幻冬舎新書の中川右介氏著の「カラヤン帝国興亡史」を購入し一気に読む。
物々しい題名である。昨年同じく中川氏の著の「カラヤンとフルトヴェングラー」を読みチェリビダッケも絡んでの音楽裏舞台の生々しさに驚き、特に大指揮者フルトヴェングラーの内面の複雑さ、嫉妬深さに強い印象を受け、だからこそ一旦ステージに立つとあの人間離れした演奏をきかせたのだろうと思ったものである。
今回の新刊はフルトヴェングラーの死後の権力闘争の駆け引きが記されている。
それにしても物凄いものである。1954年フルトヴェングラーが亡くなり、たった3年後にはベルリンフィル、ウィーン国立歌劇場、ザルツブルク音楽祭、そしてミラノ・スカラ座、フィルハーモニア菅、ウィーン響も押さえてしまうのだから・・・それらに追随する大手レコード会社。
カラヤンをこれだけ駆り立てたのはいったい何だったのだろうか?自分の前に立ちふさがっていたフルトヴェングラーの影の影響か?これは本人の心の中でしか解らない事なのであろう。
ザルツブルク音楽祭の全権掌握を求めた時の一説が大変印象に残りました。
「カラヤンはフルトヴェングラーですら持たなかった芸術監督というポストを得ることで、フルトヴェングラー以上の権限を得ようとしたのである。
しかし逆に言えばフルトヴェングラーは何のポストに就いていなかったのに、自らの要求を押し通せる権威を持っていたのである。それに対しカラヤンは、あくまでポストを必要とした。カラヤンは帝王にはなれたがフルトヴェングラーのような神格性はなかった。少なくとも、この時点では、まだなかった」
権威と権力の違い。フルトヴェングラーとカラヤンの違いを痛感しました。
私は最近よく1960年のザルツブルク音楽祭でのカラヤンの指揮するオペラ「ばらの騎士」の映像を観ます。あの美しい音楽を奏で、美しい舞台を見ながらカラヤンの心の中では何が過ぎっていたのでしょうか?いろいろ考えさせられます。
http://blog.goo.ne.jp/0612-0523/e/7a83c9b169031d6bdbc39da2b60798ec
物々しい題名である。昨年同じく中川氏の著の「カラヤンとフルトヴェングラー」を読みチェリビダッケも絡んでの音楽裏舞台の生々しさに驚き、特に大指揮者フルトヴェングラーの内面の複雑さ、嫉妬深さに強い印象を受け、だからこそ一旦ステージに立つとあの人間離れした演奏をきかせたのだろうと思ったものである。
今回の新刊はフルトヴェングラーの死後の権力闘争の駆け引きが記されている。
それにしても物凄いものである。1954年フルトヴェングラーが亡くなり、たった3年後にはベルリンフィル、ウィーン国立歌劇場、ザルツブルク音楽祭、そしてミラノ・スカラ座、フィルハーモニア菅、ウィーン響も押さえてしまうのだから・・・それらに追随する大手レコード会社。
カラヤンをこれだけ駆り立てたのはいったい何だったのだろうか?自分の前に立ちふさがっていたフルトヴェングラーの影の影響か?これは本人の心の中でしか解らない事なのであろう。
ザルツブルク音楽祭の全権掌握を求めた時の一説が大変印象に残りました。
「カラヤンはフルトヴェングラーですら持たなかった芸術監督というポストを得ることで、フルトヴェングラー以上の権限を得ようとしたのである。
しかし逆に言えばフルトヴェングラーは何のポストに就いていなかったのに、自らの要求を押し通せる権威を持っていたのである。それに対しカラヤンは、あくまでポストを必要とした。カラヤンは帝王にはなれたがフルトヴェングラーのような神格性はなかった。少なくとも、この時点では、まだなかった」
権威と権力の違い。フルトヴェングラーとカラヤンの違いを痛感しました。
私は最近よく1960年のザルツブルク音楽祭でのカラヤンの指揮するオペラ「ばらの騎士」の映像を観ます。あの美しい音楽を奏で、美しい舞台を見ながらカラヤンの心の中では何が過ぎっていたのでしょうか?いろいろ考えさせられます。
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