運動部の部室は長屋のようになっていてそれぞれのクラブ活動のメンバーがそこで着替えをしたりするのであるが、その汗臭い長屋の隣近所の長屋のメンバーが友人となった。私がよく付き合っていたのは、ハンドボール、バスケット、陸上、などのメンバーだった。クラスも同じクラスで、一緒に修学旅行(萩方面だった)に行ったりしたので付き合いが深まった。気持ちの良い人達がそろっていたように思う。
卓球部では私は2番手くらいだった。反射神経もそれほど良くなく、パワーもそれほどなかったので、左利きの有利さを生かすためにドライブ型の選手を進められた。まともな打ち合いではなかなか勝てないのでサーブを磨いた。回転方向が読みにくいサーブを出して、相手が安全に返そうとすると大体同じような返球になる。それを予測してドライブをかけて先手を取るのである。これはかなり強いレベルの人にも通用した。これが通用せず回転方向をきちんと読み切るような相手には簡単に負けた。
私たちの学年は、大体北野高校卓球部の平均的強さだったように思う。2回勝って3回目に負けるくらいである。私も大体そのくらいで、個人のベストは大阪府大会で5回戦、ベスト32だった。当時の大阪では近畿大学付属高校が抜群に強く、後に何度も日本選手権を獲った、高島規郎氏がエースだった。私も一度彼とあたったが、こちらのエースボールが、彼にとっては普通のボール、というような感じだった。 21-10程度で負けたが自分としては善戦したほうだと思った。しかし、日本トップレベルの相手と対戦したことは自分にとってはトップの強さを実感でき、良い経験であった。 私たちの一年下の学年は層が厚く、歴代の卓球部の中でも強い方だったと思う。クラブ活動は受験があるので3年の夏前に引退するのが慣例だったが、安心して下に引き継げた。
卓球部の思い出は、苦しかった合宿のトレーニング、天王寺高校との対抗戦で競り合った試合をものにした時のうれしさなどいろいろある。体育館はほかのクラブと共用していたので一日おきにしか卓球台での練習はできなかった。体育館が使えない日は淀川の堤防で体力トレーニングをした。北野高校は冬に淀川の堤防を走るマラソン大会(12-3Kmだと思う)があるが、この大会で50位くらい(350人中)でそこそこ体力もつき、後の私の人生で大きな財産になった。