ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

溝口のパーソナル開発研究所

2010-07-15 08:18:35 | 昔話

私は、田園都市線の宮崎台にあったNECの中央研究所から溝口のパーソナル開発研究所に1992年に異動になったのだがその初めの頃について書こう。
以前書いたようにこの組織はNECホームエレクトロニクスの研究所を母体として作られており、私の部は研究所から私ともう一人、事業部から3-4人に加えて残りの人達はもともとホームエレクトロニクスの開発研究所の人達、それも新人が多かった。

研究所や事業部から移った人はそれぞれちょっと名の知れたような人たちだったのに対してホームエレクトロニクスの人は殆どが無線の素人であり、技術ギャップから若い人たちを教えるのには大変苦労した。特に事業部から来た課長クラスの人が苦労していた。

驚いたのは業績が悪く、研究所を維持できないような状況になりながら、前年度大量の新人を採用していた点である。こういうマネージメント力の弱さが業績のあったにつながるのかと思った。

職場に行ってまず感じたことは照明が薄暗いことだった。各個人のスペースは非常に狭く、そして殆ど席に居ない。事業部に出稼ぎに行っている人が半分以上いて、そうでない人も実験室にこもっているのだった。私は自分の部だけは違うという雰囲気を出すために、打ち合わせなどもできるだけ、出向かないで自分たちの居る場所でやって、組織としての存在感を高めようと思った。

当時はヨーロッパでGSMが始まる時期であり、日本では日本独自方式であるPDCを開発中、更にQualcommがCDMA方式を提案している、という技術が大きく変わる時期であり、事業部のトップはどの方式にどれくらいの開発人材を割くかで頭を悩ませていたことである。日本方式は目処が立っていたのでCDMA方式が実用化になるのかどうかを見極めようということで、新技術や方式は私の古巣の中央研究所にお願いして開発研究所は試作に注力した。

デジタル方式の黎明期であったので回路規模や消費電力が気になっており、これらを小さくするために色々な方法を考えて特許を出したりしたのだが、後の半導体技術の進歩を振り返ると細かい改善よりも大きな意味で本筋を行って、考え方をシンプルにすることが重要だった。その点では私よりも事業部から来た課長のほうが見識を持っており、彼の意見に影響を受けたものである。

中央研究所の無線グループは別の人が課長になっていたが、その人は無線の研究者では無かったため、私の依頼で研究者が動くことが結構あり、研究所の中では「早く自立しろ」とずいぶんプレッシャーを受けていたようである。


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