昨年の暮に手に入れて、今、たいへんお気に入りの7枚組のCDがある。
シベリウス:交響曲全集、管弦楽曲集。
エーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団によるドイツ・グラモフォン盤である。
交響曲が4枚、管弦楽曲が3枚のCDに収められている。
私は昔からシベリウスの音楽が大好きである。
初めて聴いたシベリウスの作品はヴァイオリン協奏曲。中学3年生の時、わが町にやってきたNHK交響楽団の演奏会の時である。私にとって、生まれて初めて生でオーケストラの響きを聴いた記念すべき日である。
ヴァイオリン独奏は当時N響のコンサートマスターだった田中千香士氏、指揮は岩城宏之氏。2人とも故人となられてしまった。完全に昔の話になってしまった。
演奏会の最後、アンコールでシベリウスの「カレリア」組曲から「行進曲風に」が演奏された。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いて、単にヴァイオリンという楽器による美しい調べを楽しむ作品ではないと言うことは、当時、中学生だった私にも感じるものがありました。チャイコフスキーやメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲と全く違う世界。
何かけっして外面的でない、作品の向こう側に何か深いものがある。
いきなり録音で交響曲第4番や第7番を聴いていたらチンプンカンプンで、現在のように熱心にシベリウスの作品は聴いていないでしょう。
私は、シベリウスの音楽とは本当に良い出会いが出来たと今、感謝しています。
作品の向こう側にあるもの。シベリウスがヘルシンキ郊外ヤルヴェンパーの「アイノラ荘」にひきこもって、そこから見えるフィンランドの大自然から感じたもの。冷たく、孤独。そして大自然からこの世を超越した壮大な宇宙を捉えた音楽と言うべきか。
さて今回の7枚組のCD.
最初に聴いたのは大好きな交響曲第5番。第1楽章の冒頭の響き。この響き!
私はお国ものに、どちらかと言うと、こだわらない方である。ロシアものだったらロシアのオケ、チェコものだったらチェコのオケなどといった、こだわりは、あまりない人間である。かなり節操のない聴き方をしていると言われてもしかたがない人間である。
しかし今回、エーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団のシベリウスを聴いていて、指揮者とオーケストラの根底に流れている民族の血や、その風土から生まれて来て、今まで脈々と伝えてきたものの違いと言うものと強く感じました。
今の時代、世界のオーケストラのグローバル化が進み、確かに技術的には高いものにはなりましたが、何かオーケストラ個々の個性が薄くなってきたのではと感じています。
一番の例がベルリンフィルでしょう。ドイツのオケと言うよりインターナショナル的なオケと言って良いでしょう。現在の響きからフルトヴェングラーの時代の響きを聴くことは出来ない。
そんな現在、エーテボリ交響楽団の響きは、たいへん貴重である。
見事に凍りつく北欧の響きを伝えている。 そして、冷たさの中から何か人間の持つ温もりもあり、聴けば聴くほど、これから、さらにハマりそうなCDである。ドイツ・グラモフォンが、そんな響きを見事にとらえているのが嬉しい。
例えば交響曲第1番第4楽章のフィナーレでの弦楽器の響き。心に迫ってくる響きと言うべきか。
今回、聴いて交響曲第2番の魅力を再認識しました。
私はこの交響曲が昔から大嫌いでした。他にすぐれた交響曲があるのにシベリウスと言えば何とかの一つ覚えのように第2番、第2番。
しかし今回、このCDの演奏を聴いて、考え方が変わりました。
確かに第4番以降の作品と比べると、作品の持つ厳しさは薄いですが、エーテボリ交響楽団の響きで聴くと、今まで聴いてきた第2番の演奏はなんだったのであろうかと思わずにいられませんでした。
3枚のCDによる管弦楽曲も交響曲同様の感想。
特に「4つの伝説曲」を全曲、一気に聴けるのは嬉しい限りである。
節操のない聴き方をして、いろいろな演奏を聴いているからこそ、本物のお国ものの演奏を聴くと、強く感じるものがあるというべきか?
私の大好きなシベリウスの言葉。
「日はくすみ冷たい。しかし春はだんだん近づいてくる。今日は16羽の白鳥を見ることができた。神よ何という美しさか。白鳥は私の頭上を長いこと旋回して、くすんだ太陽の光の中に消えて行った。自然の神秘と生の憂愁、これが第5交響曲のテーマなのだ」
2015年は生誕150年のシベリウスイヤーである。
尾高忠明指揮による札幌交響楽団によるシベリウス交響曲全集の録音がスタートするらしい。
このところ、私にとって期待を膨らます新録音が、ほとんど無い状態が続いているだけに楽しみです。
シベリウス:交響曲全集、管弦楽曲集。
エーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団によるドイツ・グラモフォン盤である。
交響曲が4枚、管弦楽曲が3枚のCDに収められている。
私は昔からシベリウスの音楽が大好きである。
初めて聴いたシベリウスの作品はヴァイオリン協奏曲。中学3年生の時、わが町にやってきたNHK交響楽団の演奏会の時である。私にとって、生まれて初めて生でオーケストラの響きを聴いた記念すべき日である。
ヴァイオリン独奏は当時N響のコンサートマスターだった田中千香士氏、指揮は岩城宏之氏。2人とも故人となられてしまった。完全に昔の話になってしまった。
演奏会の最後、アンコールでシベリウスの「カレリア」組曲から「行進曲風に」が演奏された。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いて、単にヴァイオリンという楽器による美しい調べを楽しむ作品ではないと言うことは、当時、中学生だった私にも感じるものがありました。チャイコフスキーやメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲と全く違う世界。
何かけっして外面的でない、作品の向こう側に何か深いものがある。
いきなり録音で交響曲第4番や第7番を聴いていたらチンプンカンプンで、現在のように熱心にシベリウスの作品は聴いていないでしょう。
私は、シベリウスの音楽とは本当に良い出会いが出来たと今、感謝しています。
作品の向こう側にあるもの。シベリウスがヘルシンキ郊外ヤルヴェンパーの「アイノラ荘」にひきこもって、そこから見えるフィンランドの大自然から感じたもの。冷たく、孤独。そして大自然からこの世を超越した壮大な宇宙を捉えた音楽と言うべきか。
さて今回の7枚組のCD.
最初に聴いたのは大好きな交響曲第5番。第1楽章の冒頭の響き。この響き!
私はお国ものに、どちらかと言うと、こだわらない方である。ロシアものだったらロシアのオケ、チェコものだったらチェコのオケなどといった、こだわりは、あまりない人間である。かなり節操のない聴き方をしていると言われてもしかたがない人間である。
しかし今回、エーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団のシベリウスを聴いていて、指揮者とオーケストラの根底に流れている民族の血や、その風土から生まれて来て、今まで脈々と伝えてきたものの違いと言うものと強く感じました。
今の時代、世界のオーケストラのグローバル化が進み、確かに技術的には高いものにはなりましたが、何かオーケストラ個々の個性が薄くなってきたのではと感じています。
一番の例がベルリンフィルでしょう。ドイツのオケと言うよりインターナショナル的なオケと言って良いでしょう。現在の響きからフルトヴェングラーの時代の響きを聴くことは出来ない。
そんな現在、エーテボリ交響楽団の響きは、たいへん貴重である。
見事に凍りつく北欧の響きを伝えている。 そして、冷たさの中から何か人間の持つ温もりもあり、聴けば聴くほど、これから、さらにハマりそうなCDである。ドイツ・グラモフォンが、そんな響きを見事にとらえているのが嬉しい。
例えば交響曲第1番第4楽章のフィナーレでの弦楽器の響き。心に迫ってくる響きと言うべきか。
今回、聴いて交響曲第2番の魅力を再認識しました。
私はこの交響曲が昔から大嫌いでした。他にすぐれた交響曲があるのにシベリウスと言えば何とかの一つ覚えのように第2番、第2番。
しかし今回、このCDの演奏を聴いて、考え方が変わりました。
確かに第4番以降の作品と比べると、作品の持つ厳しさは薄いですが、エーテボリ交響楽団の響きで聴くと、今まで聴いてきた第2番の演奏はなんだったのであろうかと思わずにいられませんでした。
3枚のCDによる管弦楽曲も交響曲同様の感想。
特に「4つの伝説曲」を全曲、一気に聴けるのは嬉しい限りである。
節操のない聴き方をして、いろいろな演奏を聴いているからこそ、本物のお国ものの演奏を聴くと、強く感じるものがあるというべきか?
私の大好きなシベリウスの言葉。
「日はくすみ冷たい。しかし春はだんだん近づいてくる。今日は16羽の白鳥を見ることができた。神よ何という美しさか。白鳥は私の頭上を長いこと旋回して、くすんだ太陽の光の中に消えて行った。自然の神秘と生の憂愁、これが第5交響曲のテーマなのだ」
2015年は生誕150年のシベリウスイヤーである。
尾高忠明指揮による札幌交響楽団によるシベリウス交響曲全集の録音がスタートするらしい。
このところ、私にとって期待を膨らます新録音が、ほとんど無い状態が続いているだけに楽しみです。