平和で豊かな枚方を市民みんなでつくる会共同代表 大田幸世 平和が一番 市民の広場「ひこばえ」

枚方市を住みよいまちに☆原発NO!☆福祉・介護「すずらんの集い」☆枚方市駅前再整備は凍結☆市議会を変える高松まさ子

昼食会をしました

2011-10-31 20:44:58 | 政治 平和活動
 
 久々の昼食会。初めて楠葉生涯学習市民センターでおこなった。料理室は、人の出入りも多く常に満席で、楽しい時間だった。
 料理は、なんでもお手軽鍋。友人が、サトイモ、大根を持参してくださって野菜豊かな2種類の鍋になった。
 介護中の方の参加も多く、医療の問題等様々な話がでた。また、仙台から避難された方の3月以降の話は報道されていない内容も多かった。当初は一番必要な当事者に情報がなく、大変な状況で過ごされていたことも分かり、改めて原発事故の危険性、政府の無責任な姿勢を実感した。
 今後、特に東日本の放射能「震災ごみ」の問題は、枚方でも大きな問題になっていく。手塚議員から給食の食材、震災ごみの問題に対し、枚方市は「国」「大阪府」待ちで自主的に動かない姿勢であるとの報告があった。 
 参加者は、日ごろ考えていることを互いに出し合い、終始にぎやかな昼食会になった。

お通夜にいきました。

2011-10-30 14:42:43 | 政治 平和活動
 友人の夫のお母さんがなくなられた。3年ほど病気との闘いがあったという。友人の夫は、4年前54歳でなくなった。残されたお父さんは、息子と妻に先立たれたということ。その夫は、職場での権利闘争、地域での平和条例作りと懸命に生きてこられた。寂しいことが続く。この年になって葬式に行くと、寂しくてしかたない。別れの寂しさを身にしみて経験したからかもしれない。7年に渡る闘病生活で「いろう」をしながら、最後まで気丈夫だった母親を4年前に亡くしたが、その時初めて悶々とした寂しさ、どうしてももう一度話がしたいという心からの切なさを経験した。
 東日本大震災は、どれだけ多くの別れをつくりだしたのかと思うと、いたたまれない気持になる。そして、福島の原発事故。子供と母親が避難し、家族ばらばらで暮らしている方は非常に多い。人の寿命は限りがあるから、せめて人災はなくさなければ、日々の生活をみんなが心豊かに暮らせるようにとの思いが深まる。
 70歳を越えた方が最近ポッツリとおつしゃった「私も70歳なったとこだ思っていたけれど、もう74歳。若いときは考えなかったけれど、人生はあと少しと感じるようになった」と。秋の深まりの中で、1年後、5年後、10年後を考えている。

原発問題の交流会をもちました 新たな署名を開始します

2011-10-29 21:43:17 | 政治 平和活動
 この間で会った方と集った。9月から3回目になる。福島ネットの中手さん講演会、「みつばちの羽音と地球の回転」の映画上映の具体化等、枚方で新しい出会いの中で反原発の動きが強まっているが、身近な地域ではまだまだ、福島の現状が伝わっていない。給食の食材、放射能の「震災ごみ」問題・・・。課題は多く、流れも速い。
 今日は、行動をしようと様々な意見を出し合った。その一つが、署名の取り組み。署名は役に立つのかとの意見も出た。今、動かなければならない時に署名は「力」を出すのかという疑問だと思う。しかし、多くの方と話をする大切な機会にもなる。というわけで、次の署名をすることになった。署名を始めて取り組む方も当然いる。少しでも輪が広がってほしい。政府は、あてにならないのだから声をだすしかない。枚方市も、少しも放射能に対し危機意識がないのだから。署名内容は・・・。

子ども達の未来に原発はいらない   
  給食の食材の放射線測定を!放射能「震災ごみ」の受け入れ拒否を!(要請)
● 提出先   枚方市長
● 要請趣旨
福島第一原子力発電所の事故は、2011年3月11日の大震災により、1号機、2号機、3号機がメルトダウンを起こし「安全神話」は、崩壊しました。おびただしい放射能による汚染が拡大し、福島及び周辺の方々は、住みなれた家、職場を追われ、今なお不安の中で暮らされています。稼動時には死の灰を生み出し、1度の事故でここまで生活を破壊し人の健康と命を脅かす原発は人類とは共存できません。現在、地震の多い日本に54基もの原発があります。今、点検中の原子炉の再稼動の動きがありますが、全ての原子炉をすぐ停止し廃炉にすることが必要です。
食材の放射能汚染が進んでいます。汚染された牛肉が流通し、情報は消費後でした。子ども達は、放射能の影響を大きく受けます。保護者の方の不安が広がっています。子ども達の健康を守るために生産者や大阪府の検査に任せるだけでなく、枚方市による主体的な保育所や学校給食の独自検査が必要です。
また、東日本の放射能「震災ゴミ」を、「国」の要請により全国の自治体で焼却処理する動きが具体化しています。環境省は、放射性セシウム8000ベクレル/Kg以下の廃棄物の焼却とその焼却灰の埋め立て処分、その灰の放射能が10万ベクレル/Kg以下の場合は一時保管または固化して埋め立てるなどの方針を示しましたが、10万ベクレル/Kgという数値は従来の放射性廃棄物の基準値(放射性セシウム合計100ベクレル/Kg)の1000倍にあたり、原発事故前であれば放射性廃棄物として厳重に管理・処分されていたレベルのものです。福島の方も「がれきの処分を引き受けてはいけない。全国に放射能をばらまかないで」と訴えておられます。放射性物質は、いったん拡散すると回収や除染は非常に困難なので、拡散させないことが必要です。
国は、食材や「放射性廃棄物処分」について暫定値を緩和することにより、市民の命や健康を軽んじる動きがあります。枚方市として、原子力や放射能の危険性に対し主体的に情報を得て自主的な施策をとることが、必要だと考え下記のことを要請いたします。

●要請内容
1・学校・保育所の給食の放射能測定をおこない結果の公表をしてください
2・放射能に汚染された東日本の「震災ゴミ」を、受け入れないでください。
3・政府、電力会社、原子力関連企業へ次の2点を要請して下さい
①全ての原子力発電所の運転を即時に停止・廃止すること。また新規原子力発電所建設計画を破棄すること
②原子力発電に代わる環境保全分散型エネルギー(小水力・風力発電等)への転換を進めること
4・市民の命と健康を守るために市内の必要な箇所に放射能測定装置を設置して下さい
5・東日本大震災の被災者への支援を市民と共に強化してください
 

取り扱い団体・個人:
呼びかけ:平和で豊かな枚方を市民みんなでつくる会
〒573-1197 枚方市禁野本町1-5-15-106 市民の広場「ひこばえ」 072-849-1545(Fax共) 
 第一次集約(11月末) 第二次集約(    ) FAX・郵送でも可能です。よろしくお願いします。

前交野市議 栗原俊子さんの解散総会と懇親会に参加しました

2011-10-28 09:20:24 | 政治 平和活動
 隣の町の栗原俊子さんは、4期16年交野市議会議員を勤め、9月末で卒業された。私の市長選の時は、車からの手の振り方から演説の仕方まで教えてくださった。懇親会に参加して交野市の市民運動の歴史を知ることができた。20年も前、第二京阪道路の地下方式を掲げて市長選挙に出馬された方が後援会会長。以降、市議に市民派を誕生させる動きの中で栗原市議が誕生したことが分かった。
 多くの方が参加されていた。地元の方との信頼のあつさは、多くのかたの発言でよく分かる。最高齢は86歳、若い人は25歳だったと思う。

 私との出会いは、10年ほど前のイラク戦争を止めようというデモだった。デモ終了後楠葉在住の方の紹介で喫茶店にはいり、話をしたことを良く覚えている。議員に知り合いがなかったので「市民派」議員の存在を意識したのはその時がはじめて。以降何度か「憲法と暮らしを考え会」に参加させていただいた。また、5月3日憲法記念日は、交野ーー枚方ーー寝屋川ーー京田辺等で1日街頭で平和憲法の必要性を訴える取り組みをされていたが、私達枚方市民も良く合流させて頂いた。市民運動を常につくられながらの市議会議員の役割をも果たしておられたことが良くわかる。

 懇親会での後援会長の話は、橋下知事の教育基本条例批判。人権・平和を大切に考えられておられる方々の集まりだと分かる。栗原俊子後援会は解散されたが、今後も子育てグループのボランティアをなさるという。心から、長いことありがとうございましたと伝えた。
 4年後の市議選には、栗原さんの思いを引き継ぐ新しい議員が誕生するとの予感がした懇親会だった。

地域理解啓発推進活動(APPLE)に参加しました

2011-10-27 20:38:11 | 政治 平和活動
 地域理解啓発推進活動は、大阪府寝屋川支援学校、大阪府立守口支援学校、大阪府立交野支援学校・同四條畷校が年1回行っている活動です。障がいのある子どもたちの社会参加の促進を願い、支援教育への理解を市民に広げることを目的としている。APPLEは、AREA(地域)、PROPELLANT(推進)、PROMOTE(奨励)、LECTURE(講演会)、ENLIGHTENMENT(啓発)の頭文字からきているとか。

 娘を交野支援学校に通わしている友人から誘われてはじめて参加した。特別企画の講演会は、露の団六さんの落語。テーマは「噺家が考える人権・兄は楽しい?障がい者?」団六さんがダウン症の兄を語り、そして母を語った。生まれた時から兄がいる生活を具体的に紹介された。
 現在は、兄の容態は悪く入所しているが、訪問の帰り道母親が団六さんに「こんな兄を産んでごめんね。(団六さんに)異常な生活を強いて」と語ったことに対し団六さんは「自分は生まれた時から兄貴がいた。いるのが普通なんや」と母親に返したという。母親は座り込み長く泣いたという。自然に涙がでてきた。ダウン症の兄に母親が懸命に関わり、少しづつ成長していく過程や、当時の社会の障がい者への排除がある中それをのりこえ前進する家族の姿は、心にしみた。「共に地域で生きる」その意味を深く考えさせられた。