ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

天皇の描いた「象徴天皇のあるべき姿」とは

2019-04-28 14:12:45 | 社会

平成も今日を入れて残り3日になった。天皇の生前退位が決まったのは2年弱前の天皇の国民向けの「お言葉」がきっかけなのだが、その「お言葉」の解釈がテレビなどを見て物足らないと関しているので、私なりの解釈を書いておきたい。

元々、私は天皇にも天皇制度にも無関心だった。中学生の頃には天皇崇拝派の先生と天皇反対派の先生がいて色々と授業中に言われたが、どちらも「嘘くさい」と感じていた。天皇崇拝の先生はマッカーサーと昭和天皇の会談の話を出して「会談前と会談後ではマッカーサーの天皇に対する態度がまるで変った」と言っていた。私は「どうせ大げさに言っているのだろう」と聞き流していたのだが、後でマッカーサーの回顧録が発表されてそれほど嘘は無かったことが分かった。天皇反対派の先生は戦争責任を言っていたが私は「今は変わったのだから関係ない」と思っていた。

そんな訳で天皇にも天皇制度にも無関心でいたのだが、長い年月を経て次第に負のイメージは消えていき、正のイメージが増加してきたように思う。私が天皇に関して関心を持つようになったのは退位の意思を示す「お言葉」がきっかけである。この中で「私は『象徴天皇はどうあるべきか』ずっと考えてきました」と語られている。そして結論として「生前退位が望ましい」という結論を導き出している。当時の侍従も宮内庁も生前退位は想定していなかったので、周囲の意思に反して自らの考えを明確に示した「お言葉」だったと私は思っている。それまでは私は天皇に対して、周囲から「これをお願いします」といわれて「ハイハイ」とこなす人だと思っていたのだが、これを聞いて私のイメージは大きく変わった。周囲を傷つけないように最大限の注意を払って言葉を選びつつも自分の意思を明確に示す「お言葉」だったと思う。「これは素晴らしい人物だ」と私のイメージは変わった。

なぜ「生前退位が望ましい」という結論に至ったのだろうか? それまでは「象徴天皇は存在である」、つまり日本にとって「天皇が存在すること」何よりも重要だ、というのが侍従や宮内庁などの認識だったと思う。しかし、平成天皇は熟考の後「象徴天皇は機能である」という結論に至ったのではないかと私は解釈している。つまり「日本の良いところを体現して世界に示すこと」が象徴天皇に求められる機能だという結論に至ったのではないかと思う。機能ならば機能を果たせなくなれば交代するのが当然である。それが、「まだ元気なうちに交代する」という強い意志につながったのだと思う。

象徴天皇の初代は昭和天皇である。しかし、昭和天皇は実権を握っていた天皇から、戦争責任を取って象徴天皇になった。象徴天皇としては「国にマイナスとなることは一切しない」という受け身の姿勢で、「本来の象徴天皇はどうあるべきかはお前が考えなさい」というような会話が平成天皇との間で交わされていたのではないかと思っている。そして平成天皇は「象徴天皇の機能を果たしてこそ、天皇」という結論に至ったのだと思う。

令和の時代になって、更に天皇の位置づけに変化が出るか、おそらく変化はなく、あるとしても極めてゆっくりだろうと思う。私は一つ変化があるかもしれないと思っている点がある。それは「天皇も国民である」という意識である。現在皇族は国民ではない。平成天皇のお言葉のなかで「自らも国民の一人であった皇后がこちら側に来て私を助けてくれた」という表現がある。これは皇族は国民ではない。おそらく職業選択の自由もないという認識だと思う。しかし、2代続けて民間から妃を娶っており、ひょっとすると意識の変化が出るかもしれないと思っている。


日本のITの将来への取り組み方を考える

2019-04-25 10:15:11 | 経済

みずほ銀行に次いで三菱UFJがITシステムの減損を発表した。こちらはニコスカードのシステムだそうである。私はこの背景には日本企業のIT技術のレベルの低さがあると思っている。

現在のITシステムの大規模なものはクラウドベースで大規模なデータセンターを作って構築するのが常識である。データセンターでは大量のサーバを並列に走らせて、どのサーバでどのような処理をするかをダイナミックに変更する仮想化技術が導入されている。このような大規模データセンターの構築技術で日本はかなり出遅れている。NTTデータなどもデータセンターを持っているのだが、規模はAmazonやGoogleの1/10以下、ひょっとすると1/100程度ではないかと思っている。これだけ規模が違ってくると開発力、運用力ともにかなりの差が付く。更に開発手法も問題で日本企業は仕様がどんどん変化するアジャイル開発の導入が遅れており、仕様を固めてから何年も後にシステムが稼働するような開発しかできない。

その一方で、銀行システムのような国の根幹をなすようなシステムをAWSのような外資系の企業の商用システムに任せて良いものか、という疑問もある。現在は中国企業のセキュリティ問題が言われているが、米国企業なら良いだろうか、というのは疑問は残る。

このような場合、多くの人が言うのは国策プロジェクトで市場を作り、日本企業の技術を育成するという手法である。しかし、私には国策で市場を作りAll Japanで開発したとしてもコストを含めた技術力で追いつけるとは思えない。最近、国策企業として設立されたジャパンディスプレイが中国企業の傘下に入ったが、このような結末になる可能性が高いと思う。

国の根幹だから競争力が低くても国内で賄うという考え方はある。その場合、国民は割高でパフォーマンスの悪いシステムを我慢しなくてはならず、全体として他の産業の競争力の足を引っ張ることになるだろう。米国や中国のような大国は国内市場も大きいので自国主義を貫くことができる。北欧のような小国では自前主義はあきらめているだろう。日本はどうするべきだろうか?

私は自前主義は無理で、海外の技術を入れるべきだと思う。米国政府がやったように入札条件に国土保全の考え方を入れたうえで、世界の技術を取り込むべきだと思う。その中で日本企業にある程度有利になるような条件を入れて、技術力が世界のトップに迫っているような企業には市場を分け与えるというあたりが妥当だと思う。

21世紀に入って日本企業のIT技術の世界トップとの差は開いてきており地盤沈下が続いている。10年後はさらに開いているだろう。巻き返しの手を今売ったとしても底を打つのは10年後で、手を打たなければ20年後には日本企業の技術力はさらに下がり、IT分野ではニッチを狙う中小企業しか残らなくなると思っている。現状で適切な手が打たれているとは私は認識しておらず、20年後が底になる可能性は高いと思っている。


5G移動通信の報道に見るハイプカーブの動き

2019-04-13 18:17:22 | 経済

日本政府が5G移動通信の免許をオペレータ各社に与えたと大々的に報じられている。このニュース自体は大きなことなので報道が大きくてもよいのだが、中身でいまだに「従来の10-100倍の伝送速度」などと言っているので、「いったん広まったハイプはなかなか収まらないものだ」と改めて感じる。

そもそも、「従来の10-100倍の伝送速度」は「できればよいな」という希望であって、現実の技術者で需要があるとも、実際に実現しようとも思っている人はほとんどいないはずである。それが電波免許を出す政府が世界各国集まる場で『「従来の10-100倍の伝送速度を実現」したら電波を割り当てる』と決めたので、技術者が集まって「こうすればできる」という答えを示したのが現在の5G である。理論的にできることを示せばよいので非現実的な実現方法でも構わない。実際のところ現在の5Gの方式は「10倍の周波数を割り当ててくれたら速度は10倍にできる」という当たり前のことに多少色を付けた程度である。

現実にはユーザから見ると新しい周波数帯が割り当てられたので混雑がない、ということ以外は殆どわからない程度の進歩になるだろうと思う。私はだから「5Gには意味がない」などというつもりはなく、電波を移動通信に割り当てるのは大いに意味のあることだと思っているが、それは「伝送速度を10-100倍にするためではない」ということを言いたいだけである。技術的にも意味はあるのだがそれは専門家でないとわからないような細かい意味である。

今回の割り当てでドコモとKDDIは3-4GHz帯にそれぞれ200MHzを貰い、ソフトバンクと楽天は100MHzを貰った。これは通信オペレータにとって大変大きなことである。今まではデモサービスを見せるなど大変な働きかけをして、割り当てられる周波数はせいぜい40MHzという程度だったので、一気に大量の周波数を貰ったことになる。このほかに28GHz帯に各社100MHzずつもらっているが、この周波数帯は使いにくいので価値は3-4GHz帯の1/10以下だろう。

2020年から各社サービスを始めると言っているが、実質的なサービス内容は4Gサービスになると私は思っている。政府に約束したので10%程度は5Gに割り当てる、あたりが現実的なところだろう。この周波数帯を使うとユーザは「速い」と感じる。しかしそれは技術が違うからではなく、新しい周波数帯で混雑していないだけの理由である。

今、5Gはハイプカーブの頂点に近いあたりにいると思う。今年の1月から3月にかけて世界的な展示会で様々な5Gの展示が行われ、そこで「これは大事」と感じられるような4Gとの違いを示すようなものはなかった。それでメディアはトーンダウンするかと思っていたのだが今のところトーンダウンの兆候は見られず、いまだに頂点付近に留まっている印象である。一度作ってしまったイメージはなかなか変わらないものだ、と改めて思う。このまま「期待外れ」という論調は出ずに5Gは立ち上がるのか、来年の今頃は「期待外れ」ということになるのかは分からないが、実態は「4Gに新しい周波数が割り当てられた」のと変わらないことになるのは間違いないと思う。


不合理な保護は業界を弱くするだけ。改善するには公的会議の見直しが必要

2019-04-08 10:08:06 | 生活

日経XTECHに「遠のくライドシェア解禁、「圧力」に屈したIT業界」という記事が出ている。これはUBERのようなライドシェアサービスの日本での解禁には多くの条件が付きそうだということを言っている。私はこの動き自体には詳しくないのだが、全体として日本政府のこのような業界を保護する動きは結局その業界を弱くするだけだと感じている。

日本では例えば東京のタクシーが客を乗せて横浜まで来た時に、その客を降ろした後、東京に戻るまではタクシー営業を行なってはいけないことになっている。トラックなどが帰りを空トラックで帰らずに何かを積んで帰るように工夫している効率を上げようとしているのと真逆の動きである。効率を考えれば明らかにタクシー業界は効率を落としており、結果として日本のタクシーは料金が高いにもかかわらず、タクシー運転手の収入は少ないという状況になっている。政府が効率が悪くなるように規制をかけて「皆が等しく貧しくなるように」という政策を取っているのだから当然と言えるだろう。

京都のMKタクシーが規制と戦ったという話は有名だが、なぜ規制緩和が進まないかというと、誰かが新機軸を打ち出してシェアを拡大しようとすると、業界の他のメンバーが陳情してそれをやらせないようにして、結局政府は既存の業界の意見を尊重するからだと私は思っている。つまり政府に悪気はなく「業界のため」を思った政策を取っているのだが、結果として業界を不活性化しているということだと私は認識している。ある程度以上に規制が入った業界(厚生労働省関連はこの種が多い)ではこういうことが起こりやすい。農業もこの種の業界の典型だったが最近やっと改善されてきた。

このような空気をどうやったら変えることができるだろうか? MKタクシーの例を見てもわかるように業界の中からこの種の提案が出てくることはあり得るが、他の大多数が反対することは容易に想像され、この姿勢を変えることは期待薄だろう。やはり政府の規制改革を審議するような場で、「合理性のある案が通りやすい」という空気を醸成していくしかないだろう。こういった方針をガイドするのは官僚で、官僚は業界単位で組織が分かれているので、官僚が業界側に付くのもある程度仕方がないと思う。官僚の中には色々な人が居るのだが私は官僚が業界べったりとは思っていないが全体の空気を換えるのは容易でないと思う。しかし、業界そのものを変えるよりは官僚のマインドを変えるほうが現実味が高く、そこが政治の役割だと思っている。

私は現在の政府の各種会議の進め方に問題があると思っている。政府が規制改革等を議論するときほとんどの場合業界関係者、学識経験者から構成される審議会を開催する。議長は殆どの場合大学教授で、第3者の意見を取り入れるような構造になっている。ところが実態としてはこの審議会で激しい議論が取り交わされることはなく、最初の何回かは世界の動向などの情報収集と各団体からの意見陳述を行い、事務局が「皆の意見をまとめるとこうなる」といってまとめのたたき台を用意する。各委員は数分間でこのたたき台に対してコメントを述べるだけで基本的には事務局案が通る、というのが殆どの基本の審議会の進め方である。

この方法がうまく働くときもある。進むべき方向性が明らかで重要なのは関係者間の利害調整、というような場合にはこの方法は非常にうまく働く。私の専門である無線通信の関係で言えば、電波割り当てを決めて複数の申請者が出てきたときに、とこの会社にどれだけ割り当てるか、というようなことを決める会議では当事者は全員自分のところに電波を割り当ててほしい訳で、議論して公平な落としどころを見出すのは極めて難しいからである。

その一方で「どうすればよいか」が分からないような場合にはこの方法ではうまくいかない。具体的には事務局である官僚にうまい解決策を見つけることができないような場合であるが、このような場合には、多くの識者から様々な意見を出してたたき合う、例えば泊まり込みで議論をするようなやり方が有力である。しかし日本の公的な会議ではこのような手法が採用されることは無い。

基本姿勢として「合理性のある方向に舵を切る」という姿勢を持ち、官僚主導の取りまとめと、徹底的に議論するまとめ方の会議を使い分けることが改善の方策だと思っている。


進歩しない分野と進歩の速すぎる分野

2019-04-01 18:25:08 | 生活

新元号は「令和」に決まった。私は万歳を叫びたいほど気に入っている。先日、このブログに書いた「日本の社会哲学として『和』はどうか」というのにぴったりの言葉だからである。令は令嬢の令で美しいというような意味と命令の令で~をさせるというような意味があり、「和」が大切という気持ちが表れている。安倍総理がテレビ朝日で「お互いに相手との違いを認めながらも尊重する」と「和して同ぜず」の心を語っており、私の期待する方向にもっていこうという気持ちがうかがえる。

今日の本題は音楽の話である。私は毎日ラジオを聴きながら2時間ほど朝のうちに散歩をするのだが、ラジオでは70年代、80年代の曲が良くかかる。私自身このくらいの時代のものが好きなのだがふと「40年前のことを話して仕事になるのは良い商売だな」と思った。

私が大学を卒業して会社に入ったのは1974年だが、その時にはパソコンも携帯電話もインターネットもなかった。当然そのころの知識は現在は全く役に立たない。情報通信の分野ではおそらく2000年頃の知識もほとんど役に立たないだろう。それに比べると音楽紹介などでは40年前の知識がまだ役に立っている。一度その分野でポジションを確立すると長期間の安定が認められる。逆に言えば最新の音楽よりも以前の音楽のほうが良いと感じる人が多いことを意味している。これは音楽が進歩していないことを意味していないだろうか?

私はジャズが好きである程度聴いたつもりだが、私の感覚ではジャズのピークは1950年代で、1960年代はミュージシャンが内面を深く見つめすぎて抽象的になり、一般人にはついていけなくなったと思っている。ジャズ人気が下がってしまったので70年代後半辺りから聴きやすい娯楽性の高い音楽に戻して人気はそこそこ復活しているが、1950年代のような突き詰める感覚はなくなっていると感じる。

他の芸術の分野、クラシック音楽や絵画、文学なども同様に抽象化が行き過ぎた結果人気がなくなり娯楽性を高めて生き残っていると感じている。娯楽やファッションは常に変化するがそれは進歩ではなく流行だと思っている。要するに人の感性はそれほど変わらない、ということだろう。

その一方で情報通信の進化はむしろ早すぎる。次々と新技術が出てきて10年くらいで前の技術は使い物にならなくなるので、常に最先端を走れる人は稀である。50年間は生産人口であろうとすると、非常に苦しい状況になる。勤労者の入れ替わりの遅い日本はこれについていけずに苦境に陥っている。以前書いたように競争が社会の根幹なので付いていくしかないのだが、もう少し進歩を緩めればよいのに、と思うのは正直なところである。