ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

2009年、仕事納め

2009-12-28 09:51:03 | 生活
多くの会社が今日で仕事納めのようであるが、我がウィトラも今日で仕事納めにすることにした。そこでこの1年を振り返ってみようと思う。

今年の初めに立てた目標と比較すると

①ウィトラは巡航速度で運営
 景気の影響で色々出入りがあったが無くなった仕事、新しい仕事など変化があり、自分にとっては経験を拡大できたと思う。今年の最大のイベントはやはり法人成りして「合同会社ウィトラ」を立ち上げたことである。
 実態はほとんど変わらないのだが将来の拡張性を考えた。この過程で会社とはどういうものか、を色々勉強することができた。自分で自分に給料を払った源泉税を納める、ということをするので個人の収支決算と、会社の収支決算が二つできて大変である。しかし、それは初めの年だけで、2回目からは会社の決算は大変だが、個人の決算は簡単になるだろう。会社は9月末で締めるので、来年の10月頃に色々作業が発生するものと思う。会社を設立するとはどういうことか、というイメージが持てたのも自分にとっては良い経験になったと思う。

②体重70Kg以下
 これは実現できなかった。結局年初とほとんど変わらない状態だと思う。8月9月頃にむしろ体重が増えてしまった。それを元に戻すのが精いっぱいだった。運動はそこそこしているので、体重を減らすにな食べる量を減らすのが一番良いのは分かっているのだが、それがなかなかできない。

③東海道を踏破
 これは名古屋の少し手前の知立と言うところまでだった。5月頃に靴を買い替えてから何時間も続けて歩くと足にマメができるようになってしまい、距離も頻度も伸びなかった。10月に再度靴を買い替えて頑張ろうと思ったがそれからはいろいろ仕事が入ってきて結局年内には歩けなかった。これから鈴鹿越えが待っているのである程度暖かくならないと難しいのではないかと思っている。ゴールは来年のゴールデンウィークくらいになるだろうか。

目標を達成できなかったことが多かったが、息子も無事に大学に入学できたので私にとってはまあまあの1年だった。

来年もよろしくお願いします。良いお年を

中国の住宅バブル

2009-12-27 09:12:32 | 生活
今月の上旬に、出張からの帰りに北京によって昔からの友人たちと会ってきた。写真をいくつかUpしたのでご存知の方も多いだろう。

連日、友人と飲んでいたのだが、その時の話題で感じたことが中国の住宅バブルである。どうも北京の住宅価格は東京に近いレベルまで来ている感じである。中国の場合はほとんどが高層ビルなのだが日本でよく出ている4000万円台はざらで、1億に届きそうなものもある。 そして、売り出すとすぐ売れてしまう。その買い手の40%くらいは自分で住むのではなく投資用だという。典型的なバブルの兆候だと思う。

更に、日本の場合には建物の部屋だけでなく敷地の所有権が付いてくるのだが、中国の場合には敷地の所有権はなく、土地は政府のもので長期借地権をもらうだけである。

この借地権というのが気にならないのか何人かに聞いてみたが誰もそれほど気にしていないようである。期間も60年とか70年とか人によって言うことはまちまちである。更にその期限が来たらどうなるのかは誰も知らない。まだ決まっていないような感じである。

気にならないのかと聞いたら、「もともとマンションだから土地を持つという感覚はないし、期限が来るとしても自分が死んだ後だから」というような回答だった。子供の代で期限が来るのだろうが、それは子供の才覚、というような感じだった。

中国では、現在は固定資産税も相続税もなく、政府は導入を検討しているそうである。もし導入するとすると大議論になり、その時に抱き合わせで土地の所有権が出てくるのかもしれない。

日本だと建物の価値はどんどん下がるので、資産価値というと土地の価値というイメージが強いのだが、中国ではずいぶん違う。この中国の人たちの土地に対する感覚の違いは面白いと思った

ニューヨークの日本人留学生仲間

2009-12-25 13:28:39 | 昔話
どこででもそうだろうが、海外で生活していると日本人同士が集まって話をする機会が多くなる。私の場合、独身で言ったので独身同士、それも日本人留学生同士が仲間となって遊びに行ったりすることが多かった。

夏休みの英語学校の間に私は二つのニューヨークの日本人グループと知り合った。お互いあまり仲が良くなかったのだが、私は両方のグループと付き合っていた。

一つは商社、銀行、上級公務員などの会社から派遣されている留学生である。この人たちは24-5才で将来を見込まれて派遣された人たちで、エリート臭をぷんぷんさせていて、どこかの重役と会食したとかいうニューヨークで日本人の人脈作りにいそしんでいるような生き方をしていた。それも一つの留学の利用方法かと思いつつも、私はあまり好きになれなかった。

先に述べた直木賞作家の古荘正朗氏も含まれていたが彼も同じ思いを持っており、お互いジャズが好きだったこともあってウマがあっていた。帰国してから結婚式にも招待してもらったが、35歳の若さで他界した。

もう一つのグループは、芸術家グループである。この人たちは音楽、ダンス、絵画などで身を立てることを夢見て自費できている。たいていはすし屋の皿洗いなどのアルバイトをしながら学校に通っている。私はこちらのグループのほうが好きだった。時々誰かの家に集まって夜明けまで飲み明かす。午前3時頃に誰かが練習していたギターのラウンド・ミッドナイトの旋律は今も頭に残っている。

私達のような技術系の留学生はMITのあるボストンかサンフランシスコ、ロサンゼルス、といった西海岸が多く、ニューヨークではあまり多くなかった。理科系では山口さんという数学者と会ったくらいである。山口さんとは私が京大で知り合った数学者の森さんの話などで盛り上がったが、気持ちの良い人だった

クリントン国務長官の日本大使呼びだし

2009-12-24 09:10:54 | 社会
アメリカのクリントン国務長官が駐米大使を呼びだしてアメリカの沖縄基地に関する方針に変更はないことを伝えたたことが報じられている。

何ということもない話のようだが、私にはこれは重大なことを意味しているように思える。

それは「鳩山総理とは話ができない」というアメリカ政府の姿勢が感じられるという点である。

鳩山総理とクリントン長官はCOP15の晩さん会で隣り合って座って話をした。その内容は本当のところは分からないが総理は帰国してから「クリントン長官にはご理解をいただきました」と報告している。これが日本在住のジャーナリストを通じてアメリカに伝わったものだと思うが、それを聞いたクリントン長官が「鳩山は話の内容を理解していないか、またはわざと誤解されるように報告している、と感じて大使を呼びだしたものだと思う。

オバマ大統領に対する「Trust me」に続いて2度目である。おそらくアメリカ政府内部には「鳩山総理は話すに値しない。岡田外相はまともだが権力を持っていない」という評価が出来上がっていることだろう。

今後、アメリカは政府首脳間の非公式協議には応じず、実務者間で詰めた内容を最終確認するときだけ日本の首脳と会うようになるだろう。実務者が詰めた内容が、上のほうでひっくり返され、話が進まなくなることが予想される

EUの大統領

2009-12-23 11:20:05 | 社会
この秋、EUの大統領が選任された。ベルギーの首相だったヘルマン・ファン・ロンバウと言う人が初代の大統領になった。

EUの大統領とは正式には欧州理事会の議長ということらしい。欧州理事会は欧州の統合構想が始まった1960年台から開催されている各国首脳の非公式会議が発展したものである。

今年の12月1日に発効したリスボン条約の中で正式に規定されたらしい。 現状では大統領の選出方法は決まっていないのだが、12月1日には議長を決めないといけない、ということで話し合いで11月中に決めたらしい。

一時はイギリスのトニー・ブレア元首相が有力視されていたが、ドイツ、フランスなどが反対して調整型のロンバウ氏に決まったようである。どうも選任方法だけでなく権限や役割もあいまいで走りながら考えようということらしい。EUの憲法も草案されたが批准されずに流れてしまったようである。

こういうやり方がいかにもヨーロッパらしい、感じがする。先を急がず、皆の合意のとれるところから、少しずつ、確実に進めていく。

基本はヨーロッパが一つの国としてまとまるくらいの規模になったほうがアメリカや中国と戦っていく上で有利であるという各国の合意から来ている。 それぞれの国にはそれぞれの事情があり、利害が対立する部分もある。それでも合意のとれるところから始めて、通貨統合、そしてEU理事会が次第に各国の政治に影響を与え始めている。今回、初代大統領を調整型の人にしたのは正解だと思う。

アジアでは鳩山首相がアジア共同体構想を出している。日本や韓国にとってはこのような構想で統一していかないと次第に戦えなくなってくることが予想される。 しかし、アジア共同体は私はまず無理だろうと思っている。それは日本人を含めたアジア人に民主主義が十分浸透しておらず、底が浅いからである。

日本人で、自分が生活する上でのルールを自分で決めよう、そして皆と合わせていこう、というような考え方をする人はほとんどいない。このようなルールは上から与えられるものであると思っていて、与えられたルールに対して文句だけは言う。しかし力任せに抑えられると黙ってしまう、という人が圧倒的である。

仮に日本政府が日本に不利な条件で妥協しようとすると、国民の反対にあって選挙で負けてしまう。ヨーロッパのように権限があいまいなままに、シンガポールの人をアジアの大統領にするなども決して成り立たない感じがする。ヨーロッパも通貨統合で実績が出たから次のステップに進めているのだと思うが、アジアでははじめの一歩で躓くと思う。

携帯電話でGSM方式が世界を席巻した大きな理由は、この皆の合意をとって話を進める、という仕組みが出来上がっていたことが非常に大きい。

いずれEUの仕組みにEUコアメンバーではなくとも周辺メンバーとしてアフリカ・中近東などが入っていき、その波がインドからアジアに波及してくるのではないかと感じている

日本政府の予算と借金

2009-12-22 09:44:36 | 経済
来年度の予算はまだ決まっていない。年内に決まるかどうかというところらしい。

日本政府の収入は税収であり、今年度は40兆円くらいと言われている。一方、政府の借金である国債の総額は1000兆円を超えている。

普通個人が住宅ローンなどを借りるときには年収の5倍くらいまでと言われる。しかし、政府は既に年収の25倍の借金をしていて、来年はさらに年収以上の借金を積み重ねようとしている。家計で言えば完全に破綻状態で銀行のブラックリストに載るはずである。

本来ならば国債を買う人はいなくなるはずである。いったい誰が買っているのだろうか?

直接買っているのは銀行だろう。しかし、銀行はどこからその資金を調達しているのだろうか?

考えられるのは1400兆円と言われる個人金融資産である。いわゆる普通預金や定期預金の金利は1%に満たない。一方、国債の金利は1.4%くらいなので預金を国債に回せば利ザヤが稼げる。しかし、1400兆円が全部預金とは思われず、預金はどうも全体の半分くらいのようである。ということは国債の総額に不足している。

企業が国債を買っているということもありそうだがこれはそれほど多いとは思われない。とすると、銀行が日銀から借金をして買っているのではないだろうか?

日銀に対して支払う金利はほぼゼロで、国債の金利は1.4%であるので銀行は確実に利ザヤを稼ぐことができる。 これをやるから銀行の自己資本比率が下がり、増資をする。最近、大手の銀行が相次いで増資をするのはこの理由からではないだろうか?

しかし、増資もそうそうできるわけではない。いずれ銀行の株を買ってくれる人はいなくなるだろう。そうすると、銀行は貸出を減らすことになる。銀行から見れば国債は確実に儲けられる手段なのでリスクの高いベンチャー投資などを抑えることになる。結局景気の足を引っ張ることになるだろう。

こんなことがいつまでも続くわけがない。しかし、私にはどこで歯止めがかかるのか分からない。日銀はゼロ金利で無限に貸し出しを増やし、銀行はそれを買い取って国債を買う。このループで国債発行額が2000兆円、3000兆円と膨れ上がっていったらどうなるのか?

どこかに解説本でもないものかと思う

COP15の感想

2009-12-21 13:04:15 | 社会

COP15は失敗に終わった。これは誰の眼にも明らかである。

残念だったのは鳩山総理と小沢環境大臣がインタビューで「COP15で一定の前進があった」と答えたことである。

おそらく彼らは「COP15で大きく前進した」と言う原稿を用意していて、大きく前進とは言えないので一定の成果にしたのだと想像している。つまり、彼らはCOP「15でこういう合意を取り付けたい」というような意思は持っておらず、ただあの場で「日本は良くやっている」と言ってもらいたかっただけなんだな、と思う。

鳩山総理の25%削減でも、本気で削減したいわけではなく、ほめてもらいたいから言った、民主党のマニフェストと同質なんだろう、と思う。

COP15では「このままでは何も決まらない」と危機感を覚えた各国首脳が徹夜に近い状態で合意文書を作成しようとした。私はおそらく鳩山総理はその議論の中ではほとんど何も発言できなかっただろうと想像している。日経新聞にもそのようなことが書いてあった。

私がそう思ったのは何も鳩山が無能だとか、真剣じゃないとかいう観点から来ているのではない。国内の議論を見ても、「日本はどうするか」ということに関しては真剣に議論するが、「他の国はこうすべきだ」という議論がほとんどないからである。これはある意味で日本の特徴ではないかと思っている。

しかし、他の国の立場に立って、彼らはどうしたいのか、どういう困ることがあるのかを普段から考えていないと、「日本はこうしてくれ」と言われたのに対してyes,Noの返事をするくらいしか発言ができず、混乱した状態で議論を収束させるような発言はできないものである。

私は一時期、国際会議の議長を務めていたので、このように議論が対立した時に落とし所をどうしようか、と考える習慣ができている。これは自分にとっては大きな財産だと思っている。全般的には日本勢はこのような話には弱いと感じている。

話を地球温暖化に戻そう。今回中国は「GDP比で40%削減」という案を出してきた。しかしこれは中国の現在の経済成長が続けばGDPの伸びは40%では済まないので、結果としては世界最大の排出国である中国の排出量が減るどころか増えてしまう、という指摘があった。日本国内では中国案に対する指摘はこればかりだったと思う。

しかし、私はGDP比で排出量を考えるというのはなかなか合理的だと思っている。中国にはまだ電気も来ていないところに住んでいるような人もたくさんいて、暖房も不十分、移動も徒歩でしかしない、というような生活をしている。これらの人たちが我々のような生活を始めたら、エネルギー消費量は増えて当然である。

中国の人口は日本の10倍くらいある。しかしCO2排出量は日本の5倍程度である。人口比で言えば中国のほうが日本の半分の排出量ということができる。 一方、GDPは日本と中国では同じくらいだから中国のほうがGDP比で言えば日本の5倍くらい悪いわけである。アメリカは日本の2倍くらい悪いと言えるだろう。

生活が豊かになればある程度排出量が増えるのは仕方のないことである。アフリカのジャングルで暮らしているような人だって文明的生活をするようになれば排出量はある程度は増えるだろう。しかし、使えるエネルギーを手当たり次第に使ってしまえば排出量は大幅に増えてしまう。それをどう抑えるかが課題だろう。

日本としては中国のGDP比での排出量と言う考え方に乗る手はあったと思う。日本は中国に比べて現在では1/5だがそれでも努力を続ける。だから中国もいっそう努力をしてほしい、といえばもう少し落とし所が見えてきたのではないかという気がする。

結局、現在のところは日本がこの種の議論で主導権を取るなどとても無理で、アメリカと、ヨーロッパ、中国で話をつけてくれたのに対して「日本はこうやって対応する」くらいしか言えないのだろう。

さびしい話であるが・・


留学時代: ニューヨークのJazz

2009-12-19 15:15:46 | 昔話
今日は1982年のニューヨークのJazzの話を書こう。

ニューヨークにはありとあらゆるものがあるという感じだが、その中でも私はジャズが好きなのでよく聞いていた。

まず、印象的だったのはJazz Mobileである。 Jazz Mobileとはニューヨーク市が貧しい人たちのためにやっている活動で、トラックに機材を積んで、公園でジャズのライブを行うものである。日本だと2千円以上のレコード(当時はLPレコードだった)を発売しているような有名なプレーヤーがこれで回ってくる。ジャズの演奏家は黒人が多いので彼らもほとんどボランティアなのかもしれない。

コロンビア大学は貧しい地域にあったので私は良く公園に聞きに行っていた。広場で演奏して周りの階段などに皆好き好きに座って聞く。もちろん無料である。演奏の時間が近づいて観客が集まってくるとシシケバブ(日本でいえば焼き鳥)の屋台などが建っていい匂いがしてくる。ビールも売っている。 演奏が始まると、「Do you Smoke ?」と言ってたばこを売りに来る。私はタバコは吸わないので断っていたが後で聞くとマリファナだったようである。

ある時、音響系が壊れてマイクが機能しなくなった。するとボーカルの人がマイク無しで歌い始めた。マイク無しで、屋外でも十分に聞こえるだけの声量である。黒人の大柄な人だったが、「やはり違うな」と思ったものである。

夜はときどきヴィレッジのジャズクラブに行っていた。たいてい2部構成で、1回目が10時ころに終わり、2回目は12時過ぎに終わる。夜中に帰るのは心配なので最初のうちは第1部のほうを聞いていたのだが、あるとき「第2部のほうがずっと良い」と聞いて第2部を聞いてみたことがある。確かに第2部のほうが本物のジャズという感じがした。

10月頃だったと思うがCool Jazz Festivalというのがあった。これは全米の有名なジャズプレーヤーが集まって、あちこちのコンサートホールで演奏会を開くイベントである。このときに聞いたカーネギーホールでのオスカー・ピーターソンの演奏は忘れられない。

オスカー・ピーターソンは当時すでにかなりの高齢でステージに上がってくるときはよたよたしたおじいさんという感じである。しかし、彼がピアノを弾き始めるともう美しい音の洪水という感じである。しっとりと弾く感じではなく次から次へとアップテンポで音が流れてゆく。そしてそれが心地良い流れになるという感じだった。

当時の留学生仲間に富士銀行から来ていた古荘さんという人がいた。25歳前後だったがすでに直木賞作家であり、彼がジャズが好きだったのでよくあちこち一緒に聞きに行ったものである。

今は変わっているかもしれないが、ニューヨークはモダンジャズでは最高のメッカといえると思う

鶴見川沿いのいちご園

2009-12-18 08:23:43 | 生活
今日は雲ひとつない冬晴れである。

普通は真上の空は青空でも地平線近くは茶色っぽくなっているものだが、今日は地平線近くまで青い空が広がっている。まるで正月か雨上がりのようである。特に風が強いわけでもないのにどうしてだろうと思う。

以前もこのブログに書いたが、鶴見川沿いの東名青葉インター辺りにいちご摘み取りのできるいちご園がある。昨年開業して夏の間は遊ばせていたのだが10月後半から再び栽培を始めた。多分クリスマス商戦を狙っているのだろう。

都会のいちご摘みは流行らないと思われ、止めてしまうのではないかと思っていたが、今年は環境対策農業モデル事業に認定されて、補助金をもらっているようである。良く見ると、害虫対策に農薬を使わない、とか書いてあるのだがビニールハウスなら簡単にできることではないかと思う。

いちご園としてはそれでも成功するとは思えない。イチゴは摘みたてと一日経ったものでどのくらい味が変わるのか知らないが、もし摘みたてのほうが味が良いなら、「新鮮いちご」として近くのスーパーに卸すほうが良いような気がする

付加価値の実態が経済価値と合わない例

2009-12-17 14:58:56 | 経済
昨日、内需関係の労働が日本も付加価値としては中国も日本も変わらないのに、日本のほうがはるかに付加価値が高いように計算されていると書いた。

これを一般化すると「異なる経済圏の内部における内需関係の付加価値は、資本及び人的流動性が低い場合には大きく異なったものになりえる」ということだろうと思う。

本日は国際的流動性が高い種類の付加価値で、付加価値と経済価値があっていないと私が感じていることについて書いてみたい。 それは私が所属しているICTの分野である。

ICT(情報通信)の分野は20世紀初頭には産業として成立していなかったが、20世紀中に急速な技術革新が起こり一大産業へと発展した。ところが21世紀にはいって、付加価値は向上しているものの経済価値は向上しない状態になったと感じている。

私の活動分野である日本の携帯電話産業を例にとって説明しよう。日本の携帯電話の産業規模は2002年あたりから殆ど増加していない。日本ではドコモなどの通信事業者が端末市場をコントロールしており、端末は安値で販売されているので、携帯電話の事業規模は
総加入者数X一人当たりの支払料金
でほぼ計算することができる。加入者数は少しずつ増えているものの、料金は少しずつ下がっており、産業規模としては変わっていないというのが実態である。

しかし、付加価値のほうはどうだろうか? この間、無線の方式は3Gに置き換わり、様々な新しいサービスが出てきている。カメラの解像度も上がり、お財布ケータイなども出てきて利便性は大きく向上している。若い人の中には自動車より携帯電話のほうが大事という人が少なくないほど携帯電話は生活に密着してきている。

それではなぜ付加価値を経済価値に転換できないのか?
それは競争で各社が値下げするからである。大部分の付加価値は半導体やソフトウェアによってもたらされている。これらの技術は一度開発してしまうと大量生産は簡単にできるので、価格を下げることができる。携帯電話の部品などは水平分業が進んでおり、多くの付加価値は部品の改良によってもたらされる。新たな付加価値を生み出した会社が安値でその部品(ソフトウェアを含む)を売り出すと瞬く間にシェアを向上させる。その会社にとっては大きな利益が出るのだが、他の会社は利益を失い、産業の規模としては変わらないことになる。

この点で私が非常に気になっているのはGoogleの動きである。Googleは多くの革新的ソフトウェアを生み出し、その多くを無料で提供している。Googleとしては広告料収入で大きな利益を上げているが、広告料は企業が元々予算を使っていた分野なので支払先がGoogleに代わっただけで産業規模は増えていない。一方、Googleのおかげでビジネスモデルが危うくなっている企業はかなりの広範囲に上る。

Googleは資本主義の中では模範的な会社である。人々に付加価値の付いた利便性を提供し、適正な利潤をあげている。しかし、産業界全体で言うと「これで良いのか」という思いを禁じ得ない。付加価値、あるいは技術革新をあまりにも安価に提供しすぎているために、産業規模をむしろ縮小させるのではないか、という思いである。

資本主義の枠組みでGoogleを規制することはできないだろう。しかし、資本主義が人類にとって最も良い経済の仕組みなのかどうかは分からない。資本主義を超えた新しい概念が必要な段階まで人類は来ているのではないかと感じている