平和で豊かな枚方を市民みんなでつくる会共同代表 大田幸世 平和が一番 市民の広場「ひこばえ」

枚方市を住みよいまちに☆原発NO!☆福祉・介護「すずらんの集い」☆枚方市駅前再整備は凍結☆市議会を変える高松まさ子

今春の保養の取り組み「やんちゃっ子」の準備が進んでいます。

2014-02-26 16:32:19 | 保養の取り組みやんちゃっ子枚方
 
 お世話になる、日本キリスト教団 香ヶ丘教会(宮之下町)

福島事故からもうすぐ3年。状況は良くなっていない。私達は、枚方での4度目の保養の取り組みを準備しています。ご支援よろしくお願いします。

今回の取り組みは・・・・日程:2014年3月29日(土)~4月3日(木)  
            場所:日本キリスト教団  香里ヶ丘教会(宮之下町)

 取り組みまで、一ヶ月となりました。参加する子どもたちも、プログラムもほぼ決まりました。今回の取り組みは、花見だ、ハイキングだ、いや観光も、と、つい欲張ってしまうのですが、何より、野外でのびのびと体を動かし、安全な食生活を送ってもらうことが出来たらと、あらためて思います。今回は、教会をお借りしてのハンドベルコンサートも準備中です。更なるご支援をお願いいたします。
<お願いすること>
① カンパ活動(振込先 郵便口座番号00940-9-257050 
          口座名 やんちゃっ子ひらかた)   
② 食事つくり 
③ 子どもたちの送迎や見守り 
④ 食材や滞在中に必要な物の提供 
⑤ バザー物品の提供

 (ご協力いただける方は、ご連絡ください)
  やんちゃっ子ひらかた 代表佐藤信江(090-6328―4006

 (福島の状況の一部です)小児甲状腺がん 異常多発

 福島県は「東京電力福島第一原発の事故当時に18歳以下だった子どもの甲状腺検査で、74人(254、000人中)甲状腺がんやがんの疑いがあると診断された」と、県民健康調査の結果を発表(2月7日)しました。通常の発見率が100万人に1人と考えると295倍に相当します。まだ検査結果の判定が70%台とのことで今後ますます増える可能性は高いと専門家は警鐘をならしています。
 県民健康調査の検討委員会に参加した福島のお母さんは、「甲状腺がんまたは疑いの子どもが増えた原因の言及はほとんどなく、検査が進んだから、増えているという反応でした。また、甲状腺癌に関しては、手術をすれは大丈夫という安易な情報も流れているので、そうすればいいと思っている方も多いと思います」と語っておられる。しかし、甲状腺癌が確定した子どもたち34人は既に手術がされましたが、甲状腺を取り除いた後もホルモン剤などの薬を飲んだりしなければならない。検討委員会は、単に「調査」ではなく「命と健康を守る健診・医療保障」を行うという姿勢になる必要があると痛感している。

参考・・・平成 23-25 年度県民検査結果・・・
・悪性ないし悪性疑い 75例
(手術 34 例:良性結節 1 例、乳頭癌 32 例、低分化癌疑い 1 例)
・男性:女性  28例:47 例
・平均年齢  16.9±2.6 歳 (8-21 歳)、
震災当時 14.7±2.6 歳(6-18 歳)


前市長の退職金5千万円は市民の税金なのです

2014-02-24 17:17:41 | どこでも誰にでも、放射能健診の実施を要求

昨日、2月23日 枚方市駅前で「どこでも、誰にでも放射能健診を求める」署名を行なった。真ん中のピンクのタベストリーは、枚方在住の高松小児科医師が、ドイツでの国際会議(核戦争防止国際医師会議からの招請による)に参加する時に届けてもらおうと、急遽友人が和風の生地で作成しさた。

 いま、市議会で問題になっている前市長の退職金返納問題。何が、問題? 分かりやすい投稿があったので「平和がいちばん」2月号に掲載した

市議会議論を傍聴して                      沢野文明

 枚方市談合事件の発覚は7年前。昨年、前市長の有罪が最高裁で確定したのを受けて、現市長は「(市長が)刑事事件で禁錮以上の刑に処せられたときは、退職手当の全額を返納させることができる」と規定されているとする条例を根拠に、前市長に支払われた退職金、2592万円×2期分、計5100万円余りの返納を請求しました。前市長への聴聞を経て、「審査会」が開かれ「返納命令は相当」との結論が出されて、1月29日、市議会で全員協議会が開催されました。

 10人の発言者のうち8人が「返還命令は不当」との質問や演説を繰り広げました。主に前市長と親密な議員からです。前市長も傍聴席の中央で熱弁に耳を傾けていました。「そもそも冤罪だ」から始まり、「前市長は市財政の赤字を克服した功績」があり「すでに刑事罰で社会的制裁を受けているのに経済制裁とは非人道的だ」「本人は無職で妻がパートに出るなど生活が困窮している。支給から10年近く経って返還せよとは人の血が通っていない」など議員達は口々に主張しました。
 
 しかし傍聴した市民の一人として、これらの主張は市民感情から外れたものだと思いました。冤罪?-有罪が確定した前市長は再審査請求していません。赤字財政を克服?‐当時どこの首長も抱える課題でした。生活困窮?‐12年間(3期)も毎年2000万円近い報酬をもらっていた人が生活苦しいのだろうか?
 
 この議員たちの議論でスッポリ抜け落ちている視点は、退職金の5100万円余は市民が納めた税金だという点です。退職金の原資は血税です。そして談合により市財政に負担をかけたことや、辞職による市長選挙の実施、この事件に関る調査や事務、各種の委員会開催など、市に要らぬ出費をもたらしたことは疑いようもありません。その費用の出どころも税金です。また、一般職員が同じように「禁固以上の刑に処せられた」場合、退職金はゼロです。有無を言わせぬ冷徹な処分なのです。世話になり面倒見の良い市長だったから「退職金を返せは不当だ」というのは、市民の普通の感覚と余りにも乖離があり過ぎます。
 若い議員が、前市長に対する「血が通った」処遇を要望して熱弁をふるいましたが、「君のヒューマンな心情は素晴らしい。そのヒューマンな気持ちで、若い世代の不安定雇用や市役所で働く非正規職員の労働条件向上のために尽力して欲しい」と心より思いました。

みんなでつくる広場“ちょこっと”を立ち上げた 山本節子さん

2014-02-20 17:58:09 | 月刊『平和がいちばん』
 「平和がいちばん」の市民をつなぐ「わわわのわ」から 市民同士がつながる楽しさを感じながら取材を続けています。

 独り住まいや家にこもりがちな人達の居場所を地域でつくることが大切 
 
 山本節子さんが呼びかけて、楠葉に『みんなでつくる広場“ちょこっと“』ができたのが5年前。

彼女は毎年お盆と正月はふるさとの徳島に帰っている。今年100歳になる祖母に会うためだ。その度に、おじ、おば、いとこが集まる食事会に家族で参加する。幼い頃、祖父母の営む梨農園へ収穫や袋入れを手伝う両親に連れられて行った。さまざまな世代が交流し、母親が曾祖母の爪を切っていた姿が印象に残っているという。高齢者を家族、地域で支えあうのが「当たり前」に育った。東京の看護学校卒業後に就職した兵庫の病院は結婚退職。二児を育てながら働いた京都の病院では、労働組合の執行委員を引き受けた。病院側につく第二組合ができ、団体交渉は難航したが、組合主催の研修や会議で保健師や他の病院の看護師などに出会い、視野が広がったという。楠葉の社宅生活の後に夫の転勤で4年間暮らした香川県では、大人から見た「良い子」の枠にはめようとする教育に疑問を持ち、PTA活動に参加し、子どもや障害児の人権を考えるようになった。その時の様々な経験が彼女を行動的にしていった。

1997年に介護保険法が成立した。2000年の施行に向けて制度の具体化が進められていた。当時、作業所で食事介助のボランティアをしていた彼女は、対象者の薦めで第一回目のケアマネジャー試験を受け資格を取得した。夫の転勤で楠葉に戻り、津田にある総合福祉センターで働くかたわら、2000年からケアマネの仕事も開始した。介護保険サービスの実態を知らなければケアプランを立てられないと思い、法施行前にケアマネ同士の情報交換の場を呼びかけた。30人余り集まったケアマネとの顔の見える関係作りは、その後の仕事の大きな力となった。彼女は、地域包括(地域包括支援センター)創設時から楠葉エリアの介護予防支援にかかわった。地域包括は、介護相談を始め高齢者支援の最初の窓口。「要支援認定者への個別訪問は時間がかかり、担当件数も多く残業や休日出勤もしたが、楽しかった」と振り返っている。

彼女は子どもからお年寄りまでが集うことが当たり前の地域にしたいと考えていた。そして、地域で出会った何人もの中途障害者を通じて、誰もが働いた経験を退職後に活かしきれていないのは「もったいない」と思い、介護の有無にかかわらず、第二の人生づくりが必要だと痛感した。介護保険法で謳っている自立支援とは、障害があっても高齢でも生きがいを持って暮らすことを支えること、それができる地域包括になればと考えていた。彼女は、楠葉生涯学習市民センターを活用し、高齢者が将来に夢を持ち身体も心も元気になる一つの方法として童謡・唱歌を歌い語り合う『みんなで歌おう』を作り出したりもした。しかし地域包括では、日々の仕事に追われ、行政や介護保険法だけでは解決できない問題点も見えてきた。

彼女は思い立った。「家にこもりがちな人が、買い物帰りに気軽に立ち寄り休憩し、独り暮らしの人も皆で一緒に飲食できる、そんな居場所を高齢者と共につくろう。それが高齢者の生きがいにつながる。地域の世代交流の場にもしたい」と。この5月で5年になる。ボランティアスタッフも定着し、利用する人も増え運営費を捻出する自転車修理やバザーも根付いた。「お誕生会」「脳トレ」「はがき絵」「アコーディオンライブ」等、取り組みを通じて笑顔が増えてきた。

彼女には気になることがあった。それは、10年近く単身赴任している夫のこと。定年が間近にせまり、老いの準備を考え始めた。夫の健康状態も心配だ。「夫が支えてくれたから、自分がしたいことが出来た。定年後、一緒に歩んでいくには、今、一緒にいることが大切」と考えた彼女は、しばらく枚方を留守にする。「夢は、ふるさと徳島で“ちょこっと”のような居場所を夫と協力してつくること」と語る山本さん。いつでも微笑みをたやさず、一途に夢の実現に向かう彼女に拍手!
取材・文おおた幸世

枚方市は被災者支援法に基づき、独自施策をつくってください

2014-02-17 21:36:49 | 福島原発被災者支援
 枚方市の危機管理室の担当の方との話し合いを続けている。この間、東日本からの避難者登録が2世帯増え34世帯になったという。東日本大震災、福島原発事故からもうすぐ3年になる。今なお、復興からは程遠い状況が続いている。福島原発からの放射能の放出は続いている。二度とこのような事故は許してはならない。そして、ふる里をはなれて暮らしている方々を孤立させてはいけないと思う。以下、要請内容・・・・少しづつでもよくなればとの思います。

 ご存知の通り昨年12月の枚方市議会において「原発事故子ども・被災者支援法の基本理念に基づく具体的施策の早期実現を求める意見書」が全議員の賛成で可決されました。
 今回の意見書の趣旨として「福島第一原子力発電所事故から2年8カ月が経過した今もなお多くの方が住み慣れた地域を離れて避難されており、住宅や仕事の確保、子どもの健康不安を初め、二重生活や帰省の費用等さまざまな負担を強いられています。また、健康被害、とりわけ子ども、若い世代への影響を考えれば、一刻も早い対処が必要です」と書かれています。具体的施策としては、以下の3点の措置を求めています。1.同法の基本理念に基づき、基本方針による施策をより充実、具体化させるために必要な財源措置を講じること。2.地方自治体が実施する関連施策に対しても国が支援を行うこと。3.基本方針による施策の具体化に当たっては、同法の基本理念に基づき、被災者の意見を十分に反映する仕組みを作ること。

私達は、以上の内容の意見書が採択されたことを非常にうれしく、また大きな励みにもなっています。

 福島や北関東の様子が伝わってきています。高線量の放射能の下で子ども達が、自由に外あそびができる状況ではありません。放射能は県境を越え放射能のホットスポット地域が福島県以外にも多くあります。福島第1原子力発電所の事故からもうすぐ3年ですが、いまなお避難者がふるさとに戻れないだけでなく、新たに母子避難されている方もいます。その方々の中には「避難者」登録をせずに、懸命に2重生活を維持している方もおられます。私達は、このような状況を知る中で、暮らして良かったと思える枚方市になることを願い、今回の枚方市議会の意見書採択を大切にする具体化として下記の要請をいたします。回答は文書にて2月末までにお願いします。

(要請)
①枚方に避難している方への家庭訪問やアンケートを実施し生活実態を知り困っていること等を把握してください。また「広報」等を通じて避難者登録していない方への働きかけをしてください。
②放射能健康診断をはじめとする各種健康診断の無料実施をして下さい
③2重生活を支えるための仕事探し、保育所の入所支援、保育料の減免措置をして下さい
④福島の子供達が枚方市の子供達と交流できる方法を検討して下さい
⑤保養キャンプなどの保養プログラムへの助成など保養の取り組みへの支援の具体化を検討してください。また、ホームステイ・クラブの合宿・空き家の活用等さまざまな方法を検討し実現して下さい

 要請者 放射能から子どもたちを守る枚方の会
     ひらかたAKAYの会  
     放課後クラブ「あぢゃ」
     枚方被災者とともに考えできることからやろう会


福島賠償訴訟の第1回口頭弁論・・・福島敦子さん・・・①

2014-02-08 21:43:44 | 福島原発被災者支援
 
樟葉モール街の改修工事は、仮囲いが取られ新たな姿が見え始めています。

 昨日(2月7日)に開かれた原発賠償京都訴訟では第1回口頭弁論があった。傍聴者は傍聴席88席には入りきらないほどだったという。法廷での原告団共同代表の二人の意見陳述を読み多くの方に伝えたいと思った。以下、京都訴訟原告団共同代表 福島敦子さんの意見陳述。私は、声を出して読んだ。

 私たち原告一人一人の命とご自身の命で、向き合ってください。


         意 見 陳 述 書

                                          原告 福 島 敦 子  
  
1   2011年3月11日、私・福島敦子は、職場である下水処理場で、立っていられないほどの大きな地震に遭いました。 近くにあった高濃度の硝酸溶液の水槽のふたがずれるほど大きく揺れ、私の足に何度もかかりました。なかなか繋がらない電話で娘の小学校と近所に住む私の父へ連絡し、子供たちを迎えに行ってもらいました。 試薬の片付けをしていると、同じく水分析をしている男性職員Aの携帯電話が鳴りました。福島第二原子力発電所で働く息子さんからの電話でした。息子さんは「早く逃げないと爆発する。」と言ったまま、電話は切れたようでした。地震からまだ1時間たっていないころです。 その後、津波から間一髪で逃れた作業員の帰りを待ったり、炊き出しをしたりで、娘の待つ実家へ帰ったのは翌日になったころです。娘たちは、何があってもいいように、防空頭巾をかぶって迎えてくれました。

2  次の朝早くには、私はまた職場へ行きました。道路は崩れたブロックが散乱し、車はやっと通りました。広島や群馬からの消防団の車がスピードを上げて通りました。 下水処理場には、知らない人もいました。処理場職員が連れてきた名も知らない浪江町に住む老女で、浪江町から「避難しろ。」と言われて来たとのことでした。 職員Aももちろん出勤していましたが、原発で働いていないもう一人の息子さんが職場に来て、心配そうに何度も「おやじ逃げよう。」と言っていました。その息子さんの血相のなくなった青白い顔は、忘れられません。 職場では半日、現場の確認や分析室の掃除などをし、自宅に戻りました。私が自宅で倒れた箪笥や、壊れた皿を片付けていた午後3時過ぎ、防災無線が聞こえました。「窓を閉めろ。」という内容でした。それを聞いて私は原発が爆発したのだと確信しました。「昨日の電話は真実だったんだ。」と思いながら、部屋の掃除を淡々とし、カップラーメンや、床に散らばったほこりだらけのお菓子を持ち、実家へと向かいました。 窓が締め切られ、誰もいない暗い町を、ただ私が乗った一台だけが通りました。 実家に着くと、近所のおばちゃんの家から怒号とともに飛び出してきた青年が、私に言いました。「情報はあんまりないけどやばいって聞いた。友達もみんな逃げるって言ってる。ばあちゃんも連れて行こうと来たけど、逃げないと言うから頭にきた。俺だけでも逃げる。あんたも逃げた方がいい。」と。 「今日は、隣の飯舘まで行こう。」と、漠然と思いました。私の両親も前の家のおばちゃんと同じで「情報もないのに動きたくない。」と言いましたが、「今日だけだから。」と諭し、とりあえずカップラーメン2個とお菓子を持ち、娘の下着の換えのみで他の着替えも持たず、車に乗って、飯舘村まで向かいました。 飯舘村までの道はいつもとは違い、車が大渋滞で、夜9時を過ぎているにもかかわらず小さな子供たちを乗せた家族ばかりでした。 後に全村避難となる飯舘村の人たちは、次々に避難してくる人たちの炊き出しに追われていました。 私たちは、次の町の川俣警察署の駐車場にたどり着き、ほとんどガソリンのない車の中で車中泊をし、情報を集めることにしました。

3  13日朝になり、夜に何度か話した婦警さんに「福島市役所なら情報があるようだ。」と言われ、さらに遠くへ移動しました。 そこで、避難所が何か所かあることを知り、父は温泉街の飯坂町の文化センターのようなところを選んで登録しました。私たちの、思いがけない避難生活の始まりでした。 私たち家族は、早くに移動し、運よく避難所を選ぶことができました。窓を閉めろという防災無線を忠実に聞き、逃げ遅れた人たちは、寒い体育館や、自力では戻れそうもない県外へ、行先も告げられずに避難させられました。 

4  その後も次々に起こった、東京電力管内の福島第一原子力発電所の放射性物質の流出事故は、私たち福島県民やその近隣住民、森、田畑や川、海も、動物も、植物も、感じる全てのもの見るもの全てを、何も感じない、何も見えない放射性物質により、予想をはるかに上回る悪い方向へと一変させました。 国と東電は、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムを迅速に活用せず、私たち避難者は、得られるべき情報が乏しく不当に被ばくしました。「スクリーニング証」がなければ、次の避難所へも、病院へも行けなかったのが、当時の私たち被爆者がうけた現実です。爆発が続くたびに動くこともままならず、死を覚悟したのが、現実です。 私たち避難者とよばれる民は、子供たちの健康を考え、避難しました。自分の不安な気持ちを抑えきれず、怖さに耐えきれず、避難しました。 町の人が次々にいなくなってしまって、やむなく避難しました。 愛する家族と離れ離れになりましたが避難しました。 友達にさよならを言わずに避難しました。 頑張ってこつこつ成果を上げていた仕事をやめて避難しました。 避難したくても、ガソリンが手に入らずに避難できませんでした。 部員で一丸となって目指していた全国大会の夢が絶たれても、避難しました。 国や自治体の指示を待って屋内退避していたら、思っていたよりもとても遠くに避難させられ、病気になりました。 避難中に知り合いのおばあさんが亡くなりました。 避難先でなかなか仕事が見つからず、溝が深まった人が住まうふるさとへ戻ることにしました。 子供が避難先の生活に馴染めず除染の進まないふるさとへ戻ることにしました。 避難先で家賃が支払えずに、身も心もぼろぼろのまま戻ることにしました。 避難することを今でも理解されず、深い溝をお互いの間に残したまま、避難しました。 避難したくても、家族に言えない女学生がいます。 3年が経とうとしている今、避難に関して言えることは、何も解決に向けて動いていないということです。

5  空虚なほら穴にいるかのような3年という長い年月の流れの中で、国からも、東京電力からも、真摯な謝罪の気持ちも言葉もなく、事故の原因の究明もうやむやにしています。そのうやむやが、福島や近隣の農家や漁民など生産者の葛藤を生んでいます。 汚染水は、いまだに海へと流出し続けています。 補助金のために東北からはあまりにも遠い九州まで放射性物質を含んだ瓦 礫を運び焼却させていますが、福島県では除染が進んでいません。 近所では若くして突然死する人が増えていますが、自治体は、除染よりも火葬場設置に力を入れています。 国は、原発事故で放出された放射性物質による汚染の拡大が未解決であり、原発事故の原因究明もされていないのに、大飯原子力発電所の再稼働を強行しました。 子供たちに甲状腺がんやその疑いのある症状を持つ患者が増えていますが、マスクをしていると「マスクするのはおかしい。」などと言ったり、言われたりします。

6  健康を放射性物質から防護する生活を悪とみなすかのような全体の雰囲気が醸し出され、避難できない人の正常な判断を歪ませると共に、私たち避難者を切り捨て、苛んでいます。

7 生活再建のために申し立てた、東電への直接請求も、国の「原子力損害賠償紛争解決センター」に東電との和解の仲介を申し立てた原発ADRでも、被災者がお願いしますと何度も何度も頭を下げてやっといただいたお金は、失ったものに比べれば、納得のいく金額とは到底いえません。
  私たちに残された和解への道はこの惨めな方法しかありませんが、この方法すら選ばせてもらえない避難者も多くいます。 これらの賠償のための手続きは、被災者ではなく、東電のために用意されたものでしかありません。私たちが「よし」とする解決の手立てはなんら出来ていないのです。 

8  避難した人々が、3月11日前のあのふるさとへ戻れる日まで、家族とささやかな生活を過ごし、それを守る権利を、認めてください。 裁判官の皆さんに、原告の代表として訴えます。 私と一人の人間として向き合ってください。 幼い子供たちを守るために避難をせざるを得なかったこと、そして、幼い子供までもが、国と東電を相手取る訴訟の原告とならざるを得ないというこの悲しい現実にどうか目を向けてください。 私たち原告一人一人の命とご自身の命で、向き合ってください。 原告団共同代表福島敦子の意見陳述を終わります