真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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松井石根 「支那事変日誌」 南京攻略

2014年11月10日 | 国際・政治

OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました。”http://hide20.web.fc2.com” にそれぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。(HAYASHI SYUNREI)

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 南京大虐殺は、現在に生きる私たちには信じがたい事件である。しかしながら、その事件には多くの記録や証言がある。それらを全て虚偽として、頭から否定することは許されないと思う。だから、南京事件当時の、現地最高司令官・松井石根の「支那事変日誌」から南京攻略に関わる部分を抜粋し、考えさせられたところをまとめておきたい。

 下記「二、詔勅拝受並奉答」にあるように「上海派遣軍司令官ノ大命ヲ拝シ」た松井石根の任務は、「上海附近ノ敵軍ヲ掃蕩シ、其西方要地ヲ占領シテ上海居留民ノ生命ヲ保護スルニアリ」である。したがって、「上海居留民ノ生命ヲ保護スル」ことが可能な状況になった時点で、それを維持し持続できるように外交交渉なども含めてあらゆる手を打つことが彼の任務だったと思う。

 でも、彼はそれを消極的という。そして、「上海附近ノ支那官民ハ、・・・到ル処我軍ニ対シ強キ敵愾心ヲ抱キ」として、さらに、敵愾心を煽るような行動に出る。「斯クテ上海附近ノ我居留民ヲ保護セントスル当初ノ消極的方針ハ容易ニ之ヲ達成スルコト難ク、速ニ我陸海兵力ヲ増強シテ江南附近一帯ヲ掃蕩スルニ非サレハ、我軍派遣ノ目的ヲ達成スルコト能ハサルニ至リ、自然作戦ハ漸次ニ其局面ヲ展開シ、遂ニ第十軍ノ派遣トナリ、更ニ上海方面軍ノ編組トナリ、進テ敵ヲ江南以西ニ駆逐スルノ必要ヲ認メ、遂ニ南京攻略ニ進展スルニ至レリ」というのである。こうした考え方で軍を進めれば、極端なことを言えば、中国全土を支配下に置き、中国軍を完全武装解除しないかぎり、いつ反撃されるかわからないので、戦争を終結させることはできない、ということにならざるを得ない。

 次に、彼の「軍紀風紀」に対する考え方である。彼は、「我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ懇切ナル訓示ヲ与ヘタリ」といっているように、「軍紀風紀」に相当気をつかっていたようである。しかしながら、「軍紀風紀」は「訓示」だけで徹底できるようなものではなかったと思う。補給を無視した作戦こそが問題なのだと思うのである。
 特に、上海派遣軍はその任務が限定的であったため、彼が指摘しているように「派遣軍ノ兵力モ第三、第十一師団(二聯隊欠)ノ二個師団弱ノ微弱ナルモノ」であり、その兵站部隊は南京まで軍を進めることのできる部隊ではなかった。そのため、南京攻略に際しては、糧秣(食糧や軍馬の飼料)は、ほとんど現地調達主義にならざるを得なかった。「糧食を適中に求む」とか「糧食を敵による」といわれる戦法をとらざるを得なかったのである。
 さらに、彼も認めているように「急劇迅速ナル追撃戦」は、「南京一番乗り」を目指して進撃した全ての部隊で「我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全」につながった。したがって、すべてではないにしても、多くの場合掠奪同然のかたちで食糧が確保されたのではなかったかと思う。だから、「我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ」たのであろう。
 『南京難民区の百日─虐殺を見た外国人』笠原十九司(岩波書店)には、こうして大集団で徴発=略奪をしていく日本の軍隊を、中国民衆は「蝗軍(コウグン)」と呼んだ」とある。「イナゴの大群は真っ黒な雨雲のように太陽を覆って飛来し、地上に降りるや草木一本も残さず食い尽くし、飛び去った跡は農作物は絶滅し、広大な畑地は荒涼地と化してしまう」ので、「皇軍」をイナゴの大群の「蝗軍」(中国語でも同じ発音のようである)に変えて誹り恐れたというのである。補給の軽視が、日本兵を野蛮にした側面は否定できないと思う。

 また、バネー号(パナイ号)事件やレディーバード号事件のとらえ方にも問題があると思う。彼は、 

尚本作戦間江陰附近ニ於ケル我海軍飛行機ノ米国軍艦バネー号爆撃及南京上流ニ於ケル我陸軍部隊(橋本砲兵聯隊)ノ英国軍艦及商船砲撃事件等ヲ惹起セルハ遺憾ナリシモ、コハ敗退スル敵軍ハ多ク英米等ノ艦船ヲ利用スルモノ尠カラサリシ事実ト追撃戦斗間避ク可カラサル我部隊ノ興奮トニ因リ其過誤ヲ招来スルニ至リタル次第ニテ…

という。でも、ほんとうに「過誤」なのか、また、「過誤」ですまされるのか、ということである。バネー号(パナイ号)は爆撃・砲撃を恐れて、くりかえしその所在を日本側に連絡していたし、予防措置をとるように依頼もしていた。そして、どの角度からも見えるように星条旗をペンキで新しく上甲板の前と後の屋上に描いてもいたし、最大の軍艦旗も掲げていたというのに爆撃したのである。当日は晴天であった。さらに、決定的なのは第十軍の柳川平助中将が発した下記「丁集団命令」である。

一、敵は10数隻の汽船に依り午後4時30分頃南京を発し上流に退却中なり、尚今後引き続き退却するものと判断せらる
二、第18師団(久留米)は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし

というものである。バネー号やレディーバード号のほかにも英国砲艦クリケット号やスカラブ号も日本の海軍機による爆撃を受け、応戦したという。やはり、

尚敗走セル支那兵カ其武装ヲ棄テ、所謂「便衣隊」トナリ、執拗ナル抵抗ヲ試ムルモノ尠カラサリシ為メ、我軍ノ之ニ対スル軍民ノ別ヲ明カニスルコト難ク、自然其一般良民ニ累ヲ及ホスモノ尠カラサリシヲ認ム

ということで、それをやむを得ないことと考える軍事行動が、英米人など外国人も巻き込むことになったのではなかったか、と思うのである。しかしながら、「軍民ノ別ヲ明カニスルコト難ク」ということで、抵抗する兵のみではなく、武器を捨て敗走する兵や一般民、外国人も含めて攻撃対象とするようなことは、国際法違反であり、許されないことだと思う。そうした考え方も、南京大虐殺の背景のひとつになったのではないか、と考えさせられた。

 下記は、『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)から、松井石根(当時の現地最高司令官)の「支那事変日誌」の南京攻略に関わる部分を抜粋したものである。  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      松井大将「支那事変日誌抜粋」

一、大命拝受
 昭和12年8月富士山中静養中、同月14日陸軍大臣ノ召電ヲ受ク、上京、翌15日宮中ニ於テ上海派遣軍司令官親補ノ勅ヲ拝ス。翌16日、参謀総長ヨリ派遣軍ニ関スル奉勅命令并参謀総長ノ指示ヲ受ク。
 即派遣軍ノ任務ハ
  上海附近ノ敵軍ヲ掃蕩シ、其西方要地ヲ占領シテ上海居留民ノ生命ヲ保護スルニアリ。
 蓋シ当時ニ於ケル我政府ノ政策ハ、中支ハ勿論北支ニ於テモ努メテ時局ヲ局地的ニ解決シ、事件ノ不拡大ヲ根本主義トセルヲ以テ、上海附近ニ於テモ可成昭和7年列国ノ間ニ協定セル(1932年)停戦協定ノ精神并其取極ニ遵ヒ、時局ノ一時的解決ヲ企図セシモノナリ。従テ派遣軍ノ任務ハ上記ノ如ク極メテ消極的ニ上海附近ノ防衛ト我居留民ノ消極的保護ヲ其目的トシ、派遣軍ノ兵力モ第三、第十一師団(二聯隊欠)ノ二個師団弱ノ微弱ナルモノナリシナリ。

二、詔勅拝受並奉答

 8月17日午前10:00、予ハ宮中ニ於テ謁ヲ賜ヒ、左ノ勅語ヲ拝ス。
  朕卿ニ委スルニ上海派遣軍ノ統率ヲ以テス。宜シク宇内ノ大勢ニ鑑ミ速ニ敵軍ヲ戡定シ、皇軍ノ威武ヲ中外ニ顕揚シ以テ朕ノ倚信ニ応ヘヨ。
仍テ左ノ如ク奉答ス。
上海派遣軍司令官ノ大命ヲ拝シ優渥ナル勅語ヲ賜ヒ恐懼感激ノ至ニ堪ヘス、畏ミテ聖旨奉戴シ、惟レ仁惟レ威克ク皇軍ノ本領ヲ発揮宣揚シ、以テ宸襟ヲ安シ奉ラムコトヲ期ス。
 次テ陛下ヨリ、今後派遣軍ノ任務ヲ達成スル為ノ方針如何、ト御下問アリタルニ依リ予ハ直ニ
 派遣軍ハ其任務上密接ニ我海軍ト協同シ、所在我官憲特ニ列国外交団并列国軍トノ連絡ヲ密ニシ協力ヲ以テ速ニ上海附近ノ治安ヲ恢復センコトヲ期ス。
ト奉答セルニ、陛下ハ御満足気ニ之ヲ嘉納セラレタリ。


三、上海附近ノ戦斗ノ経緯
 以上ノ我政府及統率部ノ方針ニ遵ヒ、予ハ上海附近ノ戦斗ニ際シ特ニ左記方針ヲ採リ、部下各隊ニ対シテモ常時此方針ノ徹底ニ努力セリ。即
一、上海附近ノ戦斗ハ専ラ我ニ挑戦スル敵軍ノ戡定ヲ旨トシ、所在支那官民ニ対シテハ努メテ之ヲ宣撫愛護ス可キコト
二、上海附近ノ戦斗ニ依リ、列国居留民及其軍隊ニ累ヲ及ホサゝルコトニ専念シ、特ニ列国官憲及其軍隊ト連絡ヲ密接ニシ彼我ノ誤解ナキヲ期スルコト。
 然ルニ上海附近ノ支那官民ハ蒋介石多年ノ抗日ノ精神相当ニ徹底セルニヤ、到ル処我軍ニ対シ強キ敵愾心ヲ抱キ、直接間接居留民ガ敵軍ノ為メニ我軍ニ不利ナル諸般ノ行動ニ出テタル

ノミナラス婦女子スラモ自ラ義勇軍要員トナリ又ハ密偵的任務ニ当レルモノアリ、自然作戦地域ハ極メテ一般ニ不安ナル状勢ニ陥リ、我作戦ノ進捗ヲ阻害セシコト尠カラス。殊ニ蒋介石ハ漸次支那各地ヨリ其軍隊ヲ江南地方ニ集結シ、我軍ノ作戦初期ニ於テ之ヲ撃攘スルノ計画ヲ有セシ如ク、所在支那軍ハ屡々夜襲其他ノ方法ヲ我軍ニ向ヒ攻勢ヲ採ルニ努メタリ。

 「因ニ9月17日頃ニ於ケル支那軍ノ江南地方ニ集中セル兵力ハ既ニ43師ニ及ヒ尚支那各地ヨリ約20師ヲ集結シツツアリタリ」(欄外)

 斯クテ上海附近ノ我居留民ヲ保護セントスル当初ノ消極的方針ハ容易ニ之ヲ達成スルコト難ク、速ニ我陸海兵力ヲ増強シテ江南附近一帯ヲ掃蕩スルニ非サレハ、我軍派遣ノ目的ヲ達成スルコト能ハサルニ至リ、自然作戦ハ漸次ニ其局面ヲ展開シ、遂ニ第十軍ノ派遣トナリ、更ニ上海方面軍ノ編組トナリ、進テ敵ヲ江南以西ニ駆逐スルノ必要ヲ認メ、遂ニ南京攻略ニ進展スルニ至レリ。

 而カモ最モ遺憾ナリシコトハ本作戦ニ対スル列国ノ態度ナリ。蓋シ支那ニ権益ヲ有スル列国カ本作戦ニ尠カラサル寒心ヲ有スルハ勿論ナリト雖彼等ハ1932年(欄外)「昭和7年協定」ニ於ケル列国ノ停戦協定ヲ協力支持シテ事件ノ発展ヲ阻止スルノ方針ニ出テスシテ、支那政府及其軍隊ニ対シ同情ヲ有スルノ余リ直接間接ニ支那軍ノ作戦ニ便宜ヲ与ヘ、時ニハ之ヲ援助スルノ行動モ尠カラス。殊ニ英、仏軍隊ノ行動ハ我軍ノ作戦ニ許多ノ不便ヲ与ヘタリ。而カモ我軍ハ隠忍只々列国官憲及其軍隊トノ諒解ヲ得ルニ努メ、我作戦ヲシテ列国官民ニ被害ナカラシメン為メ、有ラユル不便ヲ忍ヒテ事態ノ国際的紛糾ヲ招クニ至ラサルコトヲ期シタリ。

四、南京攻略ニ至ル作戦

 我軍ノ上海附近ノ作戦ハ派遣軍兵力ノ増派ニヨリ頑強ナル敵ノ抵抗ヲ排除シツヽ、多大ノ困難ト犠牲ヲ冒シテ10月25日漸ク大場鎮附近ノ敵ヲ駆逐シテ上海市及其東南方地域ヲ占領シ、上海在住我居留民及海軍ヲ救フヲ得タリ。然レトモ上海西南地域ニハ尚相当ノ敵軍抵抗ヲ持続スルノミナラス、淅江省方面ヨリ新ニ其兵力ヲ上海方面ニ派遣増強シツヽアリ、又蘇州、常熟附近ニハ予テ準備セル陣地アリ、南京トノ間ニ三重の陣地ヲ構築シテ江南地方ノ防備ヲ急キ、更ニ其兵力ヲ増強シツヽアルノ模様ヲ以テ、我統率部ハ江南地方ヲ確守シテ同地方ノ治安ヲ保持スルノ必要ナルヲ認メ、遂ニ11月下旬ニ至リ上海方面軍ヲシテ南京攻略ヲ決行スルニ決ス。

 曩ニ淅江省東北岸ニ上陸中ナリシ第十軍(柳川中将ノ率ユル三師団)及元上海派遣軍(朝香宮中将率ユル5個師団)ヲ上海方面軍司令官タル予ノ統率ニ属シ、11月上旬ヨリ江南及東淅地方ニ現在セル敵軍ヲ駆逐シテ南京ヲ攻略スルコトトナレリ。

 於此予ハ直ニ部下両軍ニ命令シ、各々当面ノ敵ヲ駆逐シテ南京東方紫金山ノ線ニ進出スルニ決シテ夫々追撃ヲ電署(ママ)セリ。然レトモ本作戦ハ固ヨリ我政府本来ノ政策ヲ逸脱スルノミナラス、上海附近作戦ノ経緯ニ鑑ミ今後江南地方ニ於ケル大規模ナル作戦ノ実行カ、今後ニ於ケル日支両国ノ関係ニ大ナル影響ヲ及ホスヘキヲ憂慮シ、右追撃命令ニ対シ充分ナル考慮ヲ払ヒ、特ニ我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ懇切ナル訓示ヲ与ヘタリ。本訓示中特ニ予自ラ加筆セル本文左ノ如シ。

 敵軍ト雖既ニ抗戦意志ヲ失ヒタルモノニ対シテハ最モ寛容慈悲ノ態度ヲ採リ、尚一般官民ニ対シテハ常ニ之ヲ宣撫愛護スルニ努メ、皇軍一過所在官民ヲシテ皇軍ノ威徳ヲ仰キ、欣テ我ニ帰服セシムルノ概アルヲ要ス。

 加之南京攻撃戦ハ自然同地官民ニ許多ノ犠牲ヲ来タスヘク、尚孫中山陵、明ノ高陵其他南京城内外ノ文化的史跡等ノ損害ヲ招クコトアルヘキヲ慮リ、各軍ニ令シテ先ツ南京城外ニ於テ其隊伍ヲ整ヘ正々堂々秩序アル入城ヲ行ハシメント欲シ、夫々懇切ナル論示ヲ与フルト共ニ、南京敵軍ニ対シ懇切ナル勧降文ヲ散布シ、努メテ平和的手段ニ依リ南京攻略ノ目的ヲ達センコトヲ欲シタルモ敵軍ノ態度之ニ適ハス、飽迄南京城ノ防衛ヲ行ヒタルヲ以テ、遂ニ南京城内外ニ於テ相当熾烈ナル戦斗ヲ惹起シ、自然戦禍の及フ処甚大ナルニ至リシハ遺憾ノ至ナリ。

尚敗走セル支那兵カ其武装ヲ棄テ、所謂「便衣隊」トナリ、執拗ナル抵抗ヲ試ムルモノ尠カラサリシ為メ、我軍ノ之ニ対スル軍民ノ別ヲ明カニスルコト難ク、自然其一般良民ニ累ヲ及ホスモノ尠カラサリシヲ認ム。

五、我軍ノ暴行、奪掠事件

 上海附近作戦ノ経過ニ鑑ミ南京攻略開始ニ当リ、我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ、各部隊ニ対シ再三留意ヲ促セシコト前記ノ如シ。図ラサリキ、我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。
 是レ思フニ

一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。

等ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。因テ予ハ南京入城翌日(12月17日)特ニ部下将校ヲ集メテ厳ニ之ヲ叱責シテ善後ノ措置ヲ要求シ、犯罪者ニ対シテハ厳格ナル処断ノ法ヲ執ルヘキ旨ヲ厳命セリ。然レドモ戦闘ノ混雑中惹起セル是等ノ不詳事件ヲ尽ク充分ニ処断シ能ハサリシ実情ハ巳ムナキコトナリ。

 因ニ本件ニ関シ各部隊将兵中軍法会議ノ処断ヲ受ケタルモノ将校以下数十名ニ達セリ。又上海上陸以来南京占領迄ニ於ケル我軍ノ戦死者ハ実ニ2万1300余名ニ及ヒ、傷病者ノ総数ハ約5万人ヲ超ヘタリ。(欄外)
 因ニ我軍南京攻略ニ関シテハ予ハ最初先ツ軍ヲ蘇州、湖州ノ線ニ停止セシメ、隊伍ノ整頓ト補給ノ進捗ヲ図リ、徐ロニ正々堂々ノ攻撃再挙ヲ行ハン事ヲ欲シタリシカ、我大本営全般ノ作戦計画上上海方面軍ノ一部ヲ他方面ニ転用スルノ計画ナリシト、敗退セル敵軍ノ江南地方ニ其隊伍ノ整理スル遑ヲ与ヘサルヲ有利トスル関係上遂ニ急劇快速ノ進撃ヲ決行スルニ決セリ

 尚本作戦間江陰附近ニ於ケル我海軍飛行機ノ米国軍艦バネー号爆撃及南京上流ニ於ケル我陸軍部隊(橋本砲兵聯隊)ノ英国軍艦及商船砲撃事件等ヲ惹起セルハ遺憾ナリシモ、コハ敗退スル敵軍ハ多ク英米等ノ艦船ヲ利用スルモノ尠カラサリシ事実ト追撃戦斗間避ク可カラサル我部隊ノ興奮トニ因リ其過誤ヲ招来スルニ至リタル次第ニテ、予ハ本件ニ対シテモ各部隊長ニ対シ、厳重ナル警告ヲ与ヘタリ。

 又我軍ノ南京入城直後ニ於ケル奪掠行為ニ対シテハ特ニ厳重ナル調査ヲ行ヒ、努メテ之ヲ賠償返還セシムルノ方ヲ講シタリ。特ニ英米仏其他列国官民ニ対スル賠償ニ関シテハ我外交官憲ヲ介シテ努メテ友誼的ニ本件ノ善処ヲ図レルモ、戦場内ニアル列国人ノ財産生命カ自然戦禍の累ヲオケタルコトハ巳ムナキ次第ト云ハサルヲ得ス。

六 本作戦ノ前後列国軍民トノ交渉ノ大要・・・ 略

 

 ※ところどころ空行を挿入したり、漢数字を算用数字に変えたり、ママとある漢字を変更したりしています。





 

 


 

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