先日書いた日本の社会哲学についてだが、現在の日本哲学になっている「組織への強い従属」は見直す必要があると思う。時代劇によく出てくるのだが「バカ殿」を家老以下が必至で支えて「お家安泰を図る」というのは日本人の心に今でもかなり強くあるように思う。
大きな企業だと大抵「経営戦略室」のような組織があって社長の判断をサポートしている。この経営戦略室が社長の能力を100%引き出すことを目標にして動いているかというと必ずしもそうではなく、「無能な社長でも務まるように」というのをより重要視しているような企業が少なからずあるように私は感じている。その典型例が官僚組織で、大臣を支える体制はまさに「無能な大臣でも務まるように」動いていると思う。大臣の場合には、実際に無能な人が大臣になることが少なからずあるので、ある程度仕方ないと思うのだが、これが民間企業にも影響しているのではないかと感じている。こんな体制では世界とは戦えない。
組織への強い帰属はその組織が安泰であるならば心地良いものである。しかし、変化の速い現代社会にあっては組織は永続するものではなく、不要になってくれば解散することを考えるべきだろう。「何としても会社をつぶさない」と頑張って、力尽きたら夜逃げというのではかえって被害が大きくなる。個人は組織を盛り立てようとするが、その一方で冷静に全体像を見るような姿勢が必要である。
それでは日本の社会哲学として何が良いだろうか? 現代の日本社会で受け入れられるような概念で、「日本はこれを重視している」と世界に言えるようなものである必要がある。その一つの案として「和」はどうかと思う。「和食」に代表されるように「和」は日本の代名詞としてある程度定着しているし、日本人の心に「和」を大切にするという気持ちはあって、ほかの国よりも強いように思う。
ここで指摘しておきたいのは論語の中にある「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という言葉である。これは本質を突いた重要な言葉だと思うのだが、現代の日本では「和」と「同」がきちんと意識されていない「小人」の国になっているのではないかと感じることが少なからずある。
日本の野党はまさに「同じて和せず」を体現しているように思う。自民党は「和して同ぜず」の雰囲気が多少はあると思うが・・。経団連なども「同じて和せず」の色彩が強いように感じる。経済団体で「和して同ぜず」を感じるのは経済同友会である。マスコミも「同じて和せず」は非常に強いと思う。以前も書いたのだが日本のマスコミは「~の狙いは何か」を頻繁に言う。海外メディアでもこれを言うことはあるのだが、それは「この狙いは~なので賛成だ」というように自分の意見を正当化する過程で使用するのが普通である。ところが日本では「狙いは何か」が解説されればそれで終わりで次の話題に移る。これは「権力者に同じたい」というマインドの表れではないかと私は思っている。私が一番「和して同ぜず」を感じるのは残念ながら日本の場ではなくダボス会議である。
それでも「和して同ぜず」を目指す「和」の心は日本の社会哲学にできるのではないかと思っている。