ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

3GPPの議長を降りる

2011-08-12 14:57:12 | 昔話

2001年3月、私は2年間勤めた3GPPの無線グループの議長を退任した。私の後任には副議長であったフランス人の人が着任した。

私自身はその年の2月に辞令を受けて携帯電話端末を作る事業部に異動になっている。会議の最後に退任のあいさつをすると、皆が立ち上がって拍手をしてくれた。2年間の様々なことが思い出され、感無量だった。日本にいては到底得られないような貴重な経験をさせてもらったと思っている。特に私の場合には立ち上げの時期だったので、組織の仕組みを整備しながら技術論議を進めていく、というやり方でどういう人がどういう提案をしてどのように受け入れられていくか、ということがつぶさに感じ取れた。

日本だと誰かが制度設計してその上で皆が走るという感じが強いがヨーロッパでは皆で制度自体を作って行こうという気概を感じる。こういった点にヨーロッパの民主主義の深さというようなものがあるのではないかと思っている。

その後私は2007年の5月にNECを退職している。普通の人よりはやや早めの定年退職で個人としてのコンサルティング活動に入った。退職すると言えば「どこかの会社に変わるのだろう」と思われていた時に独立すると言ったので多くの人が驚いた。こうした選択をすることができたのも議長経験があったからだと思っている。「議長を続ければNECを早めに辞めることになるだろう」と思って議長を降りたのだが、それでも結果としてはNECを早めに辞めることになった。しかし、事業部での経験は私にまた全く違った知見を与えてくれたので、事業部に移ったことに関しては全く後悔していない。議長を続けていれば違った人生があっただろうが、自分の選んだ道自体には満足している。

「昔話」というカテゴリーで書き続けてきたこのコーナーはこれで打ち止めにしようと思う。事業部に言った頃に世界進出を目指したNECは結果として失敗し、国内事業に身を縮めたのだが、そのプロセスは「昔話」として語れるものではなく、現在につながっているものである。現在ももこの事業を引き継いで頑張っている人が多数いる中で、自分の思いを不特定多数の人が読むブログに書くことは不適切だと思っている。

何年か後に「もう良いだろう」と思える日が来れば再開するかもしれないが、それまでは「昔話」コーナーは凍結させていただく。


3GPPのIMSの議論

2011-08-08 16:51:47 | 昔話

2000年の終わり頃になって電話のIP化の議論が3GPPで急速に盛り上がってきた。3GPPを設立した頃は基地局とのインターフェイスにIPよりもATMが採用されたのだが、1年半ほどで流れは完全にIPの技術に向かい、これまで回線交換で扱われてきた電話サービスをIP技術を使って提供しようという流れになってきたのである。3GPPではATMの部分をIPに置き換える、話は2000年の初めから進んでいた。ただしこの時は基地局の識別番号をATMのアドレスからIPアドレスに置き換えるだけで中身の処理は変わっていなかった。2000年の終わり頃になって、処理もIPにしていわゆるIP電話を標準化しようという機運が高まってきていた。

当時固定網ではIP電話の導入が始まっていて電話のIP化の動きは始まっていた。これに賛同したのがオペレータたちで、彼らは日ごろから電話交換機が高いと感じていたのでその電話交換機を買わなくて済むようになる、IP電話の導入には賛成だった。

これに必死に抵抗したのがエリクソンである。エリクソンはIPで回線交換的なサービスを提供するのは確かに魅力的だが、電話の要求条件は厳しく、緊急呼の扱いなどの特殊なサービスもあるのでまだ機が熟していない。最初は電話サービスではなくIP網上の音声サービス、あるいはマルチメディアサービスとして電話とは分けて導入し、将来的に電話サービスを取り込むというシナリオにするべきだと主張した。

私は、交換機の話で無線とは直接関係がないので傍観者的に見ていたが、多くのオペレータは「エリクソンは交換機をまだ売りたいからあんなことを言っているんだ」と言って信用せず、議論はエリクソン対オペレータ連合の様相だった。他の交換機ベンダは、顧客を敵に回したくないのであまり発言しなかった。エリクソンはオペレータ全体を敵に回して苦戦していたが、最大オペレータであったボダフォンを説得して、ボダフォンが当面電話にはしない、と言い始めて、オペレータ連合はあきらめた。

そこでこのシステムはIPシステムの中にあるマルチメディアを扱うシステムということでIMS(IP Multimedia Subsystem)と命名された。IMSは2002年6月に凍結されたRelease 5で最初に標準化されたが、結果的にエリクソンの読みは正しく、現在に至るまで電話は回線交換でサービスが提供されている。こういった、技術的な信念で顧客を敵に回してでも頑張るエリクソンの姿勢は日本のベンダには無かったもので私には大変印象的だった。

 


3GPP議長を続けるかどうかの悩み

2011-07-26 08:31:14 | 昔話

2000年の後半に入り、Release4も大分進んできたあたりから、私は3GPPの議長を続けるかどうかを考え始めた。議長の任期は2年間であるので2001年3月が次の選挙のタイミングとなる。自分が続けたいという意思を示せば再任されそうだとは思っていた。

3GPP議長の仕事は面白く、私に新しい世界を開いてくれたし、世界の色々な人と一緒に仕事を続けていることに興味もあり、自分としてはこの仕事は自分のためになると感じでいた。一方で、副議長に頼り過ぎているのではないかという意識もあり、もっと会社の仕事を減らしてでも議長に仕事に深く取り組まないといけないのではないか、とも感じていた。当時はネットワークのIP化とか高速パケット伝送とかが大きな話題になってきており、無線分野の議長としてももっとネットワークの勉強もしないといけないのではないかとも思っていた。その一方で議長職に更にエネルギーを注ぎ込めば、会社はいずれ辞めてよその会社に移ることになるだろうな、という予感がしていた。議長の仕事が会社の事業にうまくつながっていない感じがしていた。

会社の業務のほうでは、当時私は開発研究所の所長代理という立場だったが携帯端末の事業部門に来ないか、という話が来ていた。それはそれで魅力的なものだった。標準化の活動をしながらも色々な会社の戦略を目の当たりにして、より事業に踏む込みたいという気持ちもあった。事業部に行けば議長の仕事は増やすどころか議長は辞めないといけないだろうと思っていた。

迷った末、私は議長職は2001年3月で降り、事業部でWCDMAの実用化を目指す道を選んだ。あのとき議長を継続する道を選んでいればその後全く違った人生が待っていただろうと思う。しかし、議長を降りて事業部で仕事をすることにした自分の決断に対しては全く後悔していない。入社して20年以上も研究畑に居てから事業部に行くと、それなりの地位で行くことになるのだが、現場をうまく動かせずうまく行かないと言われていた。確かにそういった側面はあったが、業務はある程度現場から距離のある仕事を任せられたし、なによりも事業部にいる間に生産工場に通ったり、デバッグに入ったりしたことが自分にとって事業というものの理解を深めさせ、自分の物の見方に幅が出ていたと思う。

事業部での仕事は成功したとは言い難かったが、自分にとっては大きなプラスになったと思っている。


3GPP Release4へ向けた動き

2011-07-12 08:07:12 | 昔話

最初の3GPPの仕様がまとまり、2000年に入って3GPPは次の仕様書の作成に向けて動き出した。次の仕様書はRelease4と命名された。Release'99が1999年に発行された仕様書なら次はRelease'00となりそうなものであるが、毎年1回仕様書を発行するのは無理があるということで年号とリンクしないで仕様書のバージョンとリンクさせようということになったのである。Ver1.0は未完成であるが一応紹介するに足るレベル、Veri2.0は承認を求められるレベルまで完成度が上がったもの、Ver3.0以降が正式仕様書となる。Release'99はVer3.0となり次の正式仕様書はVer4.0となることからRelease4と呼ばれることになった。現在3GPPではRelease10が固まりRelease11の審議に入っているので、1年ちょっとで1リリースと言える。

Release4は時間的に99年中に間に合わせることを目標に急いで作ったRelease'99の弱点を補強することを主目的で作っていたが新しい技術もあった。その一つは中国提案であるTD-SCDMAの正式仕様化であった。これは送受同一周波数を用いるTDD方式であったためLow Chip Rate TDDと呼ばれた。3GPP設立前に大議論をしたRelease'99のTDD方式のTD-CDMAはいまだに商用化されていないが、このTDS-CDMAは中国で徴用サービスが始まっている。

もう一つのRelease4の目玉はIP Transportであった。Release'99のノード間インターフェイスはATM(Asynchronous Transfer Mode)と呼ばれる、画像伝送に適したインターフェイスだったのだが、世の中の流れがIP技術に向かっているため、IPを3GPPのノード間インターフェイスで使えるようにしたものである。これは無線プロトコルなどには一切手を入れず、基地局の識別番号をATMのアドレスに加えてIPアドレスでも良いことにしようという動きだったのでそれほど抵抗なく受け入れられた。このATMとIPは90年代に大議論になり、通信業界はATM、コンピュータ業界はIPを押しており、私自身無線ATMの論文を書いたりしていたので最初3GPPの仕様はATMを使うことになった。しかし、今はすっかりIP全盛になっている。画像よりデータがトラヒックの中心だったということを意味している。

この時のエリクソンの動き方には感心させられた。エリクソン自身、通信業界の会社なのでATMを押していたのだがいち早くIP化に眼をつけた。これだけなら技術のトレンドを読んだというだけのことなのだが、エリクソンはその標準化に際して、IP技術の標準化をしているIETFと3GPPを連携させようとして動いたのである。つまり、IP上で無線のために何か新しい機能を作る必要が出てきたときに3GPPが自分で作らずにIETFに依頼を出して動いてもらえる体制を作ろうとしたのである。最初のうちはIETFからは殆ど相手にされずに難航していた。しかし活動を継続し半年も経つと次第に認知されて相手も土俵に乗ってくるようになる。仲介役の仕事を任された人物も最初は頼りない感じだったのだがどんどんしっかりしてくる。

ある程度、双方の意識があってきた段階で、3GPPとIETFの幹部同士の意見交換会があった。3GPP側は私を含む議長連、IETF側はエリア・ディレクターと呼ばれる人たちであった。話をしてみて連携の難しさが良く分かった。3GPPの側は会社が単位となっており、目標設定をしてゴールに向かって突っ走るというやり方に慣れている。一方IETFのほうは大学教授が中心で、良いものは作ってみようという姿勢である。仕様ができたからと言って使われるとは限らない。ボトムアップ的アプローチである。IETFは既存の権威に頼らず草の根的に広がってきたものが世界から注目を浴びるようになってきたものなので上から命令されることを非常に嫌う体質がある。価値観が全く違う団体であることを認識させられた。

それでも、IETFとしてもモバイルネットワークは将来のために重要であるという認識があるので、それなりに話は聞いてくれる。3GPPが頭を低くしてお願いする、という体制だった。こうしてお互いに相手のやり方に不満を持ちつつも現在まで関係は続いており、3GPPのネットワークはインターネットと整合を取りつつ進んでいる。こういう難しい仕事を大きなエネルギーをかけてやり遂げるところにエリクソンが通信業界でトップ企業となった源泉があると思う。


 


Release'99の完成

2011-06-21 08:00:49 | 昔話

1999年12月、私が3GPPの議長に着任して9カ月で最初の3Gシステムの仕様書である3GPPの仕様書Release'99が完成した。3GPPはこの仕様種を各国の標準化団体に提示し、各国そろって同じ仕様書を世界通信連合ITU-Rに提案することにより各国政府が認める国際的3Gシステム、IMT2000が完成した。

この仕様は技術的な意味だけでなく決定プロセスとしても大きな意味があった。それまでITUが決める仕様書はITUで議論をして決めていたのだが、この時からITU-Rは提案書の内容が3Gにふさわしいかどうかという審査はするが、具体的な技術の詳細は審議せず、3GPPの仕様を参照する、という形にしたのである。これ以降、実質的な世界標準の審議は3GPPに移ることになった。欧州の政府はそのことを良く理解していて必要な場合には政府の官僚自ら3GPPに参加したりしているが、日本の政府は10年以上経過した今でも形式を重んじてITUにしか参加しない。日本の標準化機構も政府の審議する会議などはITUの内容を審議するものになっている。日本国内では移動通信関係者は3GPPが実質の審議の場であることを皆知っているが、それ以外の人はITUで決めていると今でも思っている人が少なくない。

1999年に3Gの仕様を固めることは日本の強い意向であったので私自身、固まるように尽力してきたし、日本のみならず欧州の企業も積極的に協力してくれた。組織設立から1年足らずで標準仕様はまとまるというのは驚くべき早さであり、当初は不安を抱えつつ参加していた各国の標準化団体もこれからは3GPPを軸として標準化活動をしていこうと腹を決めて、3GPPのスコープを「3Gの最初の標準をまとめる」から「3Gの標準を長期的に維持改版する」に変更した。

この仕様を固めるにあたって非常に大きな貢献をしたのはドコモとエリクソンと言えると思う。ドコモは技術面で、エリクソンは技術面とプロジェクトの進め方で貢献した。エリクソンの進め方に対する提案は議長の私にとっては大きな助けとなった。

しかしながら技術内容はまだ不安定要因を数多く残していた。ハードウェアの仕様は固まっていたと言えるがソフトウェアに関してはあいまいな点が多く、仕様書を読めば誰でも同じものを作れるというレベルにはまだほど遠かった、といえる。3GPPでは確定させた仕様書に変更が入る場合にはCR(Change Request)と呼ぶ資料を提出して訂正するのであるが、Release'99はその後1年以上にわたって大量のCRに悩まされることになった。

3GPPは無線分野での安定化作業を行うと同時に、次の大きなターゲット、ネットワークのIP化に向けて走り始めた。


突如現れたOHGからのプレッシャー

2011-05-23 08:34:49 | 昔話

1999年順調に船出した3GPPがその後突然現れたOHG(Operator's Harmonization Group)というグループに随分掻き回されることになる。

これは3GPPが設立してから3-2カ月後にアメリカのcdmaグループが同様の趣旨の団体3GPP2を設立したことに対して、世界の大手オペレータが集まって3GPPと3GPP2の一本化を求める声明を出したものである。オペレータの集まりなのでベンダは招待されておらず、オペレータ間で実現性を議論していたが、結局オペレータでは技術が良く分からないのでベンダの意見を聞くという話になった。

このOHGはカナダのオペレータが言い出したものだが、3GPPと3GPP2の一本化の技術的化の可能性に関してはARIBで私が議長をして3GPP設立前にさんざん議論してその結果、一本化は無理だという結論になったので、この議論は3GPPの議事進行を遅らせようとするアメリカ側の嫌がらせではないか、と思ったりしたものである。ドコモは大手のオペレータとして当然OHGグループに入っており、一緒に議論をしたのにこんな話を出してくるなんて、と当時私は思ったものである。ドコモの人は抑えようと努力したけれども抑えきれなくなった、というのが実情らしい。

ARIBで議論した時と同じような点が論点になり、オペレータをなだめるために妥協案を検討した。その妥協案としては、①3GPP陣営はチップレートを4.096Mから3.84Mに変更する。②3GPPと3GPP2の両方で使える端末ができるようにプロトコルを工夫する。すぐには無理なので後で機能追加ができるように仕組みを用意しておく(これをフックと呼んだ)の2点である。

①は3GPP2と合わせたわけではない。3GPP2は3.68Mだったので実質的に意味はない。それまで1フレームを16スロットで検討していたものを15スロットに変更すればできるというエリクソンの提案だった。若干レートは落ちるがエリクソンは実現性に不安を感じていたのだろうと思う。

このような提案を含むベンダレポートを作るためにベンダ間の電話会議を頻繁に行った。これが5月のゴールデンウィークの時期で最後のレポートをまとめる会議はそれぞれの陣営が細かい言葉までこだわり、日本時間で夜の8時から朝の9時までの完全徹夜になった。

これで、一応OHGは納得し、3GPPと3GPP2の合同会合も開いて表面上はお互いにつながるようにしたのだが、結果として特につながるようなアクションは取られておらず、OHGというグループもすぐに消えてなくなった。

世の中、時々このような不合理の起こるものである。


3GPPの議長に就任

2011-05-12 08:46:03 | 昔話

1999年3月、第2回の3GPPの親会議であるTSG会合が開催され私は3GPP TSG-RANの議長に選任された。開催地はアメリカフロリダのFort Lauderdaleだった。当時のTSGが4つあり、それぞれTSG-CN(コアネットワーク)、TSG-SA(サービス、システム全体)、TSG-T(端末)、TSG-RAN(無線ネットワーク)の4つでドイツ人、デンマーク人、韓国人、そして日本人の私が議長に選任された。

議長選出は選挙で行われる。3GPPの選挙のやり方は独特で、一人ずつ選挙を繰り返す。3GPPの投票は原則としてどれかの案が70%を超える賛成を得るまで決定しないことにしているので時間がかかる。例えばこの時の副議長はそれぞれのグループで二人ずつ専任するのだが、まず一人目の副議長の選挙を行う。ここに5人が立候補したとすると、なかなか一人が70%以上を獲得するのは難しい。第1回目の選挙で上位2名に絞る。次に第2回目の選挙を上位2名で行いどちらかが70%を超えれば決まり。越えなければ第3回目の投票を行う。この時には尾は時候補者での2度目の投票なので得票の多いほうの候補者に決定する。選挙の場合には誰かを選任しなくてはならないので最後はわずかでも多い候補者に決めるが、技術議論の場合には2案が対立してどちらも70%を超えない場合にはどちらにも決定せず、標準としては成立しない状態が続く。

こう書くと、選挙のためにに何度も投票するように聞こえるが、実際には「勝てそうにない」と判断した候補者は辞退するので3度目の投票まで行うのはごくまれである。私の場合には根回しが効いていて、議長候補は私一人、副議長候補はフランス人とアメリカ人の二人で実質的に無投票で選任された。他のTSGもそれぞれ根回しが効いていて実質的には無投票だった。このフランス人の副議長は、2年後に私が退任したときに議長になるのだが、ヨーロッパのプロセスや、私が苦手なネットワーク系の話に精通していて大変助けられた。

RAN議長というのは無線に関わる全ての仕様を議決する責任がある。私は自分で無線技術に関しては詳しいと思っていたがネットワーク系の話がたくさんあり、こちらの分野に慣れるのが大変だった。しかし、議長として会議を仕切ること自体は1月2月のConvenorの経験でスムースに入っていけたと思っている。

こうして私の3GPP議長としての活動が始まった。


3GPP会合を自社でホストした経験

2011-05-03 08:43:52 | 昔話

前回の「昔話」のカテゴリーで述べたフィンランド会合は1999年2月と書いたが私の記憶の誤りで1月だった。2月会合は私の会社、NECでホストしたのだった。3GPPという組織は基本的にどこかの会社がホストする仕組みで運営されている。現在の3GPP会合のホストは1年くらい前にどこがホストするかが決まり、準備に入るのだが、この時は設立後間もないのですぐにその場でホストを決めなくてはならない。

1月はノキアがホストしてくれたのだが2月のホストはどこか探さなくてはならない。私は仮議長をしていた関係でホストを探す必要性を感じていたがまだそれほど知り合いもいるわけではなく、どこかの会社に頼むということもやりにくかったので自分の会社でホストをすることに決めた。

この時も、用心深い人なら入念に社内の根回しをしてからホストを決めるのだろうが、私は、ちょっと周りに当たってみた感じでなんとかなるだろうという感触を得て自社でホストをすることに決めてアナウンスを出した。当時無線関係のワーキンググループは4つありそれが並行して会議を行うので4室必要である。そのころ私は今は「ららぽーと」になっている鴨居の横浜事業所に勤務していた。最初は社内の施設でやろうかと思っていた。当時私は研究所系に居て、部下の数も多くない。受付等の事務の応援を頼もうと思って事業部の友人に依頼したら、「あそこは主に宴会に使っており、酒臭い。きちんとホテルを借りたほうが良い。予算は私が何とかする。」と言ってくれた。スペース的にもかなり苦しそうである。そこで近くの新横浜プリンスで開催することに決めた。

当時は無線LANは普及しておらず、フロッピーやCDで資料を配布していたし、紙の資料配布も併用していた。前回の会合で説明したように、当日になって寄書を作成する人もかなりいるので、強力なコピーマシンが必要である。コピーマシンの高速のものを借りてホテルに設置し、寄書が出てきたら人数分だけコピーする体制も必要である。国籍によっては日本入国にビザが必要でビザ取得のために大使館あてに招待状を出してほしいという依頼も舞い込んでくる。全てが初めての経験で思ったよりはるかに大変なイベントだった。

しかし、私自身はそれほど運営にはエネルギーを使わずに、殆ど一人の女性スタッフにに任せきりで、時々大きな判断をする程度で済んだ。彼女がホテルや事務機会社との交渉、受付のための動員、ソーシャルイベントの手配など一手に引き受けてくれた。本人にとっても初めての経験だったと思うが、実に手際よくやっていたと思う。自分の部下の今まで知らなかった能力にここで初めて気付いた思いだった。

会議は成功だったし、ヨーロッパの次にアジアで開催されたことでそれから先もスムースにホストが決まるようになっていった。予算措置を申し出てくれる人が出てくるなど、社内的にも色々な人に助けられ、自分にとっても、自分のスタッフにとっても良い経験だったし、会社にとっても良い経験だったと思う。


エリクソン社員に助けられた経験

2011-04-26 14:08:08 | 昔話

はじめて私が議長をした会合の2日目の夕方、議論が行き詰ってしまった。はじめての3GPP会合なので、具体的な技術議論はまだなく、日本とヨーロッパでこれまでどういうことをやってきたかという紹介と、今後の進め方が議論の焦点だったが、ヨーロッパの議論は日本に比べてかなり詳細な議論をしている印象だった。

2日目の夕方に、複数に議論を並列で行うかどうか、という議論があった。並列議論をすると参加人数の少ない会社は、どちらかに出られなくなったりして不利になる。その一方で、内容のボリュームと、99年末までに完成させるという目標時期を考えると並列議論の導入は不可欠に思われる。大勢は並列導入派だったが、フランス人の女性が長々と反対意見を述べて譲らない。議論は行き詰ってしまった。日本ではこのような技術的でない議論で揉めることが無かった私は困ってしまった。午後8時頃になったので、続きは明日、と言って一旦閉会した。

閉会はしたもののどうしようか、と悩んでいると、エリクソンの参加者が声をかけてきた。この人は日本エリクソンに出向中で日本の会議にも通訳付きで出ていた人である。「今日は大変だったね。一緒に食事をしながらどうすればよいか考えないか?」ということである。食事どころはホテルの中しかないのだが、少し待って空いた頃に二人で食事をし、ビールを飲みながら進め方を話した。話しているうちに次第に考えがまとまってきた。食事の終わりに、彼が「うん。大体こんな方法でやるべきだと思う。自分が明日までに寄書として準備しておくから、それを議長名で方針として発表すればきっとうまくいくよ」と言ってくれて分かれた。夜の11時過ぎだったと思う。翌朝6時頃に起きてメールを見ると夜中の2時頃の発送で、彼が私の名前でドラフトしてくれた文書が届いている。

それに多少手直しをして、議長案ということで入力し、朝一番で発表した。こういうものに全員が満足する案は無い。多少の痛みは伴うのだが、あれほど揉めていた件に対して反論は全く出ずに、すんなりと議長案が承認された。

それにしても、エリクソンの彼はどうしてあそこまでやってくれたのだろうと思う。特別に仲が良かったわけではない。会社からは会議を前に進めろという指示は出ていたと思うが、それにしても大変な努力である。そして彼の個人名はどこにも出ていない。何が彼をここまでやらせたのだろうと思うとともに、エリクソンという会社のマネージメント力に強い興味を覚えた。

この時にヨーロッパの会議で議長案というものがどのように参加者に受け取られるかを認識した。この時から私は議長として一枚脱皮したように思う。


はじめての3GPPでの議長

2011-04-15 08:48:59 | 昔話

私にとって初めての国際会議の議長は1999年2月のワーキンググループ会合だった。普通の人は、特に日本人はこのような初めてのことに対しては非常に緊張して入念に準備する。どう進めればよいか、誰がサポートしてくれるか、困った特はどうするなどを検討して、万全の準備をして臨むのが殆どだと思うが、私はそういうところが大雑把で、事務局から前もってAgenda(議事次第)を送っておけばよいと言われて、そのつもりで後は現地に行ってから何とかなるだろうくらいに考えていた。

始めての会合はノキアの招待でフィンランドのヘルシンキの郊外コーピランピという場所で行われた。ここは国民休暇村のようなところで湖のそばで遊園地のような感じになっている。しかし2月のヘルシンキである。湖には厚く氷が張っていて、外は零下20度、食堂もホテルの中にしか無い。ホテルもいわゆる都市型のホテルではなく、日本で言うと国民休暇村のような感じだった。周りには建物はなく、ホテルの中に閉じこもって一週間を過ごすことになった。

私が仮議長になることは知られていたので、皆いろいろと教えてくれたのだが、まず、議事録を取る書記を任命しないといけないという。本来は書記は事務局があるETSIから派遣されてくるのだが、このときは3GPP設立直後でまだ体制ができておらず、書記は任命されていない。会議参加者からボランティアで任命するのだが、2-3人当ってみたが、「いや私はちょっと」と言って尻込みしてなかなか決まらない。そのうち誰かが「あいつは以前書記をやっていたから大丈夫だと思う」というアルカテルのフランス人を推薦してくれた。その人のところに行くと渋い顔をしていたがまあいいだろう、と言って受けてくれた。

こうして、会議が始まった。英語で話すこと自体は私はそれほど心配していなかったが、聴くほうがむしろ問題だった。当時のヨーロッパはフランス人はフランスなまり、ドイツ人はドイツなまりなど癖が強く、聴き取るのが大変だった。私はニューヨークに居たことがあったのでなまりには比較的強いと思っていたが、それでも大変だった。自分の理解に自信が無い時には、発言者の発言が終わった後で、「お前の言いたいことはこういうことか?」と言って確認しながら進めた。この確認は日本人参加者には好評だった。「あれで何を言っていたのか分かった」というコメントを何度か聞いた。ヨーロッパはもともと英語が母国語でない人が殆どなので、こういう点は聞きなおしても問題にはならない。

一日目を終わって、議事録を取る人から、今日の分を見てくれと言われて、議事録を見せてもらって驚いた。日本の議事録だと決まったことを書くだけだが、誰がどういう発言をした、ということを事細かに書きとめている。大変な能力だと感心すると同時に、皆が書記を務めるのを敬遠した理由が分かる気がした。

二日目には議論が発散して私は苦境に立つことになった。