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福島賠償訴訟の第1回口頭弁論・・・福島敦子さん・・・①

2014-02-08 21:43:44 | 福島原発被災者支援
 
樟葉モール街の改修工事は、仮囲いが取られ新たな姿が見え始めています。

 昨日(2月7日)に開かれた原発賠償京都訴訟では第1回口頭弁論があった。傍聴者は傍聴席88席には入りきらないほどだったという。法廷での原告団共同代表の二人の意見陳述を読み多くの方に伝えたいと思った。以下、京都訴訟原告団共同代表 福島敦子さんの意見陳述。私は、声を出して読んだ。

 私たち原告一人一人の命とご自身の命で、向き合ってください。


         意 見 陳 述 書

                                          原告 福 島 敦 子  
  
1   2011年3月11日、私・福島敦子は、職場である下水処理場で、立っていられないほどの大きな地震に遭いました。 近くにあった高濃度の硝酸溶液の水槽のふたがずれるほど大きく揺れ、私の足に何度もかかりました。なかなか繋がらない電話で娘の小学校と近所に住む私の父へ連絡し、子供たちを迎えに行ってもらいました。 試薬の片付けをしていると、同じく水分析をしている男性職員Aの携帯電話が鳴りました。福島第二原子力発電所で働く息子さんからの電話でした。息子さんは「早く逃げないと爆発する。」と言ったまま、電話は切れたようでした。地震からまだ1時間たっていないころです。 その後、津波から間一髪で逃れた作業員の帰りを待ったり、炊き出しをしたりで、娘の待つ実家へ帰ったのは翌日になったころです。娘たちは、何があってもいいように、防空頭巾をかぶって迎えてくれました。

2  次の朝早くには、私はまた職場へ行きました。道路は崩れたブロックが散乱し、車はやっと通りました。広島や群馬からの消防団の車がスピードを上げて通りました。 下水処理場には、知らない人もいました。処理場職員が連れてきた名も知らない浪江町に住む老女で、浪江町から「避難しろ。」と言われて来たとのことでした。 職員Aももちろん出勤していましたが、原発で働いていないもう一人の息子さんが職場に来て、心配そうに何度も「おやじ逃げよう。」と言っていました。その息子さんの血相のなくなった青白い顔は、忘れられません。 職場では半日、現場の確認や分析室の掃除などをし、自宅に戻りました。私が自宅で倒れた箪笥や、壊れた皿を片付けていた午後3時過ぎ、防災無線が聞こえました。「窓を閉めろ。」という内容でした。それを聞いて私は原発が爆発したのだと確信しました。「昨日の電話は真実だったんだ。」と思いながら、部屋の掃除を淡々とし、カップラーメンや、床に散らばったほこりだらけのお菓子を持ち、実家へと向かいました。 窓が締め切られ、誰もいない暗い町を、ただ私が乗った一台だけが通りました。 実家に着くと、近所のおばちゃんの家から怒号とともに飛び出してきた青年が、私に言いました。「情報はあんまりないけどやばいって聞いた。友達もみんな逃げるって言ってる。ばあちゃんも連れて行こうと来たけど、逃げないと言うから頭にきた。俺だけでも逃げる。あんたも逃げた方がいい。」と。 「今日は、隣の飯舘まで行こう。」と、漠然と思いました。私の両親も前の家のおばちゃんと同じで「情報もないのに動きたくない。」と言いましたが、「今日だけだから。」と諭し、とりあえずカップラーメン2個とお菓子を持ち、娘の下着の換えのみで他の着替えも持たず、車に乗って、飯舘村まで向かいました。 飯舘村までの道はいつもとは違い、車が大渋滞で、夜9時を過ぎているにもかかわらず小さな子供たちを乗せた家族ばかりでした。 後に全村避難となる飯舘村の人たちは、次々に避難してくる人たちの炊き出しに追われていました。 私たちは、次の町の川俣警察署の駐車場にたどり着き、ほとんどガソリンのない車の中で車中泊をし、情報を集めることにしました。

3  13日朝になり、夜に何度か話した婦警さんに「福島市役所なら情報があるようだ。」と言われ、さらに遠くへ移動しました。 そこで、避難所が何か所かあることを知り、父は温泉街の飯坂町の文化センターのようなところを選んで登録しました。私たちの、思いがけない避難生活の始まりでした。 私たち家族は、早くに移動し、運よく避難所を選ぶことができました。窓を閉めろという防災無線を忠実に聞き、逃げ遅れた人たちは、寒い体育館や、自力では戻れそうもない県外へ、行先も告げられずに避難させられました。 

4  その後も次々に起こった、東京電力管内の福島第一原子力発電所の放射性物質の流出事故は、私たち福島県民やその近隣住民、森、田畑や川、海も、動物も、植物も、感じる全てのもの見るもの全てを、何も感じない、何も見えない放射性物質により、予想をはるかに上回る悪い方向へと一変させました。 国と東電は、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムを迅速に活用せず、私たち避難者は、得られるべき情報が乏しく不当に被ばくしました。「スクリーニング証」がなければ、次の避難所へも、病院へも行けなかったのが、当時の私たち被爆者がうけた現実です。爆発が続くたびに動くこともままならず、死を覚悟したのが、現実です。 私たち避難者とよばれる民は、子供たちの健康を考え、避難しました。自分の不安な気持ちを抑えきれず、怖さに耐えきれず、避難しました。 町の人が次々にいなくなってしまって、やむなく避難しました。 愛する家族と離れ離れになりましたが避難しました。 友達にさよならを言わずに避難しました。 頑張ってこつこつ成果を上げていた仕事をやめて避難しました。 避難したくても、ガソリンが手に入らずに避難できませんでした。 部員で一丸となって目指していた全国大会の夢が絶たれても、避難しました。 国や自治体の指示を待って屋内退避していたら、思っていたよりもとても遠くに避難させられ、病気になりました。 避難中に知り合いのおばあさんが亡くなりました。 避難先でなかなか仕事が見つからず、溝が深まった人が住まうふるさとへ戻ることにしました。 子供が避難先の生活に馴染めず除染の進まないふるさとへ戻ることにしました。 避難先で家賃が支払えずに、身も心もぼろぼろのまま戻ることにしました。 避難することを今でも理解されず、深い溝をお互いの間に残したまま、避難しました。 避難したくても、家族に言えない女学生がいます。 3年が経とうとしている今、避難に関して言えることは、何も解決に向けて動いていないということです。

5  空虚なほら穴にいるかのような3年という長い年月の流れの中で、国からも、東京電力からも、真摯な謝罪の気持ちも言葉もなく、事故の原因の究明もうやむやにしています。そのうやむやが、福島や近隣の農家や漁民など生産者の葛藤を生んでいます。 汚染水は、いまだに海へと流出し続けています。 補助金のために東北からはあまりにも遠い九州まで放射性物質を含んだ瓦 礫を運び焼却させていますが、福島県では除染が進んでいません。 近所では若くして突然死する人が増えていますが、自治体は、除染よりも火葬場設置に力を入れています。 国は、原発事故で放出された放射性物質による汚染の拡大が未解決であり、原発事故の原因究明もされていないのに、大飯原子力発電所の再稼働を強行しました。 子供たちに甲状腺がんやその疑いのある症状を持つ患者が増えていますが、マスクをしていると「マスクするのはおかしい。」などと言ったり、言われたりします。

6  健康を放射性物質から防護する生活を悪とみなすかのような全体の雰囲気が醸し出され、避難できない人の正常な判断を歪ませると共に、私たち避難者を切り捨て、苛んでいます。

7 生活再建のために申し立てた、東電への直接請求も、国の「原子力損害賠償紛争解決センター」に東電との和解の仲介を申し立てた原発ADRでも、被災者がお願いしますと何度も何度も頭を下げてやっといただいたお金は、失ったものに比べれば、納得のいく金額とは到底いえません。
  私たちに残された和解への道はこの惨めな方法しかありませんが、この方法すら選ばせてもらえない避難者も多くいます。 これらの賠償のための手続きは、被災者ではなく、東電のために用意されたものでしかありません。私たちが「よし」とする解決の手立てはなんら出来ていないのです。 

8  避難した人々が、3月11日前のあのふるさとへ戻れる日まで、家族とささやかな生活を過ごし、それを守る権利を、認めてください。 裁判官の皆さんに、原告の代表として訴えます。 私と一人の人間として向き合ってください。 幼い子供たちを守るために避難をせざるを得なかったこと、そして、幼い子供までもが、国と東電を相手取る訴訟の原告とならざるを得ないというこの悲しい現実にどうか目を向けてください。 私たち原告一人一人の命とご自身の命で、向き合ってください。 原告団共同代表福島敦子の意見陳述を終わります

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