1999年12月、私が3GPPの議長に着任して9カ月で最初の3Gシステムの仕様書である3GPPの仕様書Release'99が完成した。3GPPはこの仕様種を各国の標準化団体に提示し、各国そろって同じ仕様書を世界通信連合ITU-Rに提案することにより各国政府が認める国際的3Gシステム、IMT2000が完成した。
この仕様は技術的な意味だけでなく決定プロセスとしても大きな意味があった。それまでITUが決める仕様書はITUで議論をして決めていたのだが、この時からITU-Rは提案書の内容が3Gにふさわしいかどうかという審査はするが、具体的な技術の詳細は審議せず、3GPPの仕様を参照する、という形にしたのである。これ以降、実質的な世界標準の審議は3GPPに移ることになった。欧州の政府はそのことを良く理解していて必要な場合には政府の官僚自ら3GPPに参加したりしているが、日本の政府は10年以上経過した今でも形式を重んじてITUにしか参加しない。日本の標準化機構も政府の審議する会議などはITUの内容を審議するものになっている。日本国内では移動通信関係者は3GPPが実質の審議の場であることを皆知っているが、それ以外の人はITUで決めていると今でも思っている人が少なくない。
1999年に3Gの仕様を固めることは日本の強い意向であったので私自身、固まるように尽力してきたし、日本のみならず欧州の企業も積極的に協力してくれた。組織設立から1年足らずで標準仕様はまとまるというのは驚くべき早さであり、当初は不安を抱えつつ参加していた各国の標準化団体もこれからは3GPPを軸として標準化活動をしていこうと腹を決めて、3GPPのスコープを「3Gの最初の標準をまとめる」から「3Gの標準を長期的に維持改版する」に変更した。
この仕様を固めるにあたって非常に大きな貢献をしたのはドコモとエリクソンと言えると思う。ドコモは技術面で、エリクソンは技術面とプロジェクトの進め方で貢献した。エリクソンの進め方に対する提案は議長の私にとっては大きな助けとなった。
しかしながら技術内容はまだ不安定要因を数多く残していた。ハードウェアの仕様は固まっていたと言えるがソフトウェアに関してはあいまいな点が多く、仕様書を読めば誰でも同じものを作れるというレベルにはまだほど遠かった、といえる。3GPPでは確定させた仕様書に変更が入る場合にはCR(Change Request)と呼ぶ資料を提出して訂正するのであるが、Release'99はその後1年以上にわたって大量のCRに悩まされることになった。
3GPPは無線分野での安定化作業を行うと同時に、次の大きなターゲット、ネットワークのIP化に向けて走り始めた。
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