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お互いの違いを前提に多様性を認めあうことのできる社会を・切捨て教育に抗い続ける元高校教員山田光一さん

2014-03-23 22:55:21 | どこでも誰にでも、放射能健診の実施を要求
 学校のあり方が問われている。しかし、何が問題なのかは、はっきりしていないかもしれない。教員や保護者により蓄積されてきた「大切なもの」を社会的に確認することが、必要だとあらためて思う。「平和がいちばん」3月号の取材をする中で、地道に子ども達と関わる教員に頭が下がった。 以下、「平和がいちばん」3月号から・・・

 山田光一さんの36年の教員生活は、多くの困難を抱えた生徒と向き合う手探りの毎日だった。退職後の今、教員生活での生徒とのかかわりの積み重ねの中で「互いの違いを前提に、多様性を認め合うことが社会を良くする基本」との確信に至っている。

 10歳までは東大阪市で過ごした。戦地からの帰還者が近所にいた。彼が戦場での行為を反省もなく語るのを聞き「戦争とはこういうものだ」と子供心に焼きつけられたという。60年安保で史上空前の国民的大運動が闘われた時代は「安保反対」のプラカードが家の玄関に置いてあり、「安保反対ごっこ」をして遊んでいた記憶がある。大学時代は「沖縄返還」闘争・ベトナム戦争反対の闘いの昂揚があり、熱心に関わった。ベトナム戦争は、ベトナム人民が世界最強のアメリカに勝利するという劇的な出来事だったと振り返っている。
 大学卒業後、高校の教師になった。東淀川区の高校に勤務。後に「困難校」と呼ばれる「荒れている」高校での教育のあり方が問われることになる。多くの中学から「番長」が集まり、生徒間の序列がすぐにできるという状況だった。比較的貧しく、また家庭的にも恵まれない環境の子どもが多く、在日の生徒の割合も高かった。こうした被差別の立場にある子ども達が自らの「荒れる」原因は何かを考え、社会的立場を自覚していける人権教育や在日の文化・言語を学びあう場をつくる取り組みも開始された。また、障害者も健常者も共に学び共に生きるという教育運動が始まった時期だった。いくつかの高校でも障害児の受け入れが試みられ、また普通学校で定員割れが起こると障害児が入学できる状況が、運動の力で作られはじめていた。

 クラスの集団づくりは難しかったが、うれしい思い出もある。卒業した数年後に、一人の卒業生が訪ねてきた。彼は在校中に自閉症の生徒を陰でいじめていたとのこと。しかし卒業後にある施設で働き、障害者とかかわる中で、当時の自分の行為を思い出してそのことの意味に気づいたという。在校当時はその生徒のイジメ行為には気づいていなかったし、あまり深いかかわりはもてなかった生徒であったが、卒業してからそのような過去の行為に目をそむけることなく、あやまりたいという彼の言葉に感動したという。卒業生は今も、その障害のある友人と付き合い、保護者が亡くなった今は友人を支える存在にもなっている。山田さんは、「成果はなかなか見えないが、生徒同士が卒業後、支えあえる関係になれる。学校生活で、あまり分かっていないと思えた子どもが、そのように変わることができる。政治は、なかなか良くならず、光が見えない中で、この変革は大きな希望になった」と語っている。

 今、彼は、「日の丸・君が代」不起立問題に深くかかわっている。「起立しない教師、生徒、保護者の行為を排除でなく、認められる社会にしたい。『日の丸』が直接戦争をイメージできない世代が多数になったが、戦争の記憶がうすれる中でこそ、『種』を残しておきたい」と。また、中学卒業後に生きる場所がなくなる子ども達がいる一方で、生徒や学校を成績で切り捨てて競争をあおる教育が進められている中で、「障害児や全ての人が社会的に互いに認め合える、寛容な社会をつくること」が夢だと語っている。

山田さんは 趣味は特にない」とがらも、好奇心は旺盛で、忙しい合間をぬって、あらゆる傾向の書物を手にしている。彼の部屋は書物であふれとの話が伝わとの話が伝わってきいる。 取材・文おおた幸世


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