ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

日本の社会哲学には見直しが必要、「和」はどうか?

2019-02-27 18:03:08 | 社会

先日書いた日本の社会哲学についてだが、現在の日本哲学になっている「組織への強い従属」は見直す必要があると思う。時代劇によく出てくるのだが「バカ殿」を家老以下が必至で支えて「お家安泰を図る」というのは日本人の心に今でもかなり強くあるように思う。

大きな企業だと大抵「経営戦略室」のような組織があって社長の判断をサポートしている。この経営戦略室が社長の能力を100%引き出すことを目標にして動いているかというと必ずしもそうではなく、「無能な社長でも務まるように」というのをより重要視しているような企業が少なからずあるように私は感じている。その典型例が官僚組織で、大臣を支える体制はまさに「無能な大臣でも務まるように」動いていると思う。大臣の場合には、実際に無能な人が大臣になることが少なからずあるので、ある程度仕方ないと思うのだが、これが民間企業にも影響しているのではないかと感じている。こんな体制では世界とは戦えない。

組織への強い帰属はその組織が安泰であるならば心地良いものである。しかし、変化の速い現代社会にあっては組織は永続するものではなく、不要になってくれば解散することを考えるべきだろう。「何としても会社をつぶさない」と頑張って、力尽きたら夜逃げというのではかえって被害が大きくなる。個人は組織を盛り立てようとするが、その一方で冷静に全体像を見るような姿勢が必要である。

それでは日本の社会哲学として何が良いだろうか? 現代の日本社会で受け入れられるような概念で、「日本はこれを重視している」と世界に言えるようなものである必要がある。その一つの案として「和」はどうかと思う。「和食」に代表されるように「和」は日本の代名詞としてある程度定着しているし、日本人の心に「和」を大切にするという気持ちはあって、ほかの国よりも強いように思う。

ここで指摘しておきたいのは論語の中にある「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という言葉である。これは本質を突いた重要な言葉だと思うのだが、現代の日本では「和」と「同」がきちんと意識されていない「小人」の国になっているのではないかと感じることが少なからずある。

日本の野党はまさに「同じて和せず」を体現しているように思う。自民党は「和して同ぜず」の雰囲気が多少はあると思うが・・。経団連なども「同じて和せず」の色彩が強いように感じる。経済団体で「和して同ぜず」を感じるのは経済同友会である。マスコミも「同じて和せず」は非常に強いと思う。以前も書いたのだが日本のマスコミは「~の狙いは何か」を頻繁に言う。海外メディアでもこれを言うことはあるのだが、それは「この狙いは~なので賛成だ」というように自分の意見を正当化する過程で使用するのが普通である。ところが日本では「狙いは何か」が解説されればそれで終わりで次の話題に移る。これは「権力者に同じたい」というマインドの表れではないかと私は思っている。私が一番「和して同ぜず」を感じるのは残念ながら日本の場ではなくダボス会議である。

それでも「和して同ぜず」を目指す「和」の心は日本の社会哲学にできるのではないかと思っている。

 


日本にはまだ住民投票を行なえるだけの民度が無いと感じる

2019-02-25 17:00:01 | 社会

沖縄で辺野古基地建設に対する住民投票が行われて7割が辺野古建設に反対と出た。このブログで私は何度か書いたが、「日本はもっと住民投票をするべきだ」と考えていたのだが、この経緯と報道ぶりを見て私はまだ日本で住民投票を行なえる状況にない、やはり日本の民主主義はまだまだ未熟である、と感じている。

本来、住民投票は自分たちが決めることに対して行うべきものである。しかし、今回の住民投票は自分たちで決められないことを投票している。極端な例だが「米軍のシリア撤退に賛成か?」という住民投票と本質的には変わらない。もちろん、住民に関係のない話では投票には行かないので、自分たちに関係の大きな内容に関しては多くの人が投票所に足を運ぶ、という違いはある。その意味では沖縄に人達に大きな影響があるテーマであるが、今回の住民投票は本質的には「公的アンケート」である。

もう一つの問題は質問の作り方が恣意的である、という点である。辺野古の基地を使うのは米軍であるので、住民に「辺野古の基地を欲しいか?」と聞けば「欲しくない」と答えるに決まっている。今回の投票は問い方が反対派が有利なように作成されたと感じている。本来、辺野古の基地を作ることは目的ではなく手段である。それでは目的は何かというと「普天間基地の除去」である。問い方としては「普天間基地を除去する方法として辺野古基地の新設及びそこへの移転は正しいか?」という聞き方をするべきである。私が質問を作成するとすれば以下のようにするだろう。

普天間基地は危険な基地であることは共通認識である。その危険除去の方法として

・辺野古に新しい基地を作りそこに移転する。この方法ならば辺野古に基地ができた時には普天間を返却することで米国と合意している

・辺野古には基地を作らず、別の方法を米国と交渉して普天間基地返却の方法を交渉して実現する。この場合いつ普天間返却が実現するかは現時点では見通せない

・そもそも普天間基地返却の必要は無い

上記のよう3択の質問ならば、質問としてはかなり中立だと思う。本来ならば辺野古推進派が、投票前にこのような意見を述べて、上記のような質問に合意して、その代わりこれで圧倒的に「辺野古不要」という答えが出た場合にはそれを尊重する、というのが本来あるべき姿だと思う。しかし、質問を作る側は自分に有利になるように質問を作り、辺野古推進派である政府は、コメントせずに、結果は強制力がないとして無視する方向である。

住民投票を行うのは、それぞれにメリット・デメリットがあり民意が分かれている場合である。このような場合、どのように投票の質問を作るかは結果に大きな影響を与えるので、そこで揉めることは容易に想像される。今回の沖縄での住民投票ではこの問題を解決する仕組みができていないことが明らかになっている。このような状態で住民投票を行ってもまともな判断はできないだろう。これを私は「日本ではまだ住民投票を行なえるほど民主主義が定着していないのが本質だ」と捉えている。残念ながら、私の「日本でもっと住民投票を行うべき」という意見は取り下げたいと思う。


凋落が止まらない日本の大手IT企業

2019-02-21 09:09:10 | 経済

富士通がまた大幅人員整理を行った。現在、AIが至る所に導入されてきておりIT業界は好景気、IT人材は引っ張りだこ、と言われる環境の中で日本の大手IT企業は凋落が止まらない。これは技術及びビジネスモデルの転換が遅れているからだと私は考えている。この状況を歴史とともに振り返ってみよう。

1960年から1980年頃まではコンピュータが導入され、高機能化していった時代でIBMのSystem 360に対抗して富士通はFacom、NECはACOSという自社マシンで対抗していた。この頃が日本のコンピュータ産業が最も勢いがあった時期である。

1980年頃から大型コンピュータからミニコン、パソコンとコンピュータのダウンサイジングが起こり、コンピュータの価格は全体として大幅に低下していった。大型マシンを事業にしていた企業は事業を見直し、自社のハードウェアを販売するだけでなく他社の機器も買い集めてシステム構築を事業とするソルーション事業に舵を切った。このソルーション転換を最初に打ち出したのがIBMで、1969年には自社製品に閉じないUnbundlingを打ち出しているが、本格的にソルーション事業に乗り出したのは1993年にLouis GerstnerがCEOになってからである。Gerstnerは当時ハードウェア機器の売り上げが下がって悪化していたIBMの事業をソルーション事業で大きく立て直した。

日本企業がソルーション事業に大きく舵を切ったのは2000年代に入ってからである。この時期にはIBMは単なるシステム構築を行うソルーション事業はクラウドの普及などにより苦しくなると見極めて、Gerstnerの次のCEOであるPalmisanoがコンサルティングを重視する方向に舵を切っている。もちろんIT技術をベースとしたコンサルティングである。

日本企業は2010年代に入ってコンサルティングを重視するようになってきた。しかし、コンサルティングはIT技術だけでなく各種業界にそれぞれ深い知識が必要でいまだにコンサルティング企業としては不十分である印象である。

2011年からIBMのCEOはRomettiに代わり人工知能Watsonを重視するようになった。このようにIBMは常に時代の先を読み、その読みは当たっていたにもかかわらず、2010年以降のIBMは減収減益を続けている。それはIBMの事業規模が大きく、顧客企業とは複数年契約をしているためにビジネスモデルの転換はゆっくりである一方、世の中の変化は予想よりも早く進んでいるからだと私は認識している。

先行しているIBMですら業績が悪化しているのだから、数年遅れでIBMの後を追っている日本の大手IT企業はさらに業績が悪化するのは当然と言える。

最近の流れではユーザ企業がクラウドを利用することにより、ソルーションにおけるハードウェアの売り上げは激減している一方、AmazonのAWSなどに利用料を払わなければならず、ソルーション事業は、顧客向けのソフトウェアのカスタマイズ留まるようになってきている。更にソフトウェアもオープンソースのソフトを改変して使えるようになってきており、ソフトウェア開発費用も抑えられるようになってきている。

更に、ユーザ企業にとってAIを使ったビッグデータ分析などは事業と直結するノウハウにつながるために、情報流出を警戒して顧客が自社で開発するのが米国などでの大きな流れである。クラウドもオープンソースソフトもユーザが増えるにつれて使いやすくなってきており、少人数での開発が可能になってきており、ソルーション事業自体が大きく縮小する傾向の中で、IBMですらまだ次の方向性を見出していない印象である。

日本のIT企業ではまだソルーション部門が大きなウェイトを持っていると思うが、組織形態の見直しなどを行ってコスト構造を大きく見直さない限り生き残れないのではないかと思う。

 


北方謙三の「岳飛伝」を読了

2019-02-17 17:21:57 | 生活

北方謙三の歴史小説「岳飛伝」全17巻を読み終えた。このシリーズは「水滸伝」全19巻、「楊令伝」全15巻に続く第3部で、以前の「楊令伝」を読み終えてから5年近くが経過している。北方氏は月刊誌に連載し、ある程度まとまった時点で単行本にして発行する。それから2年ほどすると文庫本が出てくる。私は文庫本が出るまで買わないことにしていたので、楊令伝を読み終えてからしばらくは岳飛伝のことは忘れていた。ところが昨年、本屋で「岳飛伝」の文庫本が出ているのを見つけた。ブックオフにも売っていたのでまとめて買った。

私は夜寝る前に寝床で小説を読むのを習慣にしている。10ページほど読んで気が付くと眠っていたこともあるし、なかなか眠れなくて1時間以上読むときもある。それで、17巻を読み終えるのに4か月以上かかった。

北方謙三氏のこの一連の作品は「大水滸伝」全51巻と言われている。最初の水滸伝は中国の有名な小説で宋の時代に様々なキャラクタを持つ人々が「梁山泊」に集まってクーデターを計画する話である。結局クーデターは鎮圧される。北方謙三の「水滸伝」は吉川英治の「三国志」などとはかなり趣が異なっており、原典の「水滸伝」の登場人物は利用するがストーリーは大きく書き換えて北方謙三氏の世界を作っている。しかし、大きな意味で梁山泊が最後に鎮圧されて終わる点は同じである。

「楊令伝」は梁山泊が鎮圧された時には少年だった楊令が成人して梁山泊の生き残りを集めて再起するストーリーで、中国北方で勢力を強めた女真族の「金」国と連携して宋を倒してしまう。これ以降、中国は北側は「金」、南は「南宋」という二つの国に分かれる。しかし、最後は楊令は暗殺されてしまう。楊令伝は全て北方謙三の創作で、楊令も架空の人物である。

「岳飛伝」の「岳飛」は楊令伝の中では梁山泊の敵として出てくる登場人物で、楊令伝の中では子供だったのだが、岳飛伝では梁山泊と連携して「南宋」、「金」を倒して中国統一を目指す。楊令伝の段階から梁山泊は「国家」というものを軍事力で国民を統治するのではなく貿易立国を目指し、日本、東南アジアからいわゆる西域までの早大の流通経路(シルクロードの原点9の構築を目指す。岳飛は実在の人物であるが、ストーリーは北方謙三氏の創作で、あまり史実に基づいては居ない。

「岳飛伝」は壮大な貿易立国を目指す動きと、南宋や金国との軍事的対立が絡み合った面白い作品で、読み飽きないのだが、「水滸伝」「楊令伝」と比べると若干の物足りなさを感じた。個々の人物が行動を起こすときの動機が今一つピンとこなかったのである。北方謙三氏も高齢になってきているので、年齢による衰えでなければよいが、と思っている。「岳飛伝」の最後には楊令の息子がモンゴルに逃げていく話が出てきており、これが次のジンギスカンの話につながっていくことを予感させる。実際のところ、北方謙三氏によるジンギスカン伝が出ることを連想させる。実際のところ単行本の「チンギス紀」は既に3冊発行されている。

ジンギスカンは私が興味を持っている人物で、わずかなモンゴル人でどうしてあれほどの大国を統治できたのかを知りたいとかねがね思っていた。できれば完全な創作ではなく、かなり史実に基づいて伝記風に書かれている山岡荘八の「徳川家康」のようなスタイルを期待しているのだが、北方謙三氏ならば創作性がかなり強くなることだろう。「チンギス紀」は図書館で借りて1冊くらい読んでから買うかどうかを決めようと思っている。


日本の社会哲学は何?

2019-02-15 17:24:34 | 社会

社会哲学というのは私の造語で、「社会で共有する価値観」というような意味で私は使っている。米国の社会哲学は「自由・競争・イノベーション」であり、北欧の社会哲学は「自立した個人と助け合い」だと思っている。ここで日本の社会哲学の話を持ち出したのは、日本が精神的アイデンティティを失いつつあると感じているからである。

私はかなり前から将来、国家は薄まって、現在の国家は国内の自治組織のようになるのが良い、と思っていた。United States of Americaはまさに州が連合して出来上がった国家であり、European Unionもそのような形態を目指していると思っている。しかし、最近の動きを見ると世界的国家連合はまだまだできそうにはなく、宇宙人が地球に攻めてくるような事態が起きないと難しいと感じている。世界が国家を単位として運営される限り、国家間の競争や調整が極めて重要なものになり、国家としての日本は何が特徴かということを意識する必要がある。基本的には「どの国と組むか?」ということが重要なのだが、これまでのように「日本は米国の子分」という位置づけから脱却することは必要だし、今がチャンスだと思う。その際、日本の社会哲学が重要になると思っている。

まず、歴史を振り返って現在の日本の社会哲学がどうなっているかを考えてみよう。私は現在の日本の価値観を特徴づけているのは「組織への強い従属」だと思っている。これは江戸時代の封建主義で「藩」に対する従属、その下部構造である「家」に対する従属から始まっていて、藩や家のために自己犠牲をすることを「周囲の人を幸福にする」として美談と考えることが強い精神的バックボーンになっていると思う。明治時代になって「藩」はなくなり、替わりに「国家」と「企業」「家」が重要な組織となった。第2次世界大戦で敗戦したことにより、「国家」に対する帰属意識はぐっと弱まり、「企業」に対する帰属意識が強まった。それに加えて戦後の復興で米国をモデルとしたために、これまでの社会哲学となじみにくい「個人主義」が台頭してきて、今は日本社会で共有する価値観が見えにくくなっている状況だと思っている。

この点に意識があったのは、私の知る限り、歴代の総理では安倍総理だけで、安倍氏は第1次安倍政権の時に「美しい国にっぽん」という標語を打ち出した。その後の安倍総理の言動を見ると安倍総理の言う「美しい国」は「女は家族に尽くし、男は働きに出て家庭を守る。そして、狭い土地に棚田などを作って利用する」、といった戦前の価値観のように私には感じられてどうも賛成できない。安倍総理自身、うまくいかないと考えたのか第2次安倍政権では語られていない。

アメリカの「自由・競争・イノベーション」に相当するような、現代から将来へ向けての日本社会を特徴づける価値観というものは必要なように思う。誰かが決めて皆が従う、というような性質のものではなく、自然に社会の価値観として根付くようなものであるべきだと思うが、失われつつある日本の精神的特徴の向かうべき方向性をもっと自分たちで意識する必要はあるように感じている。

私が何を日本の社会哲学とするのが良いと考えているか、何となくイメージはあるのだがまとまっていないので今回は問題提起に留めておこうと思う。



堺屋太一氏の訃報

2019-02-12 18:41:09 | 生活

小説家で経済評論家だった堺屋太一氏の訃報が流れている。私にとっては数少ないきちんとした長期展望を語る経済評論家であり、非常に残念に思っている。まだまだいろいろなことを語ってくれる、影響力のある人物だと思っていた。

堺屋太一氏を紹介するときに「団塊の世代」という言葉を生み出した人、という紹介が多いが、私にとっては「知価革命」が印象的である。実は堺屋氏の小説は読んだことはないのだが、この本は読んだ。私が読んだのは1990年頃だが、調べてみると初版は1985年であり、この時期に「工業社会が終わる、知価社会が始まる」と言ったのは慧眼であると思う。実際に知価社会が勢いを増してきたのは21世紀に入ってからだと思うが、平成の日本が経済でもたついているのはまさにこの知価社会への対応に失敗している(今でも失敗を続けている)からだと思う。一部の人は対応できているのだが社会全体の仕組みが依然として工業社会重視の体制なので日本の経済は元気がないのだと私は考えている。

堺屋太一氏の文章でもう一つ私の記憶に残っているのは数年前に元日の新聞の特集号にあった未来小説である。それは「今は中国から日本に出稼ぎに来ているが、50年後には日本から中国に出稼ぎに行くことになる」という趣旨の内容だった。あれから数年間経過したが私には世の中は着実に堺屋氏の予想の方向に動いているように感じている。

堺屋太一氏は「「多くの人は近場の予想はできるが、10年後、20年後の予想はできない」というがそれは逆だ。遠い将来はトレンドを見ていれば予測できるが、近場は個々の判断で影響を受けるので予測は難しい」と言っている。私も同じような感覚を持っている。しかし、このような観点でものを語る人は極めて少なく、その中できちんとした視点から長期的展望を語ってくれた堺屋太一氏を失ったのは日本にとって大きな損失であると感じている。

合掌


日本人の情報入手方法が米国人のようになったら

2019-02-10 14:12:31 | 社会

先日の児童虐待の項で書いたのだが、アメリカの社会現象は10年単位の遅れで日本で起こることが多い。少なくとも20世紀後半はそのような状況だったと思う。21世紀に入って、文化的側面ではもはや日本がアメリカ文化を輸入するという側面は小さくなったと思っていたが、それでも児童虐待のようなことは起こっている。一方文明的側面ではまだまだ日本でアメリカの行動形態を遅れて起こるということが続いているように思う。

その根拠はデジタル文明である。インターネットを利用した様々な経済活動が日本で遅れて導入されることが多いだろう。その一つにマスコミの弱体化がある。米国では新聞を読まない人が大半であり、テレビも見ない人が増えている。マスコミは全国民ではなく、特定の支持層に強く受けるような記事を配信することが増えている。Facebookから情報を入手してその中からニュースを検索する人が主流になりつつあるとのことである。

日本人ではトランプ大統領を「おかしな人物」と思う人が大半だと思うが、これは「日本のマスコミがトランプ氏のおかしな言動をニュースバリューがあるとして一斉に報じるからである」と言えるのではないだろうか。アメリカでは依然として40%の人が彼を指示している。その理由の一つにトランプ支持者は我々が日本のニュースで見ているような情報を見ておらず、トランプ氏のおかげで恩恵を被った人達のニュースなどを中心的に見ている、という側面がある。トランプ氏はその情報分断を利用して自分に不都合な情報は「フェイクニュース」と決めつけることで支持率を維持している側面が少なからずあるだろう。

メディアの没落は日本でも着実に起こりつつあるし、今後も進行するだろう。つまり、日本で人々が情報を入手する手法が現在のアメリカのようになる可能性は高いと思う。そう考えると、日本でいつかトランプ氏のような首相が誕生するのではないかと感じている。個々の選択でまともな首相が選出される可能性が9割だとしても、今後10人の首相が誕生していく中で、誰か一人でも強圧的な人物が権力を握る可能性は6割を超える。

私が心配するのは強圧的な人物が権力に座に就いたときの日本社会の抵抗力の弱さである。日本では国会の多数与党の中から首相が選出されるので、行政と立法は同時に牛耳られる可能性が高い。マスコミは今よりいっそう弱体化しているので抵抗力が弱く、モノを言えなくなる可能性が高いだろう。その時の社会情勢によって、日本政府が暴走する可能性は高いように思う。太平洋戦争はそのような結果として起こった。現代の日本の体制では軍部が暴走することに対しては安全装置が組み込まれているが、選挙で当選して多数派を確保した人物が暴走することに対する安全装置は無いと思う。普通なら、おかしな政策を行なえば次の選挙で負けるのだが、在任中に選挙制度を変えたりして自分に都合の良いようにしてしまうリスクはないだろうか。

国会で選挙制度を変えることができる仕組みで、おかしな人物が首相になった時の安全弁になっているのだろうか、と心配になってくる最近の世界情勢である。


毎月勤労統計の国会議論で明らかになった、政治家や官僚の統計に対する知識の低さ

2019-02-08 17:22:49 | 社会

今日は仕事をしながらNHKの国会中継を見ていた。

毎月勤労統計の誤りに関しては調査委員会の報告書に問題があることが明らかになり、野党が食いついている。与党もおかしいと思ったと見えて再調査になっている。しかし、おなじ人物に委員長を依頼しており、今日の国会中継を見ているとその委員長が呼ばれていたのだが一切経緯を語らない、という状況で、この問題は長引きそうである。野党が食いついているのでこれ以上私が何か言う必要は無いだろう。

国会中継を聴いていて面白かったのは最後に野党の議員が「標準偏差を出してください」と言ったのに対して(正確には標準偏差という言葉では無く違う言葉だったが意味は標準偏差)、厚労省の幹部が「それは難しい」と頑なに拒否した点である。野党の議員は「これは作業はほとんど必要なく、機械的に算出できるもので、統計の信頼性を計るためには重要だ。出さない理由はない」と大臣に出す指示を出してほしいと言ったのだが、大臣も「統計上の難しいことは政治判断で指示するべきではない」と断った。

野党の議員が言うように、予測ではなく統計の数値なのだから標準偏差は出すべきであり、技術者にとっては明らかなのだが、国会の場にいた厚労省の幹部や政治家は誰も標準偏差がどういうものかを理解していなかったと思えることである。理解していたのは質問者だけで、質問者にとってみれば統計に標準偏差の情報を付けるのは当たり前で、全く提出を嫌がるようなものではないので、話がかみ合っていなかった。時間切れになり、後日検討してもらう、ということになった。

国会の議論はテレビで全国に中継されるので、官僚は万全の体制を作っている。回答に困るような質問が出ると、官僚が大臣に寄って行ってささやく、というのは日常茶飯事なのだが、統計局の幹部でも標準偏差を理解しているようなメンバーは用意されていなかったということだと理解している。つまり統計ということに対する知識は殆どない人たちが議論しているということである。これで統計の議論をしている国会は大丈夫なのだろうか、感じた。


千葉県の児童虐待とChildren Abuse

2019-02-07 12:26:59 | 生活

千葉県野田市で小学4年生の児童が虐待され、死に至ったというニュースが連日報じられており、今日は国会でも「政府が対応を検討する」という話が出ていた。本件に限らず、親が「躾」という名目で子供に暴力をふるう話は最近よく耳にするようになってきたと感じている。極めて痛ましい事件だが、本稿の目的は教育委員会などを非難することではなく、私の体験から過去のアメリカとの比較をすることである。こういったニュースを耳にするたびに私は30年以上前にニューヨークで聞いた話を思い出す。

私は1982年から1年間、会社のサポートでニューヨークにあるコロンビア大学に留学していた。それまでの私の英会話経験と言えば、国際学会でプレゼンして、他の国の研究者と会話した程度だったので、英語力を高めるために夏休み中の8月にコロンビア大学が実施している英会話教室に参加していた。このクラスは日本人、中国人、韓国人、イタリア人、フランス人、スイス人などが混じった10人強のコースで若い女性も多く、私にとってはいまだに強い印象に残っている楽しい体験である。

このコースの授業の中で先生が「Children Abuseは今この国では大きな問題になっている」と言っていたことを思い出す。「児童虐待を防ぐために様々な法案が作られている」というような話だった。その時は「日本ではそんな話はほとんど聞かないな」というのが私の印象だった。そして30年経過した2012年あたりから日本でも児童虐待がニュースとして話題になってきたように思う。やはり、日本は家庭の面でもアメリカに追従しているのかと感じる。

しかし、私には「本当に日本がアメリカに似てきたのだろうか?」という疑問を感じている。私が思うのは、「35年前の日本に児童虐待が無かったわけではなく、昔からあったのだが表に出なかっただけではないか?」という疑問である。「昔はこのようなことがあっても、表ざたにならずに処理されていたのではないか」という感じがどうもぬぐえない。今は、子供に暴力をふるうことが「悪いことだ」とされているだけに、かえって陰湿で激しいことになったのではないか、という感じはあるものの、親の子供期待する暴力が昔よりも増えたとは考えにくい感じがしているからである。夫の妻に対するDVなども同様ではないかと感じている。

もしそうだとすると、「問題が表面に出てきて社会が対応を考えるようになる」というのは社会が進化していく一つの過程で、児童の扱いに関して今の日本は必要なプロセスを経ているのではないか、と思う。最も重要なことは問題を隠蔽しないで表に出すことだと感じている。


街で増えたと感じるもの

2019-02-03 19:58:11 | 生活

私は毎日2万歩近くを歩いている。これをここ数年続けているのだが、ゆっくりだが街並みが変化していることを感じる。ここ数年で増えたと感じるものを書いてみよう。

・処方箋薬局

ここ数年で増えたと感じるのは処方箋型の薬局である。最近2年くらいは増えるペースが下がってきたと思うが、5年前くらいから急に増えてきた印象である。大きな薬局ではなく、昔の八百屋程度の小さな店構えの処方箋薬局が急に増えたと感じている。厚生労働省の医薬分業で病院に併設した薬局を減らそうとする方針からきているのだろう。しかし、私の印象では増えすぎで、こんなに増えるといずれ淘汰されるのではないかと感じている。

・トランクルーム

トランクルームはここ2-3年特に急激に増えていると感じる。場所は様々で道路に面した店舗があってもおかしくないような場所にもあるし、畑のような場所もある。値段は良くわからないのだがネットで調べてみると、私の住んでいるあたりで1畳あたり5000円程度のようである。20畳(40平方メートル)程度で10万円になるのでアパートと同程度のような気がする。トランクルームは建設費はアパートよりもかなり安いだろうし、面積も狭いところでも建てられるのでアパートよりは効率の良い経営ができるので、空き地にトランクルームを建てる人が増えているのだろう。

アパートやマンションはなかなか広くならず、狭いところが多いので、基本的に住宅地である田園都市線沿線ではトランクルームの需要は高いのだろう。しかし、増えすぎると価格低下を起こすだろうと思う。

・ドラッグストア

ドラッグストアは結構大きな敷地面積をとるのでそんなに急激には増えないが、私の感触ではコンビニよりも速いペースで増えていると思う。私自身もドラッグストアによく買い物に行く。私の場合、薬や健康食品を買うことはほとんどなく、卵や牛乳といった食料品を買う。その理由は安いからである。ドラッグストアはコンビニよりも大きなスペースを必要とするので場所探しが大変だろうと思うがそれでもコンビニよりも早いペースで増えている感じがする。コンビニの全盛期は終わって、これからはドラッグストアの時代になるのではないだろうか?

最近増えていると感じるのは以上であるが、逆に減っていると感じるのは書店である。書店の数自体も減っていて小さな書店はほとんど閉鎖してしまったが、大きな書店でも中で書籍コーナーが減ってビデオや文房具が増えている気がする。特に文房具が意外としっかりしている感じがする。考えてみれば私自身、書店で本を買うことはめっきり減って大部分はアマゾンで買う。小説などはブックオフで買うので、書店が減っても仕方ないかと思う。

ゆっくりなようでも20年もたつと街の景観も随分変わるのだろうと思う。