めた瞬間から、気持ちが張り詰めている感じでした。
私のそういう気分を察してか、またオットもそうだったのかは分かりませんが
「どこか、普段となじみのない場所でも歩いてみようか」というオットの提案。
ざっくりと北条あたり・・と目星をつけて自宅を出発しました。
その途中「ちょっと寄ってみたいところがある」とオット。
そこは、以前松山にあった火力発電所跡の公園でした。
大学進学から病気療養で帰郷するまで、義弟はずっと東京に住んでいたのですが
飛行機が苦手だと言う父ちゃんの血を継いで、義弟はもっぱらJRで帰省していました。
その義弟が松山に向かう特急列車の車中、
「火力発電所の2本の煙突が見えてくると松山に着いたという気がする」とオットに話したことがあるらしい。
オットも小太郎も、火力発電所があった頃にその2本の煙突を見たことは一度もなかったのですが、
それがどのあたりだったか・・・ちょっと確認してみたい気持ちになりました。
ざっくりと堀江あたりと聞いていましたが、場所は勝岡町。
これは記念碑にある当時の写真。
オットが生まれた年の8月に運転を開始し、
50年後の平成13年に運転を終了したらしい。
小太郎のOL時代、年に4度は出張で高松を訪れていましたが
その帰路、松山に戻ってきた~!と実感する目印と言えば菊間の太陽石油の工場でした。
勝岡というとさらに松山寄り。
小太郎はすでに下車の準備に取り掛かっていて、その煙突を目にすることがなかったのでしょう。
今日、この日に火力発電所を訪れたのは全くの偶然で大意はないことなのですが
思いがけず、義弟の思い出の確認を一つすることになりました。
松山火力発電所であるここは、現在≪松山太陽光発電所≫となっていました。
広い敷地にズラリと並ぶ太陽光パネル。
見れば圧巻なのですが、上手く写真におさめられれなくてコンデジ片手に中年女が奮闘していたら
守衛の方がパンフレットを渡しに出てきてくださいました~。
これによる年間発電電力量は約220万kWhと見込まれており
約660世帯分の電気がまかなえるほか、
年間約700万トンの CO2 排出が削減できるのだそうです。
さらにこの施設は平成32年度までに増設が計画されているそうで、
発電電力は現在の倍以上見込めるようです。
上空から見た現在の写真は頂いたパンフレットから。
義弟も2本の煙突が無くなったあと、こんな風になっているとは知らなかったでしょう。
しかしその後、私たちよりもうんと高いところへ行ってからは「ふ~ん」「ほぉ」と
さぞかし興味深く眺めたことでしょうね。
太陽光発電所を見学した後、近いこともあって堀江の海に立ち寄り
砂浜でハマボウフウを探してみました。
昨年はここを訪れることがなかったのですが
いつの間にか松が植えられており、砂浜の様子もずいぶんと変わっていました。
そして、やっと見つけたハマボウフウ。
今年の冬はうんと寒かったから、ちょっとまだ早かったのかも知れません。
小さいのはちらほらと見えましたが、まだ数は少ない。
2株だけ頂いて帰りました。
午後2時過ぎには帰宅。
あれは春一番だったのでしょうか。
花粉症持ちでないオットでさえ、目かゆ鼻むずとなりまた。
朝ごはんに白い飯。
穏やかでいつもと何も変わらぬ日を迎えられる幸せ、
ありがたくかみしめながらいただきます。
今日は目覚めた瞬間から、気持ちが張り詰めている感じでした。
私のそういう気分を察してか、またオットもそうだったのかは分かりませんが
「どこか、普段となじみのない場所でも歩いてみようか」というオットの提案。
ざっくりと北条あたり・・と目星をつけて自宅を出発しました。
その途中「ちょっと寄ってみたいところがある」とオット。
そこは、以前松山にあった火力発電所跡の公園でした。
大学進学から病気療養で帰郷するまで、義弟はずっと東京に住んでいたのですが
飛行機が苦手だと言う父ちゃんの血を継いで、義弟はもっぱらJRで帰省していました。
その義弟が松山に向かう特急列車の車中、
「火力発電所の2本の煙突が見えてくると松山に着いたという気がする」とオットに話したことがあるらしい。
オットも小太郎も、火力発電所があった頃にその2本の煙突を見たことは一度もなかったのですが、
それがどのあたりだったか・・・ちょっと確認してみたい気持ちになりました。
ざっくりと堀江あたりと聞いていましたが、場所は勝岡町。
これは記念碑にある当時の写真。
オットが生まれた年の8月に運転を開始し、
50年後の平成13年に運転を終了したらしい。
小太郎のOL時代、年に4度は出張で高松を訪れていましたが
その帰路、松山に戻ってきた~!と実感する目印と言えば菊間の太陽石油の工場でした。
勝岡というとさらに松山寄り。
小太郎はすでに下車の準備に取り掛かっていて、その煙突を目にすることがなかったのでしょう。
今日、この日に火力発電所を訪れたのは全くの偶然で大意はないことなのですが
思いがけず、義弟の思い出の確認を一つすることになりました。
松山火力発電所であるここは、現在≪松山太陽光発電所≫となっていました。
広い敷地にズラリと並ぶ太陽光パネル。
見れば圧巻なのですが、上手く写真におさめられれなくてコンデジ片手に中年女が奮闘していたら
守衛の方がパンフレットを渡しに出てきてくださいました~。
これによる年間発電電力量は約220万kWhと見込まれており
約660世帯分の電気がまかなえるほか、
年間約700万トンの CO2 排出が削減できるのだそうです。
さらにこの施設は平成32年度までに増設が計画されているそうで、
発電電力は現在の倍以上見込めるようです。
上空から見た現在の写真は頂いたパンフレットから。
義弟も2本の煙突が無くなったあと、こんな風になっているとは知らなかったでしょう。
しかしその後、私たちよりもうんと高いところへ行ってからは「ふ~ん」「ほぉ」と
さぞかし興味深く眺めたことでしょうね。
太陽光発電所を見学した後、近いこともあって堀江の海に立ち寄り
砂浜でハマボウフウを探してみました。
昨年はここを訪れることがなかったのですが
いつの間にか松が植えられており、砂浜の様子もずいぶんと変わっていました。
そして、やっと見つけたハマボウフウ。
今年の冬はうんと寒かったから、ちょっとまだ早かったのかも知れません。
小さいのはちらほらと見えましたが、まだ数は少ない。
2株だけ頂いて帰りました。
午後2時過ぎには帰宅。
おもいおもいの気持ちをのせて
多くの人たちの「祈り」が
ちょっと冷たい春の風にのって舞い上がりました。
どうぞ
空高くに住まうひとたちのたましいに
届きますように。。
ずっと泣かなかったわたしが
小太郎さんの
「午後2時過ぎには帰宅。」
このひとことになみだがでたのは
どうしてなんだろ。
白いごはんと梅干しに
「食」「料理」の基本をみたような気がします。
ありがとうございます。
空ばかり見ている私とそれを見つめる夫。
何でもない日、当たり前の日がそこにあるということに私も感謝の気持ちを忘れずにいたいです。
「ハマボウフウ」幼い頃、母が作ってくれた酢味噌和えが大好きでした。
晩御飯に頂きました。
三陸産のもの、 いえ東北各地のものを、見かけると購入しています。
今日もスーパーには、店員さんの手書きのポップが添えてあり 猟師さん達が頑張ってとりました・・等説明書きが有り、被災地と遠く離れていますが 繋がっているのだと・・・感じました。
まだ瀬戸大橋のなかったころは連絡船に乗ると四国に帰ったと思いました。
最近は橋を渡って坂出の工業地帯が見えた時。高松の帰りだったら津島さん・・・ご存知ですか?
海の中にある神社です。年に2日だけJRが停まり橋を渡ってお参りできます。そこが見えたらなんとなく帰ってきたと思います。
でも懐かしい場所があるのは有難いことです。
一日も早く被災地の方に平穏な日常が戻ります
ように・・・。
あの日から、
同じ人間として多くの人がいろいろな思いを抱いた一年でした。
あの強い風の吹く中、
まださまよい続けている魂も多くあるのでは・・と切なくなりました。
この日はどこにいても、その時には黙とうをささげようとは思っていましたが
いざ当日になってみると
やはり何かのついで・・という気持ちにはなれず
自宅でオットと二人で、静かにその時を迎えようと思ったのです。
美味しいものを食べることはささやかなぜいたくだと思っていましたが
とても幸せでありがたいことなのだと改めて感じます。
気持ちのよい春の日には、風を感じるだけで心地よく癒されることもあるというのに
その自然に生活も命も持っていかれるという事実。
北海道の空も東北の空も愛媛の空もひと続き。
ハマボウフウの酢味噌和え、美味しいですね。
いつか手に入れることがあれば、天ぷらもぜひ。
kuriさんらしいわぁ~。
小太郎も去年の今頃、三陸のワカメを手に入れていただいたことを思い出しました。
東北の豊かな海の恵みと、美味しい食べものが絶えないよう
私たちも東北の美味しいものを知る機会が増えるといいですね。
一年経って見る映像も、やはり現実に起こったことなのだと信じ難いですね。
そこから立ちあがろうとしている人たちの
何か少しでも力になることがあれば・・と。
それを気にかけていれば、小さくとも何かはできるのだと信じています。
宇高連絡船ですね。
瀬戸大橋がない頃には、あれが四国の入り口に届けてくれてましたねぇ。
懐かしいです。
津島さん、知りません。
もう少し詳しく教えてくださいませんか?
小太郎の父は国家公務員だったので四国を単身赴任してまわり
高松にも長いこと赴任しておりました。
ですが、松山と高松の間の事はそんなに知らないのです。
被災された方々が、今以上のつらい目にあわないことを。
そして、少しでも心が癒えるのを希望します。