ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

かすかなハロウィンの記憶

2016-10-30 14:08:14 | 生活

昨日は、神保町にある学士会館に囲碁を打ちに行き、帰りに古本市を見た。路上に古本を売る屋台が出ていて、分野別に様々な本が出ている。単に古本を売っているというより、お祭りのような感じで、空揚げやビール、流しそうめんの屋台も出ていた。大通りではなく裏道で屋台が出ているので道が狭くなっているうえに人出が多く、なかなか歩けないような感じだった。古本市は古本を見に行くというよりお祭り感覚で行くもので、古本を買いたい時は普段の空いている日に行くほうが良いという感想を持った。

あざみ野に帰ってきて、駅近くのイデアリーナという高級住宅街を通りかかると、各家の前にお母さんたちがきれいに包装されたお菓子を並べた屋台を作っており、子供たちはマントのようなものを着て集まっている。ハロウィンのイベントの準備をしているのだと分かった。ハロウィンのイベントが日本で行われるようになったのは最近で、年々派手になってきていて、経済的効果も高まっているという。私は大人になってからはハロウィンで何かしたことは無いのだが、かすかに子供のころの記憶が残っている。

多分私が小樽に住んでいた小学生の頃だったと思う。大きな缶詰の空き缶に釘で穴をあけ、中にろうそくを立てて「カンテラ」を作る。日が暮れると子供たちは各々カンテラを持って、家々の前で「♪ろうそく出せ、出せよ。出さないとかっちゃぐぞ(ひっかくぞ)」と謳う。すると家のおばさんが出てきてろうそくと、お菓子(飴玉など)をくれる、ということをやった記憶が残っている。10人くらいの子供たちで練り歩いたような記憶がある。季節は秋だったと思う。その時「ハロウィン」などという言葉は使っていなかったと思うが、あれは「ハロウィン」のイベントだったのではないかと今にして思う。小樽には小学校1年から5年まで住んでいたが、小樽以外ではこのようなことをやった記憶はない。小樽全体でやっていたのか、私の住んでいた家の近くだけでやっていたのかは分かっていないが、お祭りのような商業的イベントではなく、ご近所のイベントだったと思う。イデアリーナでやろうとしていたイベントに近い感じである。

50年以上前の話で、当時の小樽は札幌に次ぐ北海道第2の都市だったが、田舎町でまだ馬車で荷物を運ぶ人もいて、道に馬糞が落ちていたような時代である。誰か海外生活をした人が居てその人が持ち込んだのだとすれば当時としては随分おしゃれなことをやっていたと思うし、それに乗っかったご近所さんも先進的だったな、と今にして思う。そのハロウィンのようなイベントは小樽で今でも続いているのだろうか。


報道に見る意思決定者の顔色を読む日本社会

2016-10-27 10:02:26 | 社会

アメリカの大統領選挙も候補者同士のディベートが終わり、投票を待つ状態になった。トランプが負けそうだ、という調査結果が出て「一安心」と思っている人は多いだろう(私自身を含めて)。一連の報道を見て日本とアメリカの報道の姿勢の違いを改めて感じた。今回の大統領候補者のディベートは「史上最低のディベート」と酷評されることが多い。その多くは「相手の欠点をあげつらうばかり」「自分の政策の深堀りが弱い」といった類の評価で、コメントする人自身の候補者の発言に対する期待があり、それを満足していない、ということによるコメントだと感じられる。

これが日本だったらどうだろうか? 大部分がトランプが大統領になったらどうなるか? クリントンが大統領になったらどうなるか? という話と、ディベートの時の態度、作法に関するコメントになると私は想像している。それはコメントする人が「本来こういう話をすべき」という基準を持っていないからだと思っている。東京都の豊洲移転、オリンピックの会場移転、国会のTPP審議の様子などに関する報道を見ていてもすべて同様な感じを受けている。つまり「小池知事はどうしたいか?」「バッハ会長はどうしたいか?」「安倍総理はどうしたいか?」といったことを探るための報道であり、その背景には「本来どうあるべきか?」という問題意識が感じられない。

これは報道関係者だけでなく企業などでも全体的な傾向だと思っている。「意思決定者の思惑を探る」ことに多大なエネルギーをかけて、自分で問題の解決策を考えようとしない、安っぽい雰囲気が社会に充満している感じがする。報道関係者も、若いころは自分の意見を言っているのだろうが「お前の意見は求めていない」と言われ続けて考えなくなっているのではないかと思っている。企業においても自分の意見を言う人は疎まれ、言われたことを効率良くこなす人が褒めたたえられる。それでも出世して責任ある立場になると自分の考えを言わざるを得なくなることが多い。その時に、深く考えていなくても、いかにも考えているかのようなもっともらしいことを言える人が出世する社会に日本社会はなってきている感じがする。報道関係者が政治の世界に入る人は少なくないが、このような雰囲気を感じさせる人が多い。

豊洲移転に関しても「経緯が分からない」と言われて、「責任者がはっきりせずにこのような重大なことを決めるはずがない」という前提で調査が行われているが、私は実際に責任者がはっきりしていないのだろうと認識している。これは私の想像であるが、「建物の下に盛り土をすることは意味がない」というのは土木業界とすれば常識だろう。つまり、盛り土は地震対策などの建物強度には意味がなく、空間であろうが盛り土をしていようが建物の強度的には違いがない。それなら掘ったところはそのまま空けておいたほうが安上がりだという空気が生まれ、当時の石原都知事の「空けておいたほうが良い」という発言を受けて、「知事が空けておいたほうが良いと言っている」という空気が東京都の職員全体に行きわたり、現在のような状況につながったのだと思っている。石原知事の意見を広めた人は当時の側近の中にいるのだろうが、これはその人の意見ではなく、知事の意見として流れているので、本当に空洞にすることを推進した人の名前はどんなに議事録を調べてみても出てこない、というのが実態だと思う。石原知事自身は深い考えもなく、「盛り土は意味がない」と聞いてそれを発言しただけというのが実態だろうと思っている。

このように、深く考えない上司の下に、上司の意見を探る部下が集まるとろくな結果は出ない。特に新しい組織を作ったような場合には初代の責任者がどのような人かが極めて重要になる。日本の場合、新しい組織を作ったとしても、その組織のミッションは明確化されず、何となく「こんなことをやってほしい」というあいまいな定義で動き始める。政府の「オリンピック担当大臣」がその好例である。たまたま、そこにきちんと考える責任者を割り当てた場合にはうまくいくが、そうでない場合には失敗する。

日本企業の新事業の成功率が全般的に低いのはこのあたりに理由があると思っている。


川崎市の地域振興戦略に思う

2016-10-24 12:01:38 | 社会

9月後半から、私は顧問をしている日本無線の本社がある中野に週1回通うようになった。中野は意外に通勤に便利で、田園都市線から渋谷で乗り換えて山手線に乗り、新宿で総武線に乗り換えるのだが、山手線は意外に空いていて朝でも座れることが多い。また新宿の乗り換えは向かい側のホームなので極めて便利である。本社も駅から近く、便利なのだが、その分歩く歩数が少なくる。

そこで、駅から遠回りをして歩いてみたり、昼休みには隣の高円寺まで歩いて昼食を食べたりしているのだがそれでも歩数が進まない。中野から見ると新宿の高層ビル街が意外に大きく見えるので歩いてみることにした。主に朝、新宿駅で降りて、都庁のほうに向かい、そこから北のほうに向かう。高層ビル街が終わるといきなり平屋の一戸建ての街になり、細い路地があちこちにある、私の好きな散歩コースになる。古い家や店が並んでいるあたりを、大久保、東中野、中野とあまり中央線から離れないあたりを歩く。1時間ちょっとである。

高層ビル街からいきなり平屋の街になるあたりが、日本の都市設計の自然発生的な感じの典型であると感じる。つまり、日本の都市は長期的展望がなく、必要に応じて2-30年先を見て決めている都市計画で、欧米の2-3百年先を見ているのとかなり違いがある感じがしている。そんな中で、川崎市は100年単位で考えて都市計画構想を持っているような感じがして私は感心している。川崎市は東京郊外の衛星都市として、東京圏が広がってきて、単なる住宅街ではなく産業地域を含めて発展させることを狙っている感じがしている。

特に感心するのは複数の拠点を作りそこをベースに発展させていこうという考えである。現在は、川崎駅前と、武蔵小杉を大規模に再開発している。特に武蔵小杉はJRの湘南新宿ラインなどJRの基幹線路を誘致すると同時にタワーマンションを建設して、街のイメージが上がってきている。川崎市は更に、溝口と新百合ヶ丘を拠点としようとしている感じが伺える。溝口は東急と南部線が交差する地域であるし、新百合ヶ丘には地下鉄建設計画が動いている。このようにある程度離れた地域に都市の拠点を設けその途中を職住接近の住宅街として発展させようとしている。この計画は成功しており、川崎市の人口は増えてきている。

私の住んでいる横浜市はイメージも良く、人口も多いのだが、残念ながら川崎市ほどの戦略性を感じない。横浜駅前からみなとみらい地区を中心部として発展させようという意欲は感じるし、港北ニュータウンもそれまでのニュータウンとは違う感じで発展しており、全国の年の中では良いほうだと思うが、みなとみらいや港北ニュータウンを構想したときの市長の構想があまり引き継がれておらず、基本的には横浜駅前地区を大都市にしようという考え以外は自然発生に任せている感じがする。都市として発展の条件はかなり備えていると思うのでもう少し構想力な大きな市長が出てほしいものだと思っている。

 


将棋の三浦九段がカンニング疑惑で竜王戦挑戦者から外される

2016-10-13 12:39:22 | 生活

昨日、囲碁・将棋ファンにとっては衝撃的な事件があった。将棋界で最大の賞金額の竜王戦の挑戦者に決まっていた三浦九段が将棋連盟の決定で挑戦者から外され、挑戦者決定戦で負けていた丸山九段が洋泉社になることに決まったのである。理由はその挑戦者決定戦などの戦いで三浦九段がしばしば席を外しており、スマホで人工知能の助けを借りていたのではないか、という疑惑があるからだという。

本人は別室で休憩していたと言っているそうだが、疑惑を晴らすことができず、「疑われたままでは対局できない」と本人も言っていたことから、時間切れで挑戦者から外すことになったらしい。真偽のほどは不明だが、私の個人的な感想では三浦九段はそのようなことをやりそうにないタイプの代表だと思っている。しかし、しばしば離籍するとそのようなことが疑われる時代になった、ということは一つの大きな区切りのような気がする。

この発表の数日前に将棋連盟はプロ棋士に対して対局中はスマホを事務方に預けることにする、という新ルールを発表している。つまり、コンピュータ(スマホ)のほうがプロ棋士よりも将棋の技術が上だと認めたことになる。実際、「詰むか詰まないか」と言った終盤の戦いではコンピュータがプロ棋士を圧倒している。終盤になるとコンピュータの指示通りにやったほうが確実に勝てるというのは間違いないようである。もちろんスマホで計算しているのではなく、インターネット経由でクラウドの中のコンピュータで計算しているのだろう。

これまでも自分より強い人が居るアマチュアの大会や、プロではない掛け将棋の戦いなどでは、本人より強い人が居ることは明らかなので、席を外すとしてもせいぜいトイレに行くなどで1対局に1回程度に限られていたのだが、プロ同士、特にトッププロの戦いでは「アドバイスを求める」ということは考えられなかったし、持ち時間も長いので自由に席をはずしてよいことになっていた。しかし、コンピュータのほうが明らかに人間よりも強いとなれば、カンニング防止策が出るのは当然だと思う。この防止策が発効するのは年末からということなので、今回の竜王戦は挑戦者を変えたりせずにそのまま対局するのが筋だと私は思っている。

人工知能が明らかに人間の能力を上回ってしまうと、将棋のプロ棋士の勝ちは相対的に下がってしまうのではないかと思う。趣味としてやる人は多いので、レッスンプロの価値はそれほど下がらないが、トーナメントプロの勝ちは下がってくるということになると思う。つまり、現在トッププロとして勝つことにほとんどのエネルギーを注いでおり、収入も多いような人の収入は減りはじめ、トッププロになり切れなくてレッスンプロに転向したような人の中で教え方のうまい人は生き残れる、というような事態になると思う。

これは将棋のプロ棋士ではじめて顕在化した状況だがあらゆる産業に影響してくるだろう。会社経営などの複合的判断を求められる仕事がコンピュータに負けるまでにはまだ数十年かかると思うが、一部の限られた分野での判断を仕事にしている中間層の没落は早いと思う。政府レベルで対策を検討するべき問題であると思う。


富士通とレノボのパソコン事業統合に思う

2016-10-12 10:09:51 | 経済

富士通が中国レノボとパソコン事業を統合することで合意した。このニュースを聞いて私はある感慨を持った。もっとも考えたのは富士通のパソコン事業の将来ではなく、5年前に同じようにレノボと事業統合したNECのパソコン事業についてである。今回の富士通の判断を考えると、2011年のNECの判断は好判断だったと思えるのである。

今後は富士通ブランドで事業を継続するのだろうがNECブランドと富士通ブランドのパソコンは競合するので、いずれ富士通ブランドはNECブランドに吸収されていくのではないかと思う。この5年間のNECと富士通のパソコン関係者でもNECのほうが気持ちよく仕事ができたと思う。

思い起こせはNECのパソコン事業は大成功だった。私が入社した1970年代中ごろにTK80というキットから始めてパソコン事業を立ち上げて日本国内で圧倒的なシェアを取った。1990年代半ばには私は研究所から開発研究所に異動になり、パソコンや家電を扱う部門の一部に入った。このグループに当時売れ始めていた携帯電話端末事業が入っていたのである。私は無線の研究者だったので通信部門の技術者とは付き合いは深かったが、この時に当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったパソコン事業の人たちと交流ができた。

通信事業関係者は技術至上主義が強く、NECのパソコン事業はたいした技術を持っていないなどと言っていたが、中に入ってみて、パソコングループはマーケティングが非常にしっかりしていた点が印象的だった。通信グループはNTTが最大顧客であり、NTTの要求を聴くことがマーケティングだったが、パソコンのマーケティングは最終消費者の求めるものを調査する本格的なマーケティングだと感じたことを記憶している。当時、ハードウェアのアーキテクチャとして国内を牛耳っていたNECアーキテクチャを捨てて世界標準になっているIBMアーキテクチャにどう移行するか、とかMS-DOSからWindowsへの移行にどう対応するか、とかいった議論にも民需の厳しさを感じていた。

90年代後半以降は、ハードもIBM互換でOSはWindowsといういわゆるMocrosoftとIntelに事業が握られてNECのPC事業も苦境を迎える。このような時期に私も無線技術者の一人としてマイクロソフト本社を訪問したりしていたのだが、NECのパソコン事業は利益率を下げながらもしぶとく国内トップを維持していた。そんな時期に無線事業のトップであった横山副社長がパソコン関係を見るようになった。通信事業一本で育ってきた横山氏が民需系であるパソコン事業の問題点を的確に把握し、指示を出す姿を見て私は「この人こそ次の社長にふさわしい」と思ったものだったが、それはかなわなかった。

話をレノボとの事業統合に戻すと、あの時期にレノボとの事業統合を実現させた経営判断は慧眼であったと思っている。事業は始めるときよりも引くときのほうが難しい。私は2007年にNECを退社していたので、誰が事業統合を進めていたのかは知らないのだが、おそらくパソコン系の事業で育ってきた役員が判断したのだと思っている。私は退社前にNECの今後にはパソコン事業のような民需経験の深い人が必要だと思っていた。それは事業の変動が激しく、それだけ様々な苦境を経験していて判断力が身についていると感じていたからである。

実際のところ、NECは顧客がどう判断するかが不透明で経営判断の難しい分野を次々と手放し、安定顧客の見込める分野に注力してきた。これで果たして経営者が育つのかを危惧している。私が退社してほぼ10年になり、今の幹部は私の良く知らない人が大部分である。今、世界のICT事業は大きく転換しようとしている。経営者の資質が一層重要になってきているので、きちんとした事業判断をできる人に舵取りをしてもらいたいと感じている。


資本主義の行き詰まりを考える ー哲学が必要ー

2016-10-10 20:16:55 | 社会

一連の資本主義の行き詰まりに関するブログもこれで一段落としたい。

始めに格差修正に税制で対応する方式に関して、書き残したこととして相続税の話がある。

相続税を高くして、稼いだ人はできるだけその人の人生で使ってもらうように相続税を高くすべきという意見があり、これは合理的だと私も考えている。ただ、これは会社の相続をどうするかという問題が私の中では答えが出ていない。ビル・ゲイツのような大富豪はたいていは会社の創業者で資産の大部分が株であることが多い。こうした人の相続税を例えば90%にすると、いわゆる家業として残すことが実質的にできなくなる。

いま世界でかなりの割合の優良企業が株式非公開のオーナー企業であることを考えると、こういった事業継承を実質的に禁止するというのはいかがなものか、という思いは禁じ得ない。事業継承だけは相続を容易にする、というような例外規定を作れそうな気もするがうまく作れるのか、おかしなことにならないか、私の中では答えが出ていない。それでも相続税の累進課税の税率を高くすることは検討に値すると思っている。

私は、政府による富の再配分もある程度は必要だが、ある程度豊かになった人は「人生、金だけじゃない」というような価値観を広めていく必要があるのではないかと思っている。制度的には良い仕事をした人とそうでない人では経済的に差がつくようにしておくことは不可欠である。極端に貧富の差がつきすぎたときに、法律などで一律に差を縮めるよりも、ある程度資産ができるとその人の求めるものが変わってくる、というような社会が望ましいような気がする。これを私は「社会哲学」と呼んでいる。個人の哲学ではなく、社会で共有するような哲学というつもりである。

北欧は累進税率が高いのだが、スウェーデンの大企業エリクソンなどである程度偉くなった人と話をすると「人生の充実は金だけじゃない」というような感覚を持っていることを感じる。そのような人も若いときはものすごい勢いで仕事をしていた。年齢が高くなって個人資産が増えてきても、仕事に手抜きをするようなことはせず、熱心に仕事をするのたが、「周りから尊敬を集めることがより重要」と考えているような印象がある。

日本人も伝統的にはそのような価値観を持っていたと思うのだが、戦後になって急激にそのような社会哲学が失われて、拝金主義に流れてきている感じがする。改めて「充実した人生とは何か?」を問いかけて、議論するような風土づくりが必要なのではないか、という気がしている。大学教育辺りで、このような社会哲学を学生に考えさせられないかと思っている。


資本主義の行き詰まりを考える -可能な解決策ー

2016-10-09 20:51:28 | 社会

資本主義の結果として必然的に生じる貧富の差の拡大を抑えるにはどうしたら良いのだろうか?

最も自然に考えられるのは政府による富の再分配である。具体的には累進課税だろう。ピケティもこの考えを推奨している。累進課税制度を強化して金持ちから多くの税金を取り、福祉を手厚くすればかなりの程度に貧富の差により生じる不満を解消できるだろう。

しかしこの方法はある意味で競争の抑制であり、累進課税を強化した国では国民の意欲が減退することをある程度想定していかなくてはならない。更に最近EUのApple社への追徴課税で有名になったように、税率の低いアイルランドに本社を置いてそこで利益を計上するような企業は現れる。EUの発表によるとアイルランドのApple本社には活動実態がないそうである。

アイルランド政府も、Apple社もEUの追徴課税には反対しており、アメリカ政府も反対の意向を示しているようなので簡単には解決しそうにないが、アメリカとヨーロッパの関係なのでいずれは解決するだろうと考えている。日本も含めたG7の国では何とか解決策を見つけることができると思う。しかし、アメリカと中国、ロシアの間でこのような問題が起きた場合には解決は非常に困難だろう。世界にはいろいろと異なった価値観の国があるので解決は非常に難しいと思っている。

国の間で税率が大きく異なると企業活動にゆがみが出ることは容易に想像される。実態として活動がない国に名前だけの企業を置いてそこで利益を計上するのは、明らかにおかしいと思うのだがそれでもなかなか難しいのである。特に最近のように自国だけを大切にしようという機運が盛り上がっているときには交渉は難航すると思っている。

純粋に経済合理性だけを考えれば、収入は付加価値に比例するのが合理的である。付加価値を大きくつけた人には高い報酬を払うが、それを税率で調整してしまうと、その国には優秀な人が集まりにくくなる。これが国際調整が難しいだろうと考える理由である。

私は、累進課税以外に、税率を国際調整した方が良いと思うことがある。それは付加価値を付けないゼロサムの活動で得た利益には高い税率をかけるべきだろうという考えである。具体的には投機による利益には投資による利益よりも高い税率をかけるべきだという点である。これも一つの国だけでやると投機資金がその国から逃げ出して経済的にダメージを受けるので、国際連携が不可欠である。しかし、投機はある程度までは認めても良いが行き過ぎると好ましくない、ということは広く認知されているので調整は可能なのではないかと考えている。前回書いたアメリカ大統領選挙でのサンダース人気などは、このような投機による利益が大きくなりすぎていることが影響していると私は考えている。

このような経済政策だけではうまく解決できないのではないかという感触を私は持っているが、この点に関しては次回に回したい。


資本主義の行き詰まりを考える -なぜ有効な解決策が見つからないのか-

2016-10-08 09:15:56 | 社会

前回書いた資本主義の行き詰まりは私だけが感じていることではなく、既に多くの人が問題意識として持っていることである。この問題は「世界をどのように動かすか?」という大きな問題なので一介の市井の個人である私が論じるよりも、政府の中枢にいるような影響力のある人たちが論じるべき問題である。実際、欧米の政府の中枢では真剣にこの問題が論じられている感じを受けている。おそらく中国の政府内部でもかなり深く検討されていると思う。

残念ながら日本政府の中枢ではこの問題が真剣に考えられているという印象がない。アベノミクスは企業は個人がため込んでいる膨大な預金をどうやって社会に流通させて、景気を良くするかというHow Toの議論であり、社会の本質に切り込むような切り口は見えていないと思っている。

世界中の優秀な人たちが検討しているのになぜ有効な解決策が見えてこないか? それは「競争」よりも有効な個人の能力を生かす仕組みが見つからないからだと私は考えている。競争は必然的に勝ち組と負け組を作る。従ってそれが経済的に豊かなものと貧しいものを作り出すのはある意味で必然だと思う。「競争」は目的ではなく手段である。目的は「頑張る人が報われる社会を作ること」だと思う。

頑張る人が報われる社会を作るためには頑張っている人を適切に評価する仕組みが必要である。しかし、どのような仕組みを作ってもその仕組みは必然的に腐敗する。100%頑張っている人が高く評価されるような仕組みを作ることは不可能である。良くて90%が正しく評価され、残りの10%は頑張っていない人が運良く評価されるようなことが起こる。問題はこの10%の運良く評価された人で、この人たちは頑張るよりもむしろ現在の地位にしがみつくための行動に多大な労力を費やす。そしてこういった人の影響で次第に「頑張っていないが上手な動き方をする人」が評価されるような仕組みが構築されてしまう。この仕組みを壊すのは、「このような仕組みの組織は競争に負ける」という競争原理しか見つかっていないと私は考えている。

何をもって「頑張っているとするか?」という価値観も時代とともに変遷していく。江戸時代の日本は朱子学を取り入れ、「自分のおかれた地位で周囲を満足させるべく体を動かすこと」を頑張ると規定していたと思う。農業社会ではこれが適していたし、鎖国をしていた閉鎖社会の中ではこの価値観は成功し、一定水準を保ちつつ安定した社会を作り出していたと思う。しかし鎖国ゆえに産業革命の情報が入って来ずに工業化が遅れて日本の国力は世界の中で相対的に低下していった。

明治維新以降、政府は工業化社会に向けて舵を切る。士農工商という身分制度を廃止して新しい産業への職業の移動を容易にして工業化を推し進めた。ここで重視された新しい「頑張ること」に対する価値観は「長時間労働」だと思っている。そしてこの影響は今での日本社会の中で深く根付いており、「長時間労働をする人」を「頑張る人」、だと評価する傾向は今でも日本では非常に強いと私は考えている。

しかし、この価値観は工場の流れ作業のような同じ作業を繰り返し行う人に対しては極めて有効な価値観であるが、「新しいやり方を工夫する」人にとっては必ずしも有効ではない。工夫には発想の転換が必要であり、仕事と違うことをしているときに思いつくことが多いからである。組織的に社員全員が工夫する風土を作り上げて成功しているのがトヨタであると私は思っており、欧米の企業で成功しているところは工夫するマインドの強い人が出世する仕組みを作り上げていると認識している。これから人工知能がどんどん導入されていけば、レベルの高い工夫でないと価値が無いように変化していくだろう。

要するに価値自体が変化していく社会に柔軟に適応して「頑張る人」を評価する仕組みとして競争原理が最も良く、それを上回る管理手法は見つかっていないのが現状だと思う。

競争を抑制する政策を取れば貧富の差の拡大を防ぐことができるのは分かっているが、それをやると自分の国が他国との競争に負けてしまう。ここに問題の難しさがある。


資本主義の行き詰まりを考える ー問題の認識ー

2016-10-07 15:56:59 | 社会

私は今年に入って、何人かの人に「今年は第3次世界大戦の始まりではないか」という話をした。問題意識はあるのだが解決策は見つかっていない。しかし、徐々に私の中で問題のありかは明確になってきている感じがしている。ここに書くことで自分の考えが整理できるように感じるので書いてみようと思う。書いているうちに考えが変わるかもしれないという感じがしている。

第2次世界大戦後、世界は資本主義と共産主義に分かれて対立した。資本主義の基本概念は民主主義と自由・競争、共産主義は共産党一党独裁と計画経済だと認識している。この争いは資本主義の明確な勝利に終わった。その本質は競争によるイノベーションの推進が(良くできていたとしても)計画経済を上回ったということだと思っている。要するに周到に用意した計画を立てるよりも、国民一人一人の意欲を掻き立てる体制のほうがうまくいくということが示された、ということだと思っている。

いくつかの共産主義国は共産党一党独裁の政治体制を変えずに経済には競争原理を取り入れている。このやり方はこれまでのところうまくいっているように見える。一方勝利した側の資本主義体制は行き詰まりを見せている。その基本的な問題点は二つあると思っている。

一つ目はリーマンショックに代表される、行き過ぎた資本主義である。金が金を生み、バブル状態になった。それが弾けて世界的な不況になった。各国政府は様々な手を打って、回復状態になってきているが、そうするとまた金が金を生む状態を引き起こしてしまう。そして結果として貧富の差が拡大してしまう。フランスの経済学者トマ・ピケティが指摘するようにこれは資本主義の本質とつながっており、競争すれば勝ち組と負け組が出て、貧富の差が拡大するのは避けられないと私は思っている。この影響が顕著に出たのが、今年のアメリカの民主党の大統領選挙での候補者選びでサンダース上院議員に大きな支持が集まったという現象だと思っている。

二つ目はIT技術の進歩によるデジタルデフレーションである。こちらはまだそれほど大きく取り上げられていないが、既に影響は出ており、今後はこちらのほうが深刻な問題になると思っている。インターネットが普及することにより、多くのことがスマホやパソコンでできるようになってきている。これらのサービスは殆どが無料か極めて安い価格で提供される。それができるのは、本質がソフトウェア開発であり、ソフトウェアは開発してしまえば製造コストはゼロ円なので、無料サービスにして一気にシェアを拡大するのが事業戦略として適しているからである。グーグルの検索にしても、アマゾンのネット購買にしても、これまではかなりのコストをかけないと実現できなかったことが無料でできてしまう。つまり、これまで手数料を取っていた人たちが事業にならなくなってきているのである。小売店などが利益を削って安売りに走るので、このような事業についている人達は収入が減ってしまう。これまた貧富の差の拡大につながっている。しかも、人工知能の急激な拡大により、この影響は今後急激に増大すると思われる。

二つとも結果としては貧富の差が拡大し、貧しい人が増える、という結果を生んでいる。これが現在の政権への不満を生み、イギリスのEU離脱の国民投票やアメリカのトランプ現象にみられるように、移民の排斥、America First、UK Firstと言われるような、閉鎖主義を強めるような動きにつながっている。しかし、イギリスのEU離脱決定後の動きで明らかになったように、閉鎖主義は解決策にはなっていない。つまり一部の政治家がポピュリズムと言われる人気取り政策として言っているだけで、かりにポピュリストが選挙で勝ったとしても問題が解決する方向には向かわないと思われる。同時に、アメリカでクリントン氏が勝ったとしてもやはり問題は解決せず、不満は解消されないだろうと思う。

このような解決策の見えない経済問題が高まってくる中で政治の世界は大きく2ブロックに分かれてきていると思っている。それは欧米に日本を加えた民主主義国ブロックとエリートが国を引っ張る中国やロシアのような新帝国主義国(私の造語)ブロックである。中国とロシアは特に連携しているわけではないが、国民に「国が良くなってきている」と示さないといけないので多少無理をしてでも国威発揚を目指す。欧米先進国が「非人道的だ」などと言って制裁を加えて様な国とでも自分にメリットがあれば近づいて国益を計る動きを示して居る。民主主義国ブロックの中で「自国優先」の動きが強まれば対立は一層先鋭化するだろうと思う。